幽霊だって、推し活したい!
ざまぁ全力マン
1:幽霊になりました
生きる理由は推し。死んだ理由は、社畜OLの積み重なりすぎた日常だった。終電、寝不足、感情の置き場のなさ。今日はもう限界だな、と思った回数を正確に数えられなくなった頃、私は会社の階段を踏み外した。身体が浮く感覚のあと、視界が一瞬だけ白くなった。落ちる瞬間、怖いより先に、ああこれで全部終わるんだ、という妙な安堵が胸に広がった――はずだった。
目を開けると、私は半透明の状態で自分の部屋に立っていた。輪郭が曖昧で、空気と自分の境目が分からない。見慣れた天井、散らかしたままの床、足元に絡まった充電ケーブル。引っ越してきて半年。無理をして払っている家賃、狭い間取り。それでも、ここにいられるだけでいいと思えた。このマンションに住めている、それだけで私の人生は少し報われていた。《LUMINØUS(ルミナス)》のセンター、レンは隣の部屋に住んでいる。そう意識しただけで、胸の奥がじんわりと熱を持つ。死んだはずなのに、感情だけはやけに生々しい。
レンの住んでいる場所が分かったのは、ライブ終わりだった。アンコールが終わり、会場の熱が一気に冷めていく中、裏口に停まったミニバンに彼が乗り込むのを見た瞬間、思考より先に身体が動いた。私は少し離れた場所でタクシーを拾った。同じ方向に帰るだけ。ただそれだけだと心の中で何度も繰り返しながら、運転手に指示を出した。夜の街は流れていく。信号、テールランプ、知らない交差点。途中でミニバンを見失ったときは、世界から音が消えたみたいになった。
それでも私は諦めきれなかった。雑誌のインタビューで語られた生活の条件、過去の住まいに関する何気ない発言、動画の端に混じる環境音。断片を一つずつ拾い集めて、少しずつ確信に近づいていった。そして三件目に張り込んだマンションで、とうとう見つけた。帽子とマスクの下の輪郭を、私は何万回も画面越しに見てきた。見間違えるはずがなかった。
レンがどの部屋に住んでいるのかは、張り込みをする中で分かった。ある夜、エントランスに入っていく背中を見た瞬間、身体が動いた。反射的に後を追い、住人であるかのような顔をして、そのまま一緒に中へ滑り込む。エレベーターに並んで乗り込んだ。狭い箱の中で、肩と肩の距離がやけに近い。彼の体温が空気ごと伝わってくる気がして、喉の奥がひりついた。血の気がすっと引いて、遅れて頭の中が一気に熱くなる。電子音が鳴り、数字が一つずつ変わっていく。その間が、異様に長く感じられた。
五階。扉が開いた瞬間、レンがサングラス越しにこちらを見た。ほんの一拍、でも確かに目が合った。視線が絡んだその一瞬で、頭の中が真っ白になる。私のやっていることが見透かされたみたいで、でも同時に、ちゃんと「見られた」ことが嬉しくて、胸の奥がぎゅっと掴まれた。レンはすぐに視線を逸らし、譲るように身を引く。その何気ない仕草が、私に向けられたものだと思った途端、身体の内側から熱が込み上げてきた。膝が震えそうになるのを必死に堪える。足元に意識を集中させて、倒れないことだけを考える。
先にレンを行かせ、少し間を空けて私も同じ階で降りた。心臓の音がうるさくて、背中に張りつく空気まで意識してしまう。何でもない顔を作って、逆方向へ歩く。視線は前に向けたまま、視界の端で彼の動きを追う。レンが立ち止まり、鍵を取り出し、ドアに差し込む。その横にある数字が、妙にはっきりと浮かび上がった。505。その数字を理解した瞬間、足の裏から感覚が抜け落ちた。
部屋を決めるとき、たまたま隣の506が空いていた。書類にサインをしながら、ペンを持つ手がわずかに震えた。偶然にしては出来すぎている。怖い、と思ったのに、やめようとは一度も思わなかった。506号室に住むようになって、私はしょっちゅう壁に耳をくっつけた。レンの部屋と私の部屋を隔てている、たった一枚の壁。そこからかすかな生活音が伝わってくる。足音、床のきしむ音、水の流れる気配、何かを置く鈍い音。意味のある音じゃないのに、それだけで胸がゆっくり落ち着いていく。今、この瞬間も同じ建物で、同じ夜を過ごしている。その事実を確かめるみたいに、私は何度も壁に触れた。
ある晩、壁越しに、かすかに聞き覚えのあるメロディーが漏れてきた。私の一番好きな、レンのソロ曲「One More Step」。音程は曖昧で、ほとんど息みたいな声。それでも間違えようがなかった。気づいた瞬間、背中にぞわっと鳥肌が立つ。胸が締めつけられるほど嬉しいのに、同時に、踏み込んではいけない場所に足を置いてしまったような感覚もあった。私は壁に額を押しつけたまま、涙を流してしばらくその場から動けずにいた。
しばらくして、私はレンの部屋に複数の監視カメラを設置しようと決めた。ダメだと分かってても、自分の欲求をおさえられなかった。決めてからは、ずっとその瞬間を待っていた。焦りはなかった。ただ、来るべきタイミングを静かに待っていた。レンは少しおっちょこちょいだ。インタビューでも、忘れ物の話をよくしていた。鍵だって、いつか閉め忘れる。根拠のない断言なのに、なぜか確信だけは揺るがなかった。
その日は、突然やってきた。玄関の鍵が掛かる音がしなかった夜。心臓は跳ねたのに、身体は不思議なくらい落ち着いていた。高揚と冷静さが、ぴたりと重なっていた。短い時間で、目立たない場所に、生活家電に紛れさせていく。カーテンレールの裏、観葉植物の鉢の縁、カラーボックスの影などなど。最近のカメラは性能がいい。あらゆる角度からレンの生活の輪郭がくっきりと浮かび上がった。
私はレンに触れていない、脅かしていない、何も奪っていない。そうやって自分で引いた境界線にしがみつきながら、ただレンの日常を誰よりも近いところから見ていた。それだけで胸が満たされていくのを、止められなかった。今はもう死んでしまったけれど、それでもこうしてまたレンを感じられる。会社に行く必要もないし、24時間レンを見ていられると思うと胸が高鳴る。
そのとき、私のスマホが震えた。
《幽霊アカウントが作成されました》
《ユーザー名:MAKI_GHOST32》
《ボーナスで、100ポイントプレゼント!》
幽霊アカウント? 32……私の年齢? ポイントって何? 馬鹿みたいだと思ったのに、画面から目が離れなかった。本当に幽霊なら、という考えが浮かんだ瞬間、背中を冷たいものがなぞった。本当に幽霊なら、レンのすぐそばに、ずっといられるんじゃないか。そう思った途端、視界が引き伸ばされた感覚がした。壁に触れた感触はなく、ただ、すっと通り抜けた。怖さはなかった。むしろ、ずっと前からこうなると決まっていたみたいだった。
レンの部屋は、知っているはずなのに、直接見るとまるで別の場所みたいだった。匂いも温度も、全部が生々しい。彼の呼吸のリズムが、すぐ隣で静かに上下している。一定の間隔で胸が持ち上がって、また落ちる。それを数えている自分に気づいて、喉が鳴った。ここで生きて、ここで眠っている。その事実が、胸の奥をぎゅっと締めつける。私はあろうことか、音を立てないようにそっとベッドに入った。シーツがわずかに沈む。その小さな変化だけで、全身の神経が張り詰める。彼のすぐ隣に横になる。添い寝、という言葉が一番近い。人生で初めての添い寝。
顔を向ければ、レンの寝顔がすぐそこにあった。無防備で、思っていたより幼い。ステージの上では見せない、力の抜けた表情。少し開いた唇や、頬に落ちる睫毛の影を見ていると、胸の奥がきゅっと縮む。……可愛い、と思ってしまった。気づけば、手を伸ばしていた。レンの頬に触れようとして、指先をそっと近づける。あと少しと思った瞬間、指が彼の頬をすり抜けた。確かにそこにあるはずなのに、何の抵抗もなく、空気をかき混ぜるみたいに通り抜けてしまう。触れた感触はないのに、触れようとした感情だけが、遅れて胸に残った。
もう一度、今度はもっと慎重に手を伸ばす。それでも結果は同じだった。皮膚の温度も、柔らかさも、全部想像の中にしかなくて、現実には何一つ掴めない。ああ、私は本当に人ではなくなったんだ。その事実が、じわじわと身体の内側に染みてくる。触れたい気持ちだけが、行き場を失って宙に浮く。触れられないのに、こんなにも近くにいる。残酷なくらいの距離感に、胸の奥がきしんだ。心臓は止まっているはずなのに、とくんと何かが鳴った気がして私は手を引っ込めた。
そっと名前を呼ぶ。「レン」。喉を震わせたはずの声は、すぐ近くで霧散して、何も残さなかった。耳に返ってくる反響すらない。ただ空気が、何事もなかったみたいに静まり返る。分かっていたはずなのに、その無反応が思った以上に堪えた。もう一度、名前を呼んだ。「……レン」。今度は、ほんの少しだけ声に力がこもった。届くはずがないと分かっているのに、どこかで、まぶたが揺れるかもしれないと期待してしまう。彼の呼吸のリズムだけが変わらず続いていて、それが余計に残酷だった。私は言葉を失ったまま、喉の奥に残る振動を飲み込む。呼んだ痕跡すら残らない。その事実が、胸の内側を静かに削っていった。
だから、レンのスマホを覗いた。画面に触れようとした瞬間、なぜだかロック画面が開いた。しかもLINEを開けた。レンのIDとアカウント名を確認し、指が震えた。自分のスマホからメッセージを送るために文章をつづる。「レン、好きだよ」と書いてやっぱり消し「初めまして、真紀です」と送った。送信した瞬間、胸の奥に、やっと届いたという実感が広がった。通知音に、彼が小さく身じろぎする。「……ん……?」低く掠れた声。私の体をレンの腕がすり抜ける。画面を一度だけ確認して、「誰だよ……」と呟き、また眠りに落ちる。私の存在には、一切気づかなかった。ただその一連の反応が、私の中で何度も再生された。
生きていた頃、私は大勢のファンの一人だった。ライブの列に並び、周りと同じ言葉を同じタイミングで投げる。一括りのファンでしかなかった。どれだけ時間やお金を使っても、私の存在は数の中に溶けて、形を持たなかった。でも今は違う。私はレンに、メッセージを送れる。指先を動かせば言葉が直接届く。名前を呼んでも届かなかった声の代わりに、文字がある。レンは確かに、私に反応してくれる。その事実が、胸の奥にじんわりと広がって、熱を持つ。満たされていく感覚が、抑えきれずに溢れそうになる。
ふと、監視カメラのことを思い出す。レンズ越しに切り取られた映像、ほんの少し遅れて届く生活の断片。そんなものはもう必要ない。全部外そう。今レンはすぐ隣にいて、同じ夜の静けさを共有している。シーツの擦れる微かな音も、呼吸の間も、全部が同時にここにある。死んだはずなのに、頭は冴えていた。流れる時間が意味を持ち、世界の輪郭がくっきりと立ち上がる。色も音も匂いも手触りも、生きていた頃よりずっと鮮明だった。
そのとき、私のスマホに通知が表示された。
《恐怖ポイント+1》
《予期しない異変による軽度の不安》
《現在の恐怖ポイント:96》
続けて、淡々と説明が並ぶ。
《恐怖ポイントは、あなたの行為によって人間が不安や恐怖を覚えた際に付与されます》
《強度に応じて獲得量が変動します》
《ポイントは現世への干渉、デジタル操作、特典に使用可能です》
次の更新予定
幽霊だって、推し活したい! ざまぁ全力マン @zamazen
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