宇宙の数式
船越麻央
ラヴクラフト未発表原稿⁉ 未知の数式との遭遇
私はこの狂気に満ちた深遠で幻惑的な恐るべき記録を残す。おそらく私は彼等から逃げ切ることは叶わぬ。いや、そもそも人類がこの地球の支配権を奪還される時が来たのだ。私は傲慢にも禁断の領域に足を踏み入れ、邪悪な旧支配者の数式を解いたというおぞましい結果に恐怖を覚える。暗黒の深淵はその忌まわしい扉を開いた。星の彼方より這い寄る混沌の声が聞こえる。私があの狂える詩人アブドゥル・アルハザードと同じ運命をたどるどうかは神のみぞ知るところだ。この記録がネクロノミコンと共にアーカムのミスカトニック大学付属図書館に残されることを願うのみだ。
中東の砂漠の熱風が乾いた喉を焦がし、視界の端で揺らめく陽炎が現実と幻覚の境界をますます曖昧にさせていく中、私たちはついに死の風が吹くというその場所へと辿り着いた。砂漠に横たわる呪われた廃都での三ヶ月に及ぶ過酷な発掘調査の末に砂岩の崩れた壁の奥に鎮座していたのは、この荒涼とした風景にはあまりに不似合いな銀白色に輝く金属製の箱であった。四十年近く考古学という学問に携わってきた私だがその箱を手に取った瞬間、掌を通して伝わってくる奇妙な温もりに背筋を這い上がるような戦慄と恐怖を禁じ得なかった。それは無機質な金属の冷たさではなく、まるで悠久の太古の心臓が今なお静かに鼓動を続けているかのような、有機的な熱を帯びていたのである。
「先生、これは一体……」
助手のダーレスが乾燥でひび割れた唇を震わせながら問いかけてきたが、私に答えられるはずもなかった。ただその箱の表面に刻まれた見たこともない奇怪な幾何学的文様が、不吉な予感をはらんで私の網膜に焼き付いたことだけは確かだ。
大学の研究室に戻り、空調の効いた無菌的な空間でその箱と対峙したとき、あの禁断の砂漠での熱気は遠い過去の出来事のように思えたが、箱から発せられる奇妙な温もりだけは依然として消えなかった。慎重に開封された箱の中には、三枚の極薄の未知の金属板が収められており、その表面には微細なエッチングで不可思議な文字と複雑怪奇な数式が刻み込まれていた。「これは単なる装飾ではない、何らかの高度な情報伝達の手段だ」と言語学者で古代碑文字の権威者スミスは唸るように言い、眼鏡の奥の瞳を鋭く細めた。彼のデータベースにあるどこの古代文字とも一致しないという驚愕の事実は、私たちの興奮を焦燥へと変えていった。
「見てください、この数式を」
数日後の深夜、数学者のハワードが血走った目で私の机に歩み寄り金属板の拡大写真を叩きつけた。彼の指先は震えておりそれは過労のせいだけではないようだった。
「円周率や無限大に似た記号が散見されますが、それらの配置が狂っている。いや、狂っているのではなく、私たちが知る数学の体系とは根本的に異なる次元で構築されているのです。これは方程式のようだが、変数の定義が……理解を超えている」
「理解を超えているとは……どういうことだ」
「これは挑戦状ですよ、人類の知性に対する」
ハワードの声は上ずり、狂気じみた熱情がその言葉の端々に宿っていた。それからというもの私たちは時計の針が進むのも忘れ、あらゆる可能性を調べその解読に没頭した。未知のものが決然として私たちに迫り始めた。窓の外が白み始め、街が活動を再開する喧騒が聞こえてくる頃、ハワードが突然椅子を蹴り倒す勢いで立ち上がったのは、研究開始から一週間が過ぎた夜のことだった。
「わかったぞ……これは数学的な方程式ではない! 時間を記述するための言語だ!」
彼がホワイトボードに書き殴った説明は、常人の理解を遥かに超えた飛躍を含んでいたが、その論理の核にある恐るべき真実は私の考古学者としての知識と見識を根底から粉砕した。この数式は特定の時間経過を示すものであり、その計算結果が指し示す年代は従来の人類史の定説よりも五千年も古い文明の存在を示唆していたのである。しかもそこに併記された文字情報は明らかに「人類の起源」以前の知的生命体による記録であった。
「五千年前じゃない、もっとだ……これは一万二千年前、いや、もっと以前の……」
スミスが蒼白な顔で呟き、金属板を見つめるその目は見てはならない闇の深淵を覗き込んでしまった者のそれだった。
我々の学会での発表は、予想通り激しい称賛と懐疑の嵐を巻き起こしたが、独立機関による綿密な検証が私たちの発見を支持する結果を出したとき、世界は驚愕に包まれた。私たちは歴史を書き換えたのだ。だが、その栄光の影で、私は得体の知れない寒気が日増しに強くなっていくのを感じていた。
数式の分析が進むにつれ、それが単なる年代記や歴史書ではないことが明らかになってきたからだ。その構造には、相対性理論や量子力学がようやく辿り着いた宇宙の基本法則、さまざまな次元の多元的並列、さらには時空そのものの歪みを記述するような、究極の深遠かつ冷徹な真理が内包されていたのである。
ある晩、研究室に一人残り薄暗い照明の下で数式を見つめていた私は不意に奇妙な感覚に襲われた。まるでこの数式そのものがこちら側を観察しているかのような視線を感じたのだ。窓の外を見ると街灯の光が届かない暗がりに濃密で粘着質な黒い影が佇んでいた。それは人の形のようでありながら輪郭が絶えず揺らめき、光を貪欲に吸い込んでいるような異様な存在感を放っていた。
翌朝、研究室に入った瞬間私は異変に気づいた。机の上に置かれていた金属板が昨日までの銀白色を失いまるで壊死した皮膚のようにどす黒く変色していたのである。
「変色している……酸化したのか?」
スミスが恐る恐る手を伸ばしかけすぐに引っ込めた。金属板の表面に昨日までは存在しなかった新たな記号がまるで病巣が広がるように浮き上がっていたからだ。それは誰かが刻んだものではない。金属板そのものが内部から湧き出る何かによって書き換えられているのだ。
「増えている……文字が増えているんです、フィリップス先生!」
ハワードの叫び声にはもはや研究者の冷静さは微塵もなく、純粋な恐怖だけが張り付いていた。
「放程式の項が勝手に書き足されている。これは計算ではない、カウントダウンだ。何かが近づいている……」
その夜から、世界は緩やかにしかし確実に狂い始めた。ニュースは連日世界各地の遺跡で同様の金属板が発見され、それらが一斉に変色を始めているという怪現象を報じた。エジプト、メキシコ、南極……場所は違えど、刻まれたメッセージは同一であり、その進行状況も完全に同期していた。それはまるで地球という惑星全体に張り巡らされた神経網が、一斉に警報を発し始めたかのようだった。
私は研究室の窓から夜の闇に沈むキャンパスを見下ろした。あの黒い影は最早隠れようともせず、街灯の下、建物の陰、あらゆる暗がりで蠢いていた。そいつらは物理的な実体を持たない影法師でありながら、確かにそこに「居る」のだ。古代の支配者たち、人類が直立歩行を始める遥か以前星々の彼方から飛来し、この地球を絶対的な恐怖で支配していた偉大なる古き神々の末裔たちが、長い眠りから覚めようとしている。
「先生、金属板が……」
スミスの声に振り返ると黒化した金属板が激しく振動し、研究室の備品がガタガタと音を立てて揺れ始めていた。蛍光灯が断末魔のように明滅し部屋の中と外の闇が混ざり合っていく。私は震える手で金属板を掴んだ。かつての温もりは完全に失われ、そこには絶対零度の宇宙空間を思わせる、魂を凍らせるような冷気が宿っていた。その冷たさは私の指先から血管を通り心臓へと直接流れ込んでくるようだった。
「来るぞ……奴らが戻ってくる」
私の口から漏れた言葉は自分の意志とは無関係に紡がれたものだった。金属板の表面で最後の記号が赤黒く発光し、ハワードが悲鳴に近い声でその意味を読み上げた。
『我々は眠りにつく。だが星辰が正しい位置に戻る時、我々は再び目覚める。そしてこの世界を再び我らのものとする』
その瞬間、研究室のドアが音もなく開き廊下の闇が粘着質な触手のように部屋の中へと雪崩れ込んできた。「逃げろ」と叫ぼうとした私の喉は恐怖で凍りつき、ただ目前に迫る絶対的な絶望を目を見開いたまま受け入れることしかできなかった。醜悪な太古の神々が到来したのだろうか。窓の外では無数の黒い影たちが狂気じみた舞踏を繰り広げながら、かつての邪悪な支配者の帰還を歓喜していた。今まさにこの地上は恐怖と狂乱の世界とに変わって、忘れ去られた太古の恐怖が再びこの世界を覆い尽くそうとしていたのである。
了
宇宙の数式 船越麻央 @funakoshimao
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