新訳・シャーロックホームズの冒険
シシャ猫
第1話 緋色の研究①
和村純という人物
私は和村純――日本の東北、雪国で生まれ育った。
父は開業医で、母は穏やかな人だった。幼い頃は、冬になると家の前の坂が凍り、ソリ遊びの途中で転げては笑っていた。
けれど、同時に私は幼い頃から、「女でありながら医者になりたい」などと言えば、親戚中から眉をひそめられるような時代の子でもあった。
それでも私が医学部への道を選んだのは――
いや、選ばざるを得なかったのは、ひとえにあの雪国で病に苦しみながら亡くなっていった人々の姿が、今も脳裏から離れなかったからだ。
東京の帝国大学医学部に進学できたのは、奇跡ともいえる幸運だった。さらに縁がつながり、国費の支援を受けてロンドンへ留学することが決まったとき、私はまだ夢を見ていた。白衣に身を包んで大英帝国の近代医学を学び、いずれは日本にその知識を持ち帰る。
そうすれば、東北のあの寒村にだって、救える命が増えるはず――そう信じていた。
だが、現実のロンドンは、夢見た都とはあまりに違っていた。
街は常に霧に包まれ、空はどこまでも灰色だ。石畳を馬車が走れば泥と糞が跳ね、空気は石炭の匂いが混じっている。
最初の一ヶ月、私はグランドホテルの小部屋を借りていた。絨毯は厚く、ポットからは香り高い紅茶が出てきたが、それも一泊ごとの出費に比例して、確実に私の財布をすり減らしていった。
大学の講義は、実に刺激的だった。
当時の日本ではまだ十分に整備されていなかった微生物学や解剖学の分野が、ロンドンでは当たり前のように教えられていた。
教授たちは口を開けば英語かラテン語。私は持参したノートに必死に訳語を書き込み、他国の学生たちの中で肩をすくめながら座っていた。
「和村、君はその小柄な体で、なぜそんなにじっと遺体の中を見つめていられるんだ?」
そう声をかけられたことがある。
私にとって死体は怖いものではなかった。
むしろ、“生”に関わる知識がそこにあるのだと思えば、震えなど起きなかった。
だが、いかに勉強が楽しくとも、生活は苦しくなる一方だった。
滞在費を抑えるために、私はホテルを出て場末の安宿へ移った。安宿の部屋には小さな机と洗面台があるきりで、暖房も頼りなく、夜は凍えるような静寂の中で教科書をめくっていた。
ロンドンは大都会だ。人は多いのに、孤独が深い。
隣の部屋の英国人学生とは言葉の壁が厚く、顔を合わせても軽い会釈だけで、互いの名前すら知らなかった。
東北の、あの雪の降る町――
火鉢にあたりながら祖母が語った昔話の夜を、ロンドンの冷たい夜に思い出すことがあった。
人の声が、恋しかった。
その日、ロンドンの空はいつもより霧が濃かった。
セント・バーソロミュー病院の裏手を歩いていた和村純は、背後から名を呼ばれて振り返った。
「和村さんじゃない?――やっぱり!」
「あ……伊東さん!」
帝国大学時代の同期であり、今は同じく医学留学生としてロンドンに滞在している伊東しのぶ。
彼女の明るい笑顔を見た瞬間、和村の胸に積もっていたものがふっと和らいだ。
「久しぶりね。今、少し時間ある?」
「ええ、ちょうど講義も終わったところ」
「なら、ちょっとパブに寄っていかない? 温かい麦酒でも飲みながら――あなたと話したかったの」
霧の中を抜け、二人は〈ラフィング・ストーン〉という小さなパブに入った。
木製の梁と煤けた壁紙。暖炉にくべられた薪の香りと、わずかに焦げたフィッシュパイの匂いが空気を満たしていた。
「私、ローストラムとエール。あなたは?」
「同じので」
注文を終え、二人は窓際の丸いテーブルに腰を下ろした。和村が口を開いた。
「……懐かしいわね。こうして顔を見て、母国語で話せる人がいるってだけで、ほっとする」
「わかるわ。私も最初の頃は、毎晩ひとりで泣きたくなったもの。教授の言ってることは速すぎるし、薬草の名前は聞いたことないし……」
しのぶが肩をすくめると、和村もつい笑ってしまった。
「でも、あなたは馴染んでるように見える。私なんて、いまだにホテル暮らしで……もうすぐお金も尽きそう」
「ホテル?」
「最初はグランドホテル。でもすぐに安宿に移って……今は、暖房もない小さな部屋。食費を削ってるから、最近はずっとスープとパンだけ」
しのぶは驚いたように眉を上げた。
「それは大変。言ってくれればよかったのに」
「頼れる人が、こっちにはまだ少なくて」
「――それなら、ちょうどいい話があるわ」
「え?」
「知り合いがね、下宿先でルームメイトを探してるの。場所はベイカー街。家賃は格安だし、部屋も広い。なにより……ちょっと変わってるけど、刺激的な人よ」
和村は思わず身を乗り出した。
「変わってるって、どんなふうに?」
「たとえば、血痕が検出できる薬品を作って喜んでたり、遺体の変化を時間ごとに記録してたり……でも、話してて退屈しないの。言葉の通り、世界の“裏側”を見てるような気がする」
「……それ、変わり者どころか、変人じゃない?」
「そうかもしれない。でも、誠実で頭のいい人よ。論理で物を見るのが得意な人。――あなたなら、きっと気が合うと思う」
外では霧がますます濃くなっていた。
だが和村の心の中には、不思議と温かな火が灯っていた。
私は考えた。
講義を受け、ノートを取り、試験を受けるだけの日々――それがこの先も続くだけなら、私はきっと、ロンドンの片隅で静かに擦り切れていくだけだろう。
だけど、もしかしたら――
“変わっているが面白い”というその人物との出会いが、私をまだ見ぬ世界へ導いてくれるかもしれない。
それが、シャーロック・ホームズとの出会いへと繋がってゆくことなど、当時の私は知る由もなかった。
霊安室の奇人
「案内するわ。たぶん、いま地下の霊安室にいると思う」
伊東しのぶは、そう言って病院の奥へと和村純を導いた。
この古い病院の地下は、外の喧噪とは隔絶されていて、石造りの廊下に足音がぽつぽつと響くだけだった。
「……で、その人、なにをしてるの?」
「まあ、百聞は一見に如かず、よ。驚かないでね」
和村は眉をひそめながらも、言われるがままに歩いた。
重たい鉄の扉の前に立ったしのぶが、「じゃ、入るわよ」と軽くノックして扉を押す。
ひんやりとした空気が流れ出た。部屋の中央には、白布をかけられた遺体が一体、静かに横たえられていた。
だが、和村の視線はその遺体ではなく、その傍らに立つ黒い人物に釘付けになった。
男――若い、すらりとした男が、手に革製の鞭を持ち、遺体の腹部を軽く打っていたのだ。
「……は?」
「おい、またやってるの?」
しのぶが肩をすくめて声をかける。
男は手を止めて、何かの色変化を確かめるように傷口を覗き込んでいたが、しばらくしてようやくこちらを向いた。
「観察が済むまでは、邪魔をしないでもらえるとありがたい。これは、非常に繊細な実験なんだ」
「実験……って、遺体に鞭打って?」
和村が思わず声を出す。
「そうだ。死後に受けた損傷が、どのような変化を皮膚に残すかを観察している。法医学の基礎だろう?」
声は落ち着いていたが、どこか淡々と、そして陶酔すら感じさせる響きがあった。
「お騒がせしてごめんなさい。彼、昔からこういう調子なの」
しのぶが笑って言う。
男は鞭を置いて手袋を外し、改めて和村の方を向いた。
「君は?」
「和村……和村純です。」
男の目がわずかに細められた。
和村が名を名乗ると、男は一歩こちらに歩み寄り、まるで品定めをするように彼女を見た。
その視線は鋭く、だが敵意はなく、ただ徹底的に“見て”いた。
「――和村純。福島県は会津の出身だな」
「……は?」
あまりにも唐突な断定に、和村は目を見開いた。
伊東の方を見やるが、彼女は首を横に振る。
「ねえ、私、出身のこと話した?」
「いいや、私も今知った」
ホームズと呼ばれた男は、肩をすくめて言った。
「別に不思議なことではない。君が伊東君と喋っていた日本語の発音には特徴がある。“ウ”と“オ”の母音が微妙に曖昧に流れ、語尾が丸くなる。東北地方特有の訛りだ。ただ、青森ほど極端ではないし、山形の“ざ行”の癖もない。宮城の都市部ほど標準語化もしていない。だから残るのは……福島。しかも会津地方だ。訛りの消え方が、文語教育を受けた者のそれだな」
和村は言葉を失った。
故郷の言葉は慎重に抑えていたはずだ。だが、それでも――。
「ついでに言えば、君が医学生であることも明らかだ」
「……なぜ、それを?」
「右手の中指と親指の間の皮膚が、微かに乾いている。消毒薬、つまりヨードチンキの使い過ぎによるものだ。これが特徴的なのは、薬剤を用いた実習を頻繁にしている証拠。さらに、ペンだこは左手の中指、つまり右利きの書き手で、文字を書く時間が長い。そして――」
ホームズは目を細めた。
「着ているコートの袖口、わずかに擦れている部分がある。何かに頻繁に腕を差し入れている――私はそれを顕微鏡の鏡筒だと見た。しかも古い型の。大学病院の標準機材だな」
「……っ」
「学年は、だいたい二年目か三年目と見た。基礎は終えて、臨床の入口。外科解剖に入るが、まだ独立して診断に立ち会える立場ではない」
ホームズは一息つくと、さらに言葉を重ねた。
「それから――今、君はホテル暮らしだろう。おそらくロンドンに来て半年以内。上着には香水でも煙草でもない、乾いた石鹸とリネンの匂いが微かに残っている。これは安宿特有の洗濯物の香りだ。寮や下宿なら、もっと煤と油の匂いが染みつくものだ」
和村は震えるように問いかけた。
「……もしかして、あなた、ずっと見てたんですか? 私のことを」
「観察した。違いがあるだろう?」
「――……」
伊東がくすくす笑った。
「ね、ちょっと変わってるでしょ?」
「変わってるっていうか、もはや怖いんだけど……」
和村は苦笑するしかなかった。
だが、その内心には確かに、ただの恐怖ではなかった。
言い当てられたことよりも、その論理の滑らかさと、的確さに惹かれている自分がいた。
彼は“見ていた”のではない。観ていたのだ。
目に入った事実を、ひとつひとつ糸のように繋げて、人間の背景を編み上げるように。
「僕にとって、推理とは遊びではない。呼吸のようなものだ」
男――シャーロック・ホームズは、そう言って微笑んだ。
推理の一連が終わると、男は唐突に、少しだけ不機嫌そうに尋ねた。
「で、君たちは……何の用でここに来た?」
その声音には、まるで実験を中断された科学者の苛立ちがにじんでいた。
「あなたに人と話す社会的理由があるとは思わなかったけど?」
伊東しのぶが苦笑まじりに返す。
「それより、何してたの? また遺体を叩いてたけど……」
「必要な検証だ」
男は答えると、すぐ隣の小さな実験台からガラス瓶をひとつ取り上げた。中には淡い黄緑色の液体が揺れている。
「これはね、血液を化学的に検出できる薬品なんだ。極微量の血痕、つまり洗い落とされた後の残留鉄分にも反応する。しかも、変色反応は即時。さっき、ようやく配合比を確定できたところでね……ふふ、これは歴史的瞬間だよ」
和村はぎょっとした。
さっきまで遺体を鞭で叩いていた男が、今は瞳をきらきらと輝かせて、まるで少年のように薬瓶を見つめている。
「……楽しそうね」
伊東が肩をすくめる。
「さて、本題に戻るけど。彼女、住まいを探してるのよ。ちょうど良いと思って連れてきたの」
「住まい?」
男は首を傾げた。
「そう、あなた、いま下宿してる部屋に空きがあるって言ってたでしょう? 君の“観察実験”にも耐えうる同居人、探してたんじゃない?」
「……そうだったな。たしかに部屋は空いている。が……歴代の住人は、誰も長くは続かなかった。最長で三週間と四日。煙草の匂いがダメとか、僕の実験器具を勝手に片づけたりとか……あるいは僕が朝四時にヴァイオリンを弾いたら出ていったやつもいたな」
和村は、思わず伊東を見る。伊東はにっこりしている。
「それでも試してみる価値はあると思ったの。少なくとも、純は怖がって逃げないタイプよ」
「ふむ……」
男は和村をまじまじと見つめ、しばしの沈黙のあと、唐突に言った。
「合格だ」
「えっ」
「面白い。君のように、“観察される”ことを正面から受け止めて質問で返す人間は少ない。
それに、僕の論理を楽しもうとした表情が一瞬だけ見えた。――君は“鈍い”が“鋭い”」
「どっちですか……」
「両方あるから、いいんじゃないか」
そう言って、彼は白衣のポケットから紙片を取り出し、さらさらと住所を書いた。
「ベイカー街221B。僕の下宿だ。部屋代は折半。家事は基本的に互いに不干渉、ただし冷蔵庫に奇妙なものが入っていても驚かないこと。僕はたまに薬品を煮沸するし、夜に銃の射撃実験をする可能性もある。あと――ヴァイオリンの音が煩くても文句は言わないでくれ」
「……え、ちょっと待って、今なにかすごく変なことが混ざってましたよね?」
「来るか来ないかは君の自由だ」
そして彼は、ようやく最後に名乗った。
「シャーロック・ホームズ。――僕は、自分の理論が正しいと証明される瞬間に生きている」
和村は、しばらく言葉を失った。
ただ、心の中ではすでに決まっていた。
ベイカー街の扉
それは、冷たい風の吹く午後だった。
和村純は、黒い旅行鞄と細長い木箱を両手に抱え、ベイカー街221番地の前に立っていた。
「……ここ、で合ってるよね」
表札の「221B」の文字を確かめ、深く息を吸い込む。
石造りの重厚な建物。二階建てで、通りに面した一階は本の山が積まれた書斎のような窓。その奥には人の気配が微かに漂っていた。
金属のドアノッカーを握り、コンコンと控えめに打ちつける。
しばらくして、玄関が音もなく開いた。
現れたのは、丸い眼鏡をかけた恰幅のいい中年女性だった。肩にストールをかけ、花柄のエプロンをつけている。
「――まぁ。あなたが噂の新しいお嬢さんね?」
「えっ……あっ、はい。和村純と申します。ホームズさんから、こちらに部屋を……」
「もちろん聞いてますとも。シャーロックが“今回は長くいてくれるといいな”って言ってたわ」
彼女はにこやかに笑い、ドアを大きく開いた。
「私はハドソン夫人。この下宿の家主よ。とは言っても、世話を焼きたがるだけの老婆だと思ってくださって結構。さ、お入りなさいな。外は冷えるでしょう?」
「お邪魔します」
玄関ホールに足を踏み入れた瞬間、煤と石炭の混じった暖かな空気が身体を包んだ。
古びた階段、壁には焦げ茶の壁紙、そしてどこか薬品のような香り――。
「その鞄、重そうね。シャーロックったら手伝いにも出てこないなんて……まあ、あの子らしいけど。階段、気をつけて。あなたの部屋は上よ。二階の右側」
「ありがとうございます、ハドソン夫人」
「“ハドソンさん”でも、“奥さま”でもいいのよ。あなた、東洋から来たんでしょう? お名前、なんて読むのかしら?」
「“わむら・じゅん”と申します。“純”は純粋の“じゅん”です」
「まぁ、素敵ね。“純”。なんだかまっすぐで潔い感じがするわ。うちのシャーロックと真逆で」
二人は軽く笑った。
「それにしても、女性の医学生なんて、時代が変わったわね。きっと大変だったでしょう」
「ええ……でも、ここで何か新しいことが見られる気がして」
「それなら、この家はぴったりよ。――あの子のせいで、たまに部屋から爆発音が聞こえるけど」
「えっ、爆発……?」
「冗談よ。たぶん」
階段を上りきったところで、ハドソン夫人が鍵の束を取り出し、部屋の扉を開けた。
「さ、ここがあなたの新しい部屋。……気に入ってくれるといいんだけど」
和村は一歩、部屋へと足を踏み入れた。
階段をのぼった先の扉をくぐると、そこには思いがけない安堵があった。
居心地のよい寝室がふたつ、そしてひとつの居間。
この居間こそ、和村にとって“ロンドン生活の拠点”となる空間だった。
部屋は広々としており、大きな窓がふたつ、光を惜しまず取り込んでいた。カーテンは厚手で、日に透ける色合いもどこか気品があり、木製の床はやや傷んでいたが、絨毯が柔らかく足音を吸い込んでいた。
この空間には、古さゆえの重みと、暮らしの実感があった。
家具は少しばかり使い古されていたが、肘掛け椅子は柔らかく身体を包み、テーブルは実験道具と書籍、新聞と手紙、薬品の瓶に占拠されていた。
ただの雑然とした空間ではない――整然とは言えないが、奇妙に“目的のある混沌”がそこにあった。
家賃は、ふたりで払うなら十分に手ごろ。
何よりこの空間は、私にとって“観察”の場として申し分なかった。
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ホームズとの共同生活は、最初の印象とは裏腹に、意外なほど快適だった。
彼は無口で、規則正しい生活を送っていた。
夜十時には灯りを落とし、朝は私が起きるより早く、すでに朝食を終えてどこかへ出かけている。
向かう先は、大学の科学実験室だったり、病院の解剖室だったり、あるいは――ロンドンの下層街。時折、煤けたコートを着たまま帰ってくるとき、彼の目はかすかに何かを追っていた。
だが、仕事の“発作”が訪れたときの彼は、まるで全身が研ぎ澄まされた獣のように動き出した。
長い手足が軽やかに動き、机上の資料を次々に漁り、部屋は突如として戦場のような緊張感に包まれる。
――かと思えば、その反動がやってくると、彼は何日も肘掛け椅子に沈み、朝から晩までひとことも発さず、虚空を見つめている。
その目は夢でも見ているかのようで、彼の存在自体が“空白”になる。
当初私は、彼が麻薬か何かに依存しているのではないかと疑った。
だが彼は、節度を持って自分の時間を制御しており、身なりも(机の上を除けば)整っていた。
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彼の外見は、どこか印象的だった。
痩せてはいるが背が高く、切れ長の目と鷹のような鼻が、鋭利な印象を与えている。
ときにその視線は、こちらの思考の奥底まで見透かしてくるようで、私は思わず息を呑むことがあった。
彼の手はいつもインクか薬品の染みで汚れているが、その指先の繊細さと器用さには見惚れるほどのものがあった。
細いガラス管や化学器具をまるでピアニストのように扱い、何もかも確信をもって触れるその動作は、熟練を越えた“感覚”だった。
そして、私はますます彼の人物像に興味を惹かれていった。
話しかければ、必要最低限のことしか言わない。こちらからどれだけ自己開示しても、彼は自分についてほとんど語らない。
だが、彼が“何かを隠している”というよりも、単にそれが無用と判断されているような、冷静な距離感があった。
私はついに我慢できず、彼に問いかけた。
「あなたは……医学の研究者ではないのですか?」
彼は器用にスライドグラスを回しながら、あっさりと答えた。
「いや。学位も取らない。どこかの学会にも入らない。だが、僕は必要な知識はすべて持っている。――仕事に必要だからだ」
「では、その仕事とは?」
「……それは、君がじきに気づくだろう」
彼の持つ知識は、ある種の異様ささえ感じさせた。
文学、哲学、政治、天文学に関しては、驚くほど無知だった。
地動説と天動説の話題を出したときなど、
「それは何だ?」と真顔で尋ね、私が呆れていると、
「いま知ったが、全力で忘れるつもりだ」と真剣に言い放ったのだ。
「知識は脳の屋根裏部屋のようなものだ。役に立たない知識を詰めれば、肝心な道具が押し出される。僕は、仕事に必要な知識しか置かない」
そう言い切る彼の姿に、私は恐れと同時に、ある種の敬意すら感じた。
彼の知識と無知、緻密さと偏り。
すべてが、“何か”に向かって計算され、磨かれているように思えた。
だが、その“何か”が、私にはまだ見えていなかった。
探偵という名の職業
ある日、私が居間で薬草学の文献を読んでいると、階下からハドソン夫人の声が聞こえた。
「シャーロック、電話よ。――レストレードさんから」
ホームズは肘掛け椅子からすっと立ち上がった。
机の上に置かれていた顕微鏡のピントを手早く戻すと、無言で廊下へ出ていった。
私はしばらく耳を澄ましていたが、彼の声はよく聞こえなかった。
わずかに「いつものように……」「遺体の状況は……」という断片だけが拾えた。
受話器を置いた彼は、わずかに口元を引き締め、上着に腕を通した。
「どこかへ?」
「――仕事だ」
その一言で彼は帽子を取り、扉へ向かう。
私はとっさに立ち上がった。
「……私も行ってもいいですか?」
彼は立ち止まり、私を一瞥した。
だが否定の言葉はなかった。
「ついてくるなら、足を早くしてくれ」
私は慌ててコートを掴み、彼の背中を追う。
________________________________________
二人は通りに出ると、さっそく馬車を拾った。
私は揺れる車内で、ホームズの隣に座りながら、ずっと胸に引っかかっていた疑問を口にする。
「ホームズさん。あなたの“仕事”って何ですか。」
彼は少し間を置いてから、静かに答えた。
「――私立探偵だ」
その言葉に、私は目を見開いた。
「……探偵?」
「そう。刑事でも警察官でもない。だが、事件の真相を追う者だ。僕を雇うのは個人であることもあれば、国家であることもある。今回のように、警察が助けを求めてくることもある」
「でも……どうしてあなたのような一般人が、警察の捜査に?」
「正確には、法的な権限を持たない民間人だな。ただし、警察より優れた点がいくつかある」
彼は指を折りながら言う。
「警察は組織だ。報告、手続き、許可、指揮系統……無数の手間がある。その点、僕は自由に動ける。誰の許可もいらず、誰の命令も受けず、観察と論理だけで真実を追う」
「でも、警察があなたに頼むなんて……それは……」
「不名誉な話だが、警察のほうから依頼してくることも多い。特にロンドン警視庁のレストレード警部は、事件が手に負えなくなると僕を呼ぶ」
「……ということは、今向かっているのは――」
「死体のある現場だ。犯人はまだ捕まっていない。レストレードは早期解決を望んでいるが、彼は現象を見て結論を急ぐ。僕は痕跡を見て過程を遡る。それが“探偵”という職業だ」
私は息を飲んだ。
ここまで近くにいながら、この人物の“正体”にようやく触れた気がした。
空き家の呼び声
馬車は南ロンドンの一角、住宅街から一歩裏手に入った通りで止まった。
煉瓦造りの古びた一軒家――看板もなく、窓は割れ、草は伸び放題で、まさしく「人の気配が絶えた家」だった。
だが、その廃墟の前には複数の警官の姿があった。
「ホームズ!」
入り口から声が飛んできた。
振り返ると、痩せぎすで神経質そうな顔つきの男が、燕尾の裾をばたつかせながら手を振っていた。
「来たか、やっと。おい、入ってくれ。例の現場だ。中が……少々、乱れてるがな」
ホームズは短くうなずき、隣に立つ私に言った。
「和村さん、紹介しよう。レストレード警部。スコットランド・ヤードの切れ者だ。少なくとも、自称ね」
「自称とは何だ。実績の話だよ、実績の」
レストレードは軽く握手の手を差し出してきた。
だがその手を握る間もなく、ホームズがさらりと割って言う。
「彼女はミス・ワムラ。まあ気にしなくていい。見学中の留学生だ。勝手にノートを取ったりするかもしれないが、事件の邪魔はしないと誓ってる。――ね?」
私は思わず微笑むしかなかった。
「ええ、もちろん。騒ぎはしません」
レストレードは訝しげに私を見たが、すぐに関心を引き上げた。
「まあいい。こっちだ。中にもう一人いるが、気にするなよ。相変わらず張り切ってる」
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家の中は、外見以上に荒れていた。
床は足跡だらけ、壁紙は剥がれ、天井から蜘蛛の巣が垂れていた。
階段は軋み、埃と古い腐敗臭が鼻を刺す。
ホールを抜けたところで、すでに数人の制服警官が現場の封鎖にあたっていた。
その中央――まるで現場そのものを支配しているような態度で命令を飛ばしている男がいた。
背が高く、顔は白く、髪は亜麻色、分厚い手帳を握りしめて吠えている。
「そこは踏むなと言ったろう! いいか、この泥の痕が今朝の決定的な証拠になるかもしれんのだ!」
レストレードが肩をすくめて呟いた。
「グレグソン警部さ。スコットランド・ヤードのもう一人の“切れ者”だ。俺の“最大のライバル”であり、俺の“最大の誤算”でもある」
「……仲、悪いんですか?」
「そりゃあもう。どちらがヤードの功労者か、毎度張り合ってる。まあ、あいつは書き上げた報告書の量では勝るが、事件の質ではこっちのほうが上さ」
その言葉に、ホームズは何も言わずに苦笑しながら歩みを進めた。
そして私はようやく理解しはじめていた。
この空気、緊張、そして奇妙な人間たち――
これこそが、ホームズの“仕事”の現場なのだ。
私たちは、ひどく荒れた応接室のような部屋に通された。
そこに――男の遺体があった。
背を壁にもたれかけるように崩れ、目は半ば開いたまま、蒼白の顔が天井を見上げていた。
胸元には、鮮やかすぎる血の染み。銃創だ。至近距離からの発砲だったのは明らかで、床板には血だまりが広がっていた。
そして――壁。
その壁には、乾きかけた血で、なにかが書かれていた。
くすんだベージュの壁紙の上に、赤黒い文字が浮かぶ。
「これを見てくれ!」
グレグソン警部が誇らしげに叫んだ。
「これは明らかに――被害者が、死の間際に書き残した犯人のヒントだ。文字のようでいて記号に近い。つまり、暗号だ。殺される直前、最後の力を振り絞って壁に記したものに違いない!」
「馬鹿な、グレグソン。どう見たって儀式的な書き付けだろう。ほら、曲線と点の配置――これは秘教の印か、東洋の呪術に関わるものに見える。犯人が、自分の儀式の証として書いたに違いない!」
レストレードが即座に反論する。
「警部諸氏。お二人とも観察眼が曇っているようだ」
ホームズが静かに口を挟んだ。
「これは、東亜――つまり、東アジア――で使われている“漢字”という文字体系に属する。どちらでもないし、呪文でも記号でもない。意味を持つ“言葉”だよ」
二人の警部が口を閉じた。
「和村さん、あなたの出番だ」
「……私?」
「読んでほしい。君ならわかるはずだ。意味と、背後にある意図を」
私は壁に近づいた。
血の赤は既に褐色がかり、滴の乾き具合からして、少なくとも三時間以上は経過していると見られた。
だが、私が凝視したのは、その色でも時間でもなかった。
その文字――血で書かれた、たった三つの漢字。
そして、私は凍りついた。
《和村純》
自分の――名前だった。
次の更新予定
2025年12月20日 18:00
新訳・シャーロックホームズの冒険 シシャ猫 @author-conandoyle
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