夜だけ開く相談室(短編)
草薙アキラ
夜だけ開く相談室
第1話 夜だけ開く相談室
四月の終わり、窓口の椅子はまだ冷たい。
市役所の別館一階。
「生活相談」と書かれた小さなプレートの前に、私は朝から座っていた。異動して二日目。名札の文字だけが浮いて見える。
――佐伯(さえき) 恒一。三十四歳。
係長に言われたとおり、私は机の上を必要以上に片づけた。書類を三列に揃え、ボールペンを同じ向きに並べ、卓上時計の角度まで整えてしまう。落ち着かないときほど、手が勝手に整理に走る。
前の部署は税務課だった。数字は嘘をつかない。
でも、人は嘘をつく。
ここは逆だ。
人は嘘をつくし、嘘をつかないこともある。だけど、言葉がそのまま真実になるとは限らない。
午前九時。初めての相談者が来た。
ノックは控えめ。ドアの隙間から、年配の女性が顔だけを覗かせる。六十代後半。きちんとしたブラウスに、少し季節外れの薄いマフラー。
「……よろしいですか」
「はい、どうぞ」
女性は椅子の端に腰を下ろした。背筋がまっすぐだ。こういう人は、悩みが深いか、我慢が長い。
「何からお話ししましょう」
私がそう言うと、女性は自分の指先を見つめたまま言った。
「私、最近……家の中のものが、よく“移る”んです」
盗難でも、物忘れでもなく、“移る”。
「移る、というのは……?」
「たとえば、台所の引き出しに入れていたはずの小さじが、翌朝、洗面所の棚にあるんです。誰かが置いたみたいに」
私は、まず確認すべきことを頭の中に並べた。
同居人の有無。生活リズム。認知機能。家の出入り。介護サービス。近隣関係。
「ご家族とお住まいですか」
「夫と二人です。子どもはもう独立していて」
「お二人とも、お仕事は?」
「夫は退職して、今は家にいます。私も働いていません」
夫がいる。家にいる。
なら、夫の可能性がある。
でも、女性はそれを疑っていない顔をしている。疑っていないというより――疑いたくない顔だ。
「ご主人に聞いてみましたか」
女性はすぐに首を振った。
「聞けないんです」
「……どうしてですか」
女性は、一度だけ唇を噛んだ。
「夫は最近、すごく機嫌がいいんです。前より優しいし、穏やかで。なのに……」
なのに、家の中のものが移る。
私は少しだけ前のめりになった。相談者の言葉に引っ張られてはいけない。だが、ここで引っかかりを見逃すと、この仕事はすぐに「ただの話し相手」になってしまう。
「具体的に、いつごろからですか」
「三週間くらい前から。夫が……新しい薬を飲むようになってから」
「薬?」
「病院で、眠りが浅いって相談したら、先生が。よく眠れるようになる薬だって。夫は最初、嫌がったんですけど、飲んだら、嘘みたいに穏やかになって」
薬。睡眠。気分の変化。
これは医療領域で、私の仕事ではない。けれど、家庭内の不安が生まれている以上、ここで線引きだけして返すのは悪手だ。
「物が移る以外に、何か変化はありますか。たとえば、言い方が変わったとか、趣味が急に増えたとか」
女性は、小さくうなずいた。
「……謝らなくなったんです」
その言葉が、妙に刺さった。
「謝らなくなった?」
「前は、ちょっとしたことでも『悪かった』って言う人だったんです。私が怒ってるかどうかも気にして。今は……気にしないんです。いつも正しい顔をしてる」
正しい顔。
それは、穏やかさと紙一重だ。
私はメモを取る手を止めて、女性を見た。
「ご主人が怖い、ということですか」
女性は、首を横に振る。
でも、答えは否定ではなかった。
「怖いのは……“わからない”ことです。夫が夫のままなのか。私が、気のせいで怯えているのか。それとも、何か――」
女性はそこで言葉を切った。
相談窓口で口にしてはいけない単語を探しているとき、人はこんな間を作る。
「……何か?」
「……誰かが、うちの中を見ている気がするんです」
監視カメラ? 近隣? SNS?
いくらでも現実的な説明はできる。だが、女性の表情はそれを拒んでいた。これはもっと生活に近いところで起きている。
私は、息をひとつ吸った。
「失礼ですが、鍵はかかっていますか」
「かかっています。私は戸締まりだけはうるさいです」
「合鍵は?」
「子どもが一つ持っています。でも、ここ三週間、来ていません」
「宅配業者さんに入られたことは?」
「ありません」
女性は、言い切った。
この人は、確認している。錯覚ではなく「確認したのに説明がつかない」状態に追い詰められている。
そのとき、窓口の外から声がした。
「佐伯さん、次の方、どうぞー」
係長の声。
私は女性に軽く頭を下げた。
「すみません、次の方がいらしていて。今日のお話は、ここまでで一度整理します。続きの予約を取ってもいいですか」
女性は、ほっとしたように頷いた。
“次がある”というだけで、人は少し救われる。
「……お願いします」
「最後に一つだけ。今夜、もし可能なら……小さじに印をつけておいてください。目立たない印でいいです。マジックじゃなくて、爪で小さく。明日、どこにあるか一緒に確認しましょう」
女性は驚いた顔をした。
「そんなことで……」
「“移る”なら、移った証拠が必要です。証拠があれば、原因に近づけます」
女性は、強くうなずいた。
相談者が出ていく。
私は一つ目のメモを閉じた。
――物が移る。謝らなくなる。誰かに見られている気がする。
ふと、机の上のペンが、ほんの少しだけ転がった気がした。
エアコンの風だろう。そう思い直して、私は次の相談者を迎える準備をした。
午前の相談が四件終わったころ、私はすでに胃が固くなっていた。
「生活相談」は、生活の話ではない。
生活が壊れそうな話だ。
昼休み。私は別館の裏にある自販機で、ぬるいお茶を買った。空は明るいのに、気持ちは薄曇りのまま。
そのとき、背後から声がした。
「新人さん?」
振り向くと、小柄な女性が立っていた。年齢は私より少し上だろうか。黒髪をゆるくまとめ、地味なカーディガン。目だけが妙に澄んでいる。
「はい、昨日からこちらに」
「よかった。あなた、真面目そう」
初対面の相手に「真面目そう」と言う人は、たいてい自分も真面目だ。
「どちらの部署の方ですか」
「部署じゃないの。私は、夜の相談室」
夜の相談室?
私が聞き返す前に、その女性は自販機の横にある路地を指した。
「このまま帰ると、あなた、今夜眠れないよ。そういう顔してる」
図星だった。
私は無意識に笑ってしまった。
「慣れない仕事で」
「慣れない仕事は、慣れるまでが仕事。
でも、慣れたら壊れることもある。だから、夜に一度、ほどくの」
「ほどく?」
女性は、少しだけ笑った。
「言葉の結び目を。
場所は、駅前の細い通り。看板は出てない。湯気だけ出てる。
来たかったら、来ればいい。来なくてもいい」
そう言って、女性は去った。
名前も名乗らない。連絡先も渡さない。勧誘でもない。
私はしばらく立ち尽くした。
駅前の細い通り。看板のない店。湯気。
――そんなもの、あっただろうか。
夕方。
窓口を閉め、私はノートパソコンをシャットダウンした。
帰り道、足が自然に駅前へ向いていた。
理由は簡単だ。私は今夜、眠れない自信があった。
駅前の細い通りは、昼間よりも人が少なかった。
飲み屋の看板が並ぶ中に、確かに「看板がない隙間」がある。古いビルの一階。ガラス戸が曇って、湯気が白く漂っていた。
私は戸を開けた。
鈴の音が、やけに長く鳴った。
中は、小さなカウンターとテーブルが二つ。
鍋の匂い。生姜。醤油。何かの出汁。
思わず、喉が鳴りそうになる。
「いらっしゃい」
昼に会った女性が、エプロン姿で立っていた。
「……本当に、ここが?」
「夜の相談室。ここでは、役所の肩書を脱いでいい」
私はカウンター席に座った。
「メニューは?」
「相談。と、煮込み」
冗談みたいに言うが、目は冗談ではない。
私は、昼の女性――物が移る相談者のことを思い出していた。
話してはいけない個人情報が頭をよぎる。私は口を閉じた。
その沈黙を、店の女性は咎めない。
「新人さん。今日、最初に来た人、どんな悩みだった?」
私は一瞬、凍った。
「……どうして」
「当てる」
女性は、鍋の蓋を少し開けた。湯気が立つ。
「物が、移る。
それから、謝らなくなった。
あと、“誰かに見られてる”気がする」
私は、言葉が出なかった。
胸の奥が、冷たくなる。
職務上の守秘の前に、もっと本能的な警戒が立ち上がる。
「……何なんですか、それ」
女性は、淡々とお椀を置いた。
味噌汁のように見えるが、匂いは違う。出汁が深い。
「落ち着いて。私は盗聴してない」
「じゃあ、どうして」
「移るのは物だけじゃない。
“気配”も移る」
この人は、オカルトの人なのか。
私は心の中でそう分類しようとした。分類できれば、距離が取れる。
けれど、女は続けた。
「その人、今夜、小さじに印をつけるでしょ」
私は息を止めた。
――それは、私が提案したことだ。相談者には係長も同席していない。メモにもまだ残していない。私の頭の中から出たばかりのことだ。
「……どうして、それを」
「新人さん。あなた、真面目でしょ。真面目な人ほど、ここに来る」
女性は、やさしい声で言う。
「ねえ。今日のことは、あなたのせいじゃない。
それだけ、先に言っておく」
私は、椀に手を伸ばす。熱い。
でも、その熱さが少し安心だった。
「あなた、名前は」
「今夜は――“湯気(ゆげ)”でいい」
意味が分からない。
けれど、私は頷いてしまった。頷くしかなかった。
「……湯気さん。私、何をすればいいんですか」
「まず食べる。次に聞く。最後に、確かめる」
湯気は、鍋を指した。
「あなたの仕事は、正しさを作ることじゃない。
“落としどころ”を作ること。
そしてね――」
湯気は言葉を切り、私を見た。
「落としどころは、たまに、人じゃないところにある」
鈴が鳴った。
入口の戸が開き、誰かが入ってくる。
私は振り向いた。
昼の相談者――あの年配の女性だった。
彼女は私を見ると、驚いた顔をした。
そして、次の瞬間、泣きそうな声で言った。
「……小さじが、移ったんです。印をつけたのに。
今朝は、洗面所じゃなくて――」
湯気が、静かに頷く。
「ここに持ってきた?」
女性は、小さな巾着袋を握りしめた。
私は、背中がぞわりとした。
相談窓口の続きが、なぜ今、ここで始まるのか。
湯気が言った。
「新人さん。これが、あなたの“夜の仕事”」
私は、袋を見る。
結び目が、固い。
――ほどかなければならない。
私はそう思って、袋に手を伸ばした。
(第1話・終わり)
第2話 夜だけ開く窓口
翌朝、役所はいつも通りだった。
九時ちょうどにチャイムが鳴り、エレベーターが吐き出す人の流れが廊下を満たす。コピー機の立ち上がる音、誰かが淹れたインスタントコーヒーの匂い。変わらない。昨日の夜が、ただの疲労のせいだったかのように。
私は自席で端末を立ち上げ、住民相談課の共有フォルダを開いた。
――ない。
例の相談記録が、どこにも見当たらなかった。
ファイル名は覚えている。「夜間相談・個別対応記録」。日付も、相談者の苗字も。だが検索しても、ヒットしない。削除履歴も残っていない。
「……気のせい?」
声に出してみると、少しだけ落ち着いた。人は、確認できない出来事を、簡単に「気のせい」にしてしまえる。そうやって生きている。
だが、机の引き出しを開けた瞬間、その言い訳は崩れた。
そこにあるはずのないものが、あった。
白い湯呑み。
昨日の夜、相談室の机に置かれていたものだ。底に、小さな欠けがある。覚えている。相談者の男性が、無意識に指でなぞっていた。
私は湯呑みを手に取った。
冷たい。洗っていない。確かに、昨夜のままだ。
「……どうして」
引き出しの中は、私の私物だけのはずだ。ペンケース、メモ帳、のど飴。そこに、誰かの湯呑みが紛れ込む余地はない。
背中に、じわりと汗がにじんだ。
午前中は、普通の相談が続いた。保育園の入所、騒音、ゴミ出し。人は皆、制度に少しだけ怒り、少しだけ諦めて帰っていく。その繰り返し。
私はいつも通り対応した。声も表情も、問題ない。だが、引き出しの中の湯呑みが、頭の隅で重くなっていく。
昼休み、同僚の佐藤が話しかけてきた。
「昨日、残業してたよね?」
「え?」
「エレベーターの記録で見た。二十二時過ぎ。珍しいなと思って」
私は箸を止めた。
「……そんな時間まで、いませんでしたよ」
「え? でも――」
佐藤は首をかしげる。
「ま、いいか。システムの誤記録かな」
誤記録。
また、その言葉だ。便利で、何も説明しなくて済む言葉。
午後、私は意を決して、課長の席を訪ねた。
「あの、夜間相談の件なんですが」
「夜間?」
課長はモニターから目を離さずに言った。
「うちは夜間窓口はやってないよ。知ってるだろ」
「でも、記録が――」
「記録?」
課長がようやくこちらを見る。その目は、本当に知らない人の目だった。
「変なこと言うな。疲れてるんじゃないか。無理するなよ」
それで話は終わった。
夕方、定時のチャイムが鳴る。私は帰る準備をしながら、引き出しの湯呑みを見た。持ち帰るべきか、捨てるべきか。どちらも、違う気がした。
結局、元の場所に戻した。
――夜、またここに来るかもしれない。
そう思ってしまった自分に、少し驚いた。
その夜、私は帰らなかった。
庁舎の照明が落とされ、警備員の足音だけが響く時間。私は自席で、何もせずに座っていた。時計が、二十一時を回る。
空調の音が変わった。
昼とは違う、低い唸り。廊下の突き当たり、普段は使われていない相談室の前に、明かりが灯る。
ドアは、最初から開いていた。
中には、昨日と同じ机と椅子。そして、誰かが座っている。
今度は、女性だった。
三十代くらい。コートを着たまま、膝の上で鞄を抱えている。顔を上げると、私を見て、ほっとしたように息を吐いた。
「……やっぱり、来た」
「え?」
「昨日の人から聞きました。ここなら、話を聞いてもらえるって」
私は喉が鳴るのを感じた。
「何を……相談ですか」
女性は、少し迷ってから言った。
「物が、勝手に移るんです」
その言葉で、引き出しの湯呑みが、頭に浮かんだ。
「場所じゃありません。人、なんです」
「人?」
「はい」
女性は、自分の胸に手を当てた。
「夫が……少しずつ、別の場所に行ってしまうみたいで」
意味が分からないはずなのに、分かってしまった。
「家にいるのに、いない。話しているのに、届かない。まるで……」
女性は言葉を探し、やっと見つけた。
「生活の外側に、ずれていくみたいで」
私は、相談員としての言葉を探した。だが、どれも薄っぺらく感じた。
「それは……お辛いですね」
定型文。
だが女性は、首を振った。
「辛い、じゃないんです。怖いんです。夫がいなくなるより、私が、気づかなくなるのが」
その瞬間、私は理解した。
ここは、制度のための窓口じゃない。
人が、まだ言葉にできない違和感を、置いていく場所だ。
机の上に、いつの間にか、白い湯呑みが二つ置かれていた。
私は湯呑みを見て、そして女性を見た。
「……記録は残りません」
自分でも驚くほど、はっきりした声だった。
「それでも、話しますか」
女性は、うなずいた。
「はい。ここで話さなかったら、私、明日からも普通のふりをしてしまうから」
外では、夜風が庁舎を撫でている。
私はペンを取った。
もう、後戻りはできない気がしていた。
第2話・終わり
第3話 戸籍のない湯気
夜の相談室は、役所の中にあるのに、役所ではなかった。
照明は少し暗い。机は同じ形なのに、角が丸く見える。音が吸われていく。外の自販機の低い唸りさえ、遠い。
私は、ペン先を紙に当てたまま、動けずにいた。
昨日の夜の相談者。
今日の夜の相談者。
そして、昼間の課長は「夜間窓口はない」と言った。
ここで起きていることを、私はまだ「仕事」として扱えるだろうか。
目の前の女性――名を名乗らないまま座っている三十代の女性は、手を膝の上で握りしめていた。指の関節が白い。
「夫が……ずれていくんです」
その言葉は、昨日の年配女性の「物が移る」に似ている。
だが、もっと危険だ。生活の中心が移るのだから。
「具体的には、どんなふうに」
私はなるべく制度の言葉を使わず、生活の言葉で聞いた。
「最初は小さなことでした。食卓で、私が話しかけても、一拍遅れて反応する。目が合っているのに、どこか違う場所を見ている。――そのうち、言葉が変わりました」
「言葉が」
「はい。謝らなくなって。言い訳もしなくなって。いつも落ち着いてる。優しい。完璧に」
完璧に。
それは、穏やかさではなく、別のものだ。
「でも、それなら……良くなったとも言えませんか」
私が言うと、女性は強く首を振った。
「違います。優しくなったんじゃない。私の怒りに、反応しなくなったんです」
反応しない。
人が人に最も絶望するときの状態だ。
「それで……どうして、ここを知ったんですか」
女性は、少しだけ視線を落とした。
「昼間、相談窓口に行きました。でも、普通の窓口でした。……あなたもいましたよね」
私は息が止まりかけた。
「いました。昼間の窓口に」
女性はうなずく。
「そこで話したら、担当の人は、夫婦カウンセリングのリストを出してくれました。優しかった。でも……違った」
「違った?」
「その人は、“夫が変わった”とは聞いてくれた。
でも、“夫がどこへ行ったか”は聞いてくれなかった」
私は、背筋が少し冷たくなるのを感じた。
この女性は、窓口の限界を知っている。
そして、限界の外側に足を踏み入れている。
「……昨日の人から聞いた、と言いましたね」
女性は、うなずいた。
「年配の女性。名前は知らない。でも、役所の裏口で会ったんです。私が、昼間の窓口から出てきたときに」
偶然ではない。
その言い方が、偶然を拒んでいる。
「その人が、『夜だけ開く相談室がある』って。『湯気の人がいる』って」
――湯気。
私は、喉の奥に小さな金属の粒が転がるような感覚を覚えた。昨夜、名乗ったあの女の声が、耳の奥で鳴る。
『今夜は“湯気”でいい』
そのとき、背後で鍋の蓋が持ち上がる音がした。
私は振り向いた。
相談室の奥、いつの間にかそこにある小さなコンロの上で、鍋が静かに煮えていた。湯気が立つ。役所で鍋が煮えるはずがない。なのに、匂いがある。生姜と醤油。昨日と同じ。
そして、湯気の女がいた。
エプロン姿ではない。役所の地味な制服のような服を着ている。だが、名札がない。
「遅いじゃない。新人さん」
私は立ち上がりかけ、座り直した。立つと、何かが壊れる気がした。
「ここは……何なんですか」
私の声は、思ったより低かった。
湯気は鍋を見ながら言った。
「ここは、役所の中にある“外側”。
制度に入らない相談が、溜まる場所」
「そんな場所、公式には……」
「ないよ。公式には」
湯気は肩をすくめた。
「でも、ないと困るでしょ」
困る。
その通りだ。
相談窓口で拾えなかった違和感は、どこへ行くのか。
制度に載らないまま、生活を壊していく。
湯気は、目の前の女性に視線を移した。
「あなた、夫がどこへ行ったか知りたいんだね」
女性はうなずいた。唇が震えている。
「……知りたい。でも、知ったら壊れるのも分かってる」
「うん。壊れる。たぶん、あなたの中の“夫”が」
湯気は平然と言った。
その残酷さが、妙に誠実に感じられた。
私は口を開いた。
「あなたは誰ですか。役所の人間ですか」
湯気は、少しだけ笑った。
「役所の人間だったら、こんな鍋、置かない」
そう言って、机の上に何かを置いた。
白いカード。
マイナンバーカードのような硬さ。だが、表面は無地で、文字がない。
「これ、あなたの?」
湯気が私に差し出す。
私は受け取った。
裏返すと、小さな刻印だけがある。
《SAEKI/KOUICHI》
私の名前だ。ローマ字。
私は手が冷たくなるのを感じた。
「……どこでこれを」
「あなたの“昼間の戸籍”は、ちゃんとある。税務課も、異動も、全部ね」
湯気は淡々と言う。
「でも、夜のあなたには、戸籍がない。
だから、このカードが必要」
「夜の……戸籍?」
湯気はうなずいた。
「夜の相談室に入るには、二つの条件がある」
湯気は指を二本立てる。
「一つ。制度の言葉だけでは救えないものを見たこと。
二つ。それでも、逃げないこと」
私は思い出していた。
引き出しの湯呑み。
検索しても出てこない記録。
エレベーターの誤記録。
逃げたくないわけではない。
ただ、逃げるには、もう遅いだけだ。
湯気は女性に向き直った。
「で、あなたの夫。ずれたのはいつから」
女性は答えた。
「三週間前。夫が……会社で“新しい制度”の説明を受けてから」
制度。
私は胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。
また、制度だ。どこまでも、制度が人を追いかけてくる。
「新しい制度?」
湯気が聞く。
「『判断支援』って言ってました。仕事でミスが許されない部署だから、判断を補助する。疲れない。迷わない。正確になる……」
女性は言葉を詰まらせた。
「……でも、それって、私が知っている夫じゃなくなるってことじゃないですか」
湯気は、鍋の火を弱めた。
「そうだね。
“謝らなくなる”のは、最初のサイン」
私は思わず口を挟んだ。
「それは……前の相談者も」
湯気がこちらを見る。
「知ってる? 新人さん」
「……似た話を聞きました」
湯気は軽く頷いた。
「最近、増えてる。
物が移る。人が移る。気配が移る」
私はカードを握りしめた。
「それは、何が原因なんですか。薬? 技術? 心理?」
湯気は、すぐには答えない。
その沈黙が、答えを重くする。
「原因を言うとね、あなたたちは安心する。
安心すると、終わる」
「終わる?」
「考えなくなる」
湯気は言った。
「ここは、考えなくなる前の人が来る場所。
原因より先に、“確かめ方”を渡す」
湯気は鍋の隣から、小さな紙袋を取り出した。中身は、透明な薄いフィルム。
「これを、夫の首筋に貼る」
女性が息を呑んだ。
「そんな……勝手に」
「勝手にじゃない。本人の同意が必要。
同意が取れないなら、もう別の話」
湯気は淡々と言う。
「貼ると、分かる。
夫がどこへずれているか」
私は、そのフィルムを見た。
医療用のパッチに似ている。だが、角に微細な端子がある。
胸の奥が、さらに熱くなる。
それは、昨日の別作品――エンタメ総合の世界観に出てくる“更新パッチ”と同じ構造に見えた。
だが、私はそれを口にできない。これは別作品であり、別世界だ。混ぜると壊れる。
湯気が、私の沈黙を読んだように言った。
「新人さん。
似てるって顔したね」
私は息を飲んだ。
「……何が」
「あなたの中に、もう一つの世界がある。
でも、ここはこっち。混ぜない」
混ぜない。
まるで私の頭の中を覗かれたみたいだった。
湯気は、フィルムを女性に渡した。
「同意が取れたら、貼って。
貼ったら、あなたは見える。
夫の“謝らなさ”の根っこが」
女性は震える手でフィルムを受け取った。
「見えたら……どうなるんですか」
湯気は、少しだけ目を細めた。
「あなたが決める。
離婚するか、支えるか、見ないふりをするか」
「そんな……」
「だから、同意が要る」
湯気は言った。
「同意は、代償だから。
知る代わりに、戻れなくなる」
相談室の空気が、重く沈む。
私はペンを置いた。紙に何も書けない。ここで書いたら、昼間の制度に混ざる気がした。
そのとき、机の上の白い湯呑みが、カタ、と音を立てた。
私は、反射的に湯呑みを見た。
湯呑みの縁に、小さな爪の跡があった。
昨日の年配女性に提案した「印」だ。
私は息を呑んだ。
――この湯呑みは、移ってきたのだ。
湯気が静かに言った。
「来たね。
物が移る人も、夜に辿り着く」
ドアの向こうで、鈴の音が鳴った。
私は立ち上がった。
カードを握りしめたまま。
扉が開き、年配の女性が入ってきた。
巾着袋を抱えている。目が赤い。でも、泣いていない。
「……印をつけたのに」
女性はそう言い、私を見た。
「あなた、昨日の人でしょう」
私は答えようとした。
だが、喉が動かない。
湯気が言った。
「新人さん。
ここから先は、昼間のあなたじゃない」
私は、カードを机の上に置いた。
無地のそのカードが、灯りを反射する。
その瞬間、視界の端で、役所の壁が少しだけ揺らいだ気がした。
ここは役所で、役所じゃない。
私は、巾着袋に手を伸ばした。
結び目は、固い。
――ほどかなければならない。
私は、自分の指先が震えているのを見た。
(第3話・終わり)
夜だけ開く相談室(短編) 草薙アキラ @patkiu
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