夜だけ開く相談室(短編)

草薙アキラ

夜だけ開く相談室



第1話 夜だけ開く相談室

 四月の終わり、窓口の椅子はまだ冷たい。

 市役所の別館一階。

 「生活相談」と書かれた小さなプレートの前に、私は朝から座っていた。異動して二日目。名札の文字だけが浮いて見える。

 ――佐伯(さえき) 恒一。三十四歳。

 係長に言われたとおり、私は机の上を必要以上に片づけた。書類を三列に揃え、ボールペンを同じ向きに並べ、卓上時計の角度まで整えてしまう。落ち着かないときほど、手が勝手に整理に走る。

 前の部署は税務課だった。数字は嘘をつかない。

 でも、人は嘘をつく。

 ここは逆だ。

 人は嘘をつくし、嘘をつかないこともある。だけど、言葉がそのまま真実になるとは限らない。

 午前九時。初めての相談者が来た。

 ノックは控えめ。ドアの隙間から、年配の女性が顔だけを覗かせる。六十代後半。きちんとしたブラウスに、少し季節外れの薄いマフラー。

「……よろしいですか」

「はい、どうぞ」

 女性は椅子の端に腰を下ろした。背筋がまっすぐだ。こういう人は、悩みが深いか、我慢が長い。

「何からお話ししましょう」

 私がそう言うと、女性は自分の指先を見つめたまま言った。

「私、最近……家の中のものが、よく“移る”んです」

 盗難でも、物忘れでもなく、“移る”。

「移る、というのは……?」

「たとえば、台所の引き出しに入れていたはずの小さじが、翌朝、洗面所の棚にあるんです。誰かが置いたみたいに」

 私は、まず確認すべきことを頭の中に並べた。

 同居人の有無。生活リズム。認知機能。家の出入り。介護サービス。近隣関係。

「ご家族とお住まいですか」

「夫と二人です。子どもはもう独立していて」

「お二人とも、お仕事は?」

「夫は退職して、今は家にいます。私も働いていません」

 夫がいる。家にいる。

 なら、夫の可能性がある。

 でも、女性はそれを疑っていない顔をしている。疑っていないというより――疑いたくない顔だ。

「ご主人に聞いてみましたか」

 女性はすぐに首を振った。

「聞けないんです」

「……どうしてですか」

 女性は、一度だけ唇を噛んだ。

「夫は最近、すごく機嫌がいいんです。前より優しいし、穏やかで。なのに……」

 なのに、家の中のものが移る。

 私は少しだけ前のめりになった。相談者の言葉に引っ張られてはいけない。だが、ここで引っかかりを見逃すと、この仕事はすぐに「ただの話し相手」になってしまう。

「具体的に、いつごろからですか」

「三週間くらい前から。夫が……新しい薬を飲むようになってから」

「薬?」

「病院で、眠りが浅いって相談したら、先生が。よく眠れるようになる薬だって。夫は最初、嫌がったんですけど、飲んだら、嘘みたいに穏やかになって」

 薬。睡眠。気分の変化。

 これは医療領域で、私の仕事ではない。けれど、家庭内の不安が生まれている以上、ここで線引きだけして返すのは悪手だ。

「物が移る以外に、何か変化はありますか。たとえば、言い方が変わったとか、趣味が急に増えたとか」

 女性は、小さくうなずいた。

「……謝らなくなったんです」

 その言葉が、妙に刺さった。

「謝らなくなった?」

「前は、ちょっとしたことでも『悪かった』って言う人だったんです。私が怒ってるかどうかも気にして。今は……気にしないんです。いつも正しい顔をしてる」

 正しい顔。

 それは、穏やかさと紙一重だ。

 私はメモを取る手を止めて、女性を見た。

「ご主人が怖い、ということですか」

 女性は、首を横に振る。

 でも、答えは否定ではなかった。

「怖いのは……“わからない”ことです。夫が夫のままなのか。私が、気のせいで怯えているのか。それとも、何か――」

 女性はそこで言葉を切った。

 相談窓口で口にしてはいけない単語を探しているとき、人はこんな間を作る。

「……何か?」

「……誰かが、うちの中を見ている気がするんです」

 監視カメラ? 近隣? SNS?

 いくらでも現実的な説明はできる。だが、女性の表情はそれを拒んでいた。これはもっと生活に近いところで起きている。

 私は、息をひとつ吸った。

「失礼ですが、鍵はかかっていますか」

「かかっています。私は戸締まりだけはうるさいです」

「合鍵は?」

「子どもが一つ持っています。でも、ここ三週間、来ていません」

「宅配業者さんに入られたことは?」

「ありません」

 女性は、言い切った。

 この人は、確認している。錯覚ではなく「確認したのに説明がつかない」状態に追い詰められている。

 そのとき、窓口の外から声がした。

「佐伯さん、次の方、どうぞー」

 係長の声。

 私は女性に軽く頭を下げた。

「すみません、次の方がいらしていて。今日のお話は、ここまでで一度整理します。続きの予約を取ってもいいですか」

 女性は、ほっとしたように頷いた。

 “次がある”というだけで、人は少し救われる。

「……お願いします」

「最後に一つだけ。今夜、もし可能なら……小さじに印をつけておいてください。目立たない印でいいです。マジックじゃなくて、爪で小さく。明日、どこにあるか一緒に確認しましょう」

 女性は驚いた顔をした。

「そんなことで……」

「“移る”なら、移った証拠が必要です。証拠があれば、原因に近づけます」

 女性は、強くうなずいた。

 相談者が出ていく。

 私は一つ目のメモを閉じた。

 ――物が移る。謝らなくなる。誰かに見られている気がする。

 ふと、机の上のペンが、ほんの少しだけ転がった気がした。

 エアコンの風だろう。そう思い直して、私は次の相談者を迎える準備をした。


 午前の相談が四件終わったころ、私はすでに胃が固くなっていた。

 「生活相談」は、生活の話ではない。

 生活が壊れそうな話だ。

 昼休み。私は別館の裏にある自販機で、ぬるいお茶を買った。空は明るいのに、気持ちは薄曇りのまま。

 そのとき、背後から声がした。

「新人さん?」

 振り向くと、小柄な女性が立っていた。年齢は私より少し上だろうか。黒髪をゆるくまとめ、地味なカーディガン。目だけが妙に澄んでいる。

「はい、昨日からこちらに」

「よかった。あなた、真面目そう」

 初対面の相手に「真面目そう」と言う人は、たいてい自分も真面目だ。

「どちらの部署の方ですか」

「部署じゃないの。私は、夜の相談室」

 夜の相談室?

 私が聞き返す前に、その女性は自販機の横にある路地を指した。

「このまま帰ると、あなた、今夜眠れないよ。そういう顔してる」

 図星だった。

 私は無意識に笑ってしまった。

「慣れない仕事で」

「慣れない仕事は、慣れるまでが仕事。

 でも、慣れたら壊れることもある。だから、夜に一度、ほどくの」

「ほどく?」

 女性は、少しだけ笑った。

「言葉の結び目を。

 場所は、駅前の細い通り。看板は出てない。湯気だけ出てる。

 来たかったら、来ればいい。来なくてもいい」

 そう言って、女性は去った。

 名前も名乗らない。連絡先も渡さない。勧誘でもない。

 私はしばらく立ち尽くした。

 駅前の細い通り。看板のない店。湯気。

 ――そんなもの、あっただろうか。


 夕方。

 窓口を閉め、私はノートパソコンをシャットダウンした。

 帰り道、足が自然に駅前へ向いていた。

 理由は簡単だ。私は今夜、眠れない自信があった。

 駅前の細い通りは、昼間よりも人が少なかった。

 飲み屋の看板が並ぶ中に、確かに「看板がない隙間」がある。古いビルの一階。ガラス戸が曇って、湯気が白く漂っていた。

 私は戸を開けた。

 鈴の音が、やけに長く鳴った。

 中は、小さなカウンターとテーブルが二つ。

 鍋の匂い。生姜。醤油。何かの出汁。

 思わず、喉が鳴りそうになる。

「いらっしゃい」

 昼に会った女性が、エプロン姿で立っていた。

「……本当に、ここが?」

「夜の相談室。ここでは、役所の肩書を脱いでいい」

 私はカウンター席に座った。

「メニューは?」

「相談。と、煮込み」

 冗談みたいに言うが、目は冗談ではない。

 私は、昼の女性――物が移る相談者のことを思い出していた。

 話してはいけない個人情報が頭をよぎる。私は口を閉じた。

 その沈黙を、店の女性は咎めない。

「新人さん。今日、最初に来た人、どんな悩みだった?」

 私は一瞬、凍った。

「……どうして」

「当てる」

 女性は、鍋の蓋を少し開けた。湯気が立つ。

「物が、移る。

 それから、謝らなくなった。

 あと、“誰かに見られてる”気がする」

 私は、言葉が出なかった。

 胸の奥が、冷たくなる。

 職務上の守秘の前に、もっと本能的な警戒が立ち上がる。

「……何なんですか、それ」

 女性は、淡々とお椀を置いた。

 味噌汁のように見えるが、匂いは違う。出汁が深い。

「落ち着いて。私は盗聴してない」

「じゃあ、どうして」

「移るのは物だけじゃない。

 “気配”も移る」

 この人は、オカルトの人なのか。

 私は心の中でそう分類しようとした。分類できれば、距離が取れる。

 けれど、女は続けた。

「その人、今夜、小さじに印をつけるでしょ」

 私は息を止めた。

 ――それは、私が提案したことだ。相談者には係長も同席していない。メモにもまだ残していない。私の頭の中から出たばかりのことだ。

「……どうして、それを」

「新人さん。あなた、真面目でしょ。真面目な人ほど、ここに来る」

 女性は、やさしい声で言う。

「ねえ。今日のことは、あなたのせいじゃない。

 それだけ、先に言っておく」

 私は、椀に手を伸ばす。熱い。

 でも、その熱さが少し安心だった。

「あなた、名前は」

「今夜は――“湯気(ゆげ)”でいい」

 意味が分からない。

 けれど、私は頷いてしまった。頷くしかなかった。

「……湯気さん。私、何をすればいいんですか」

「まず食べる。次に聞く。最後に、確かめる」

 湯気は、鍋を指した。

「あなたの仕事は、正しさを作ることじゃない。

 “落としどころ”を作ること。

 そしてね――」

 湯気は言葉を切り、私を見た。

「落としどころは、たまに、人じゃないところにある」

 鈴が鳴った。

 入口の戸が開き、誰かが入ってくる。

 私は振り向いた。

 昼の相談者――あの年配の女性だった。

 彼女は私を見ると、驚いた顔をした。

 そして、次の瞬間、泣きそうな声で言った。

「……小さじが、移ったんです。印をつけたのに。

 今朝は、洗面所じゃなくて――」

 湯気が、静かに頷く。

「ここに持ってきた?」

 女性は、小さな巾着袋を握りしめた。

 私は、背中がぞわりとした。

 相談窓口の続きが、なぜ今、ここで始まるのか。

 湯気が言った。

「新人さん。これが、あなたの“夜の仕事”」

 私は、袋を見る。

 結び目が、固い。

 ――ほどかなければならない。

 私はそう思って、袋に手を伸ばした。

(第1話・終わり)


第2話 夜だけ開く窓口

 翌朝、役所はいつも通りだった。

 九時ちょうどにチャイムが鳴り、エレベーターが吐き出す人の流れが廊下を満たす。コピー機の立ち上がる音、誰かが淹れたインスタントコーヒーの匂い。変わらない。昨日の夜が、ただの疲労のせいだったかのように。

 私は自席で端末を立ち上げ、住民相談課の共有フォルダを開いた。

 ――ない。

 例の相談記録が、どこにも見当たらなかった。

 ファイル名は覚えている。「夜間相談・個別対応記録」。日付も、相談者の苗字も。だが検索しても、ヒットしない。削除履歴も残っていない。

「……気のせい?」

 声に出してみると、少しだけ落ち着いた。人は、確認できない出来事を、簡単に「気のせい」にしてしまえる。そうやって生きている。

 だが、机の引き出しを開けた瞬間、その言い訳は崩れた。

 そこにあるはずのないものが、あった。

 白い湯呑み。

 昨日の夜、相談室の机に置かれていたものだ。底に、小さな欠けがある。覚えている。相談者の男性が、無意識に指でなぞっていた。

 私は湯呑みを手に取った。

 冷たい。洗っていない。確かに、昨夜のままだ。

「……どうして」

 引き出しの中は、私の私物だけのはずだ。ペンケース、メモ帳、のど飴。そこに、誰かの湯呑みが紛れ込む余地はない。

 背中に、じわりと汗がにじんだ。

 午前中は、普通の相談が続いた。保育園の入所、騒音、ゴミ出し。人は皆、制度に少しだけ怒り、少しだけ諦めて帰っていく。その繰り返し。

 私はいつも通り対応した。声も表情も、問題ない。だが、引き出しの中の湯呑みが、頭の隅で重くなっていく。

 昼休み、同僚の佐藤が話しかけてきた。

「昨日、残業してたよね?」

「え?」

「エレベーターの記録で見た。二十二時過ぎ。珍しいなと思って」

 私は箸を止めた。

「……そんな時間まで、いませんでしたよ」

「え? でも――」

 佐藤は首をかしげる。

「ま、いいか。システムの誤記録かな」

 誤記録。

 また、その言葉だ。便利で、何も説明しなくて済む言葉。

 午後、私は意を決して、課長の席を訪ねた。

「あの、夜間相談の件なんですが」

「夜間?」

 課長はモニターから目を離さずに言った。

「うちは夜間窓口はやってないよ。知ってるだろ」

「でも、記録が――」

「記録?」

 課長がようやくこちらを見る。その目は、本当に知らない人の目だった。

「変なこと言うな。疲れてるんじゃないか。無理するなよ」

 それで話は終わった。

 夕方、定時のチャイムが鳴る。私は帰る準備をしながら、引き出しの湯呑みを見た。持ち帰るべきか、捨てるべきか。どちらも、違う気がした。

 結局、元の場所に戻した。

 ――夜、またここに来るかもしれない。

 そう思ってしまった自分に、少し驚いた。

 その夜、私は帰らなかった。

 庁舎の照明が落とされ、警備員の足音だけが響く時間。私は自席で、何もせずに座っていた。時計が、二十一時を回る。

 空調の音が変わった。

 昼とは違う、低い唸り。廊下の突き当たり、普段は使われていない相談室の前に、明かりが灯る。

 ドアは、最初から開いていた。

 中には、昨日と同じ机と椅子。そして、誰かが座っている。

 今度は、女性だった。

 三十代くらい。コートを着たまま、膝の上で鞄を抱えている。顔を上げると、私を見て、ほっとしたように息を吐いた。

「……やっぱり、来た」

「え?」

「昨日の人から聞きました。ここなら、話を聞いてもらえるって」

 私は喉が鳴るのを感じた。

「何を……相談ですか」

 女性は、少し迷ってから言った。

「物が、勝手に移るんです」

 その言葉で、引き出しの湯呑みが、頭に浮かんだ。

「場所じゃありません。人、なんです」

「人?」

「はい」

 女性は、自分の胸に手を当てた。

「夫が……少しずつ、別の場所に行ってしまうみたいで」

 意味が分からないはずなのに、分かってしまった。

「家にいるのに、いない。話しているのに、届かない。まるで……」

 女性は言葉を探し、やっと見つけた。

「生活の外側に、ずれていくみたいで」

 私は、相談員としての言葉を探した。だが、どれも薄っぺらく感じた。

「それは……お辛いですね」

 定型文。

 だが女性は、首を振った。

「辛い、じゃないんです。怖いんです。夫がいなくなるより、私が、気づかなくなるのが」

 その瞬間、私は理解した。

 ここは、制度のための窓口じゃない。

 人が、まだ言葉にできない違和感を、置いていく場所だ。

 机の上に、いつの間にか、白い湯呑みが二つ置かれていた。

 私は湯呑みを見て、そして女性を見た。

「……記録は残りません」

 自分でも驚くほど、はっきりした声だった。

「それでも、話しますか」

 女性は、うなずいた。

「はい。ここで話さなかったら、私、明日からも普通のふりをしてしまうから」

 外では、夜風が庁舎を撫でている。

 私はペンを取った。

 もう、後戻りはできない気がしていた。

第2話・終わり


第3話 戸籍のない湯気

 夜の相談室は、役所の中にあるのに、役所ではなかった。

 照明は少し暗い。机は同じ形なのに、角が丸く見える。音が吸われていく。外の自販機の低い唸りさえ、遠い。

 私は、ペン先を紙に当てたまま、動けずにいた。

 昨日の夜の相談者。

 今日の夜の相談者。

 そして、昼間の課長は「夜間窓口はない」と言った。

 ここで起きていることを、私はまだ「仕事」として扱えるだろうか。

 目の前の女性――名を名乗らないまま座っている三十代の女性は、手を膝の上で握りしめていた。指の関節が白い。

「夫が……ずれていくんです」

 その言葉は、昨日の年配女性の「物が移る」に似ている。

 だが、もっと危険だ。生活の中心が移るのだから。

「具体的には、どんなふうに」

 私はなるべく制度の言葉を使わず、生活の言葉で聞いた。

「最初は小さなことでした。食卓で、私が話しかけても、一拍遅れて反応する。目が合っているのに、どこか違う場所を見ている。――そのうち、言葉が変わりました」

「言葉が」

「はい。謝らなくなって。言い訳もしなくなって。いつも落ち着いてる。優しい。完璧に」

 完璧に。

 それは、穏やかさではなく、別のものだ。

「でも、それなら……良くなったとも言えませんか」

 私が言うと、女性は強く首を振った。

「違います。優しくなったんじゃない。私の怒りに、反応しなくなったんです」

 反応しない。

 人が人に最も絶望するときの状態だ。

「それで……どうして、ここを知ったんですか」

 女性は、少しだけ視線を落とした。

「昼間、相談窓口に行きました。でも、普通の窓口でした。……あなたもいましたよね」

 私は息が止まりかけた。

「いました。昼間の窓口に」

 女性はうなずく。

「そこで話したら、担当の人は、夫婦カウンセリングのリストを出してくれました。優しかった。でも……違った」

「違った?」

「その人は、“夫が変わった”とは聞いてくれた。

 でも、“夫がどこへ行ったか”は聞いてくれなかった」

 私は、背筋が少し冷たくなるのを感じた。

 この女性は、窓口の限界を知っている。

 そして、限界の外側に足を踏み入れている。

「……昨日の人から聞いた、と言いましたね」

 女性は、うなずいた。

「年配の女性。名前は知らない。でも、役所の裏口で会ったんです。私が、昼間の窓口から出てきたときに」

 偶然ではない。

 その言い方が、偶然を拒んでいる。

「その人が、『夜だけ開く相談室がある』って。『湯気の人がいる』って」

 ――湯気。

 私は、喉の奥に小さな金属の粒が転がるような感覚を覚えた。昨夜、名乗ったあの女の声が、耳の奥で鳴る。

『今夜は“湯気”でいい』

 そのとき、背後で鍋の蓋が持ち上がる音がした。

 私は振り向いた。

 相談室の奥、いつの間にかそこにある小さなコンロの上で、鍋が静かに煮えていた。湯気が立つ。役所で鍋が煮えるはずがない。なのに、匂いがある。生姜と醤油。昨日と同じ。

 そして、湯気の女がいた。

 エプロン姿ではない。役所の地味な制服のような服を着ている。だが、名札がない。

「遅いじゃない。新人さん」

 私は立ち上がりかけ、座り直した。立つと、何かが壊れる気がした。

「ここは……何なんですか」

 私の声は、思ったより低かった。

 湯気は鍋を見ながら言った。

「ここは、役所の中にある“外側”。

 制度に入らない相談が、溜まる場所」

「そんな場所、公式には……」

「ないよ。公式には」

 湯気は肩をすくめた。

「でも、ないと困るでしょ」

 困る。

 その通りだ。

 相談窓口で拾えなかった違和感は、どこへ行くのか。

 制度に載らないまま、生活を壊していく。

 湯気は、目の前の女性に視線を移した。

「あなた、夫がどこへ行ったか知りたいんだね」

 女性はうなずいた。唇が震えている。

「……知りたい。でも、知ったら壊れるのも分かってる」

「うん。壊れる。たぶん、あなたの中の“夫”が」

 湯気は平然と言った。

 その残酷さが、妙に誠実に感じられた。

 私は口を開いた。

「あなたは誰ですか。役所の人間ですか」

 湯気は、少しだけ笑った。

「役所の人間だったら、こんな鍋、置かない」

 そう言って、机の上に何かを置いた。

 白いカード。

 マイナンバーカードのような硬さ。だが、表面は無地で、文字がない。

「これ、あなたの?」

 湯気が私に差し出す。

 私は受け取った。

 裏返すと、小さな刻印だけがある。

《SAEKI/KOUICHI》

 私の名前だ。ローマ字。

 私は手が冷たくなるのを感じた。

「……どこでこれを」

「あなたの“昼間の戸籍”は、ちゃんとある。税務課も、異動も、全部ね」

 湯気は淡々と言う。

「でも、夜のあなたには、戸籍がない。

 だから、このカードが必要」

「夜の……戸籍?」

 湯気はうなずいた。

「夜の相談室に入るには、二つの条件がある」

 湯気は指を二本立てる。

「一つ。制度の言葉だけでは救えないものを見たこと。

 二つ。それでも、逃げないこと」

 私は思い出していた。

 引き出しの湯呑み。

 検索しても出てこない記録。

 エレベーターの誤記録。

 逃げたくないわけではない。

 ただ、逃げるには、もう遅いだけだ。

 湯気は女性に向き直った。

「で、あなたの夫。ずれたのはいつから」

 女性は答えた。

「三週間前。夫が……会社で“新しい制度”の説明を受けてから」

 制度。

 私は胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。

 また、制度だ。どこまでも、制度が人を追いかけてくる。

「新しい制度?」

 湯気が聞く。

「『判断支援』って言ってました。仕事でミスが許されない部署だから、判断を補助する。疲れない。迷わない。正確になる……」

 女性は言葉を詰まらせた。

「……でも、それって、私が知っている夫じゃなくなるってことじゃないですか」

 湯気は、鍋の火を弱めた。

「そうだね。

 “謝らなくなる”のは、最初のサイン」

 私は思わず口を挟んだ。

「それは……前の相談者も」

 湯気がこちらを見る。

「知ってる? 新人さん」

「……似た話を聞きました」

 湯気は軽く頷いた。

「最近、増えてる。

 物が移る。人が移る。気配が移る」

 私はカードを握りしめた。

「それは、何が原因なんですか。薬? 技術? 心理?」

 湯気は、すぐには答えない。

 その沈黙が、答えを重くする。

「原因を言うとね、あなたたちは安心する。

 安心すると、終わる」

「終わる?」

「考えなくなる」

 湯気は言った。

「ここは、考えなくなる前の人が来る場所。

 原因より先に、“確かめ方”を渡す」

 湯気は鍋の隣から、小さな紙袋を取り出した。中身は、透明な薄いフィルム。

「これを、夫の首筋に貼る」

 女性が息を呑んだ。

「そんな……勝手に」

「勝手にじゃない。本人の同意が必要。

 同意が取れないなら、もう別の話」

 湯気は淡々と言う。

「貼ると、分かる。

 夫がどこへずれているか」

 私は、そのフィルムを見た。

 医療用のパッチに似ている。だが、角に微細な端子がある。

 胸の奥が、さらに熱くなる。

 それは、昨日の別作品――エンタメ総合の世界観に出てくる“更新パッチ”と同じ構造に見えた。

 だが、私はそれを口にできない。これは別作品であり、別世界だ。混ぜると壊れる。

 湯気が、私の沈黙を読んだように言った。

「新人さん。

 似てるって顔したね」

 私は息を飲んだ。

「……何が」

「あなたの中に、もう一つの世界がある。

 でも、ここはこっち。混ぜない」

 混ぜない。

 まるで私の頭の中を覗かれたみたいだった。

 湯気は、フィルムを女性に渡した。

「同意が取れたら、貼って。

 貼ったら、あなたは見える。

 夫の“謝らなさ”の根っこが」

 女性は震える手でフィルムを受け取った。

「見えたら……どうなるんですか」

 湯気は、少しだけ目を細めた。

「あなたが決める。

 離婚するか、支えるか、見ないふりをするか」

「そんな……」

「だから、同意が要る」

 湯気は言った。

「同意は、代償だから。

 知る代わりに、戻れなくなる」

 相談室の空気が、重く沈む。

 私はペンを置いた。紙に何も書けない。ここで書いたら、昼間の制度に混ざる気がした。

 そのとき、机の上の白い湯呑みが、カタ、と音を立てた。

 私は、反射的に湯呑みを見た。

 湯呑みの縁に、小さな爪の跡があった。

 昨日の年配女性に提案した「印」だ。

 私は息を呑んだ。

 ――この湯呑みは、移ってきたのだ。

 湯気が静かに言った。

「来たね。

 物が移る人も、夜に辿り着く」

 ドアの向こうで、鈴の音が鳴った。

 私は立ち上がった。

 カードを握りしめたまま。

 扉が開き、年配の女性が入ってきた。

 巾着袋を抱えている。目が赤い。でも、泣いていない。

「……印をつけたのに」

 女性はそう言い、私を見た。

「あなた、昨日の人でしょう」

 私は答えようとした。

 だが、喉が動かない。

 湯気が言った。

「新人さん。

 ここから先は、昼間のあなたじゃない」

 私は、カードを机の上に置いた。

 無地のそのカードが、灯りを反射する。

 その瞬間、視界の端で、役所の壁が少しだけ揺らいだ気がした。

 ここは役所で、役所じゃない。

 私は、巾着袋に手を伸ばした。

 結び目は、固い。

 ――ほどかなければならない。

 私は、自分の指先が震えているのを見た。

(第3話・終わり)



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