海岸の街行き【上り】
長谷川リュネ久臣
びんぼうな魔法使い
路面列車が、海沿いを蛇行する。
歓声を上げる子どもたち。
そんなのを横目に、うんざりする少女がひとり。
少女は、びんぼうな魔法使いだった。
彼女が降り立った駅には、焼き
ぎゅうっと、胸に一冊のノートを抱きすくめる。
小さなびんぼうは毒づく。
こんなところ。
海っぺりの、浮かれた街に過ぎないのだ。
だって、みんなビーチサンダルを履いている。
ビーチサンダルを履いて誰でも平気でスーパーマーケットに行くのだ。
でっかいシャチの浮き輪を、小脇に抱えて歩いたって、誰も変に思わない。
なけなしの小銭をはたいた大判焼きを、トンビが掠めとった。
「手、怪我してない?」
通りがかりの女子高生に目撃されたうえ、気遣われる。
「これあげるよ」
自動販売機のアイスクリームまで、恵まれるありさま。でもまあ、ブドウ味のシャーベットは、好きなのである。
「それ、魔法の本でしょ」
アイスクリームの外側を剥くあいだ、女子高生はノートを持っていてくれる。
小さなびんぼうは、女子高生に、もう少し甘えたくなった。
「あたしも持ってるよ、ほら」
革の肩かけかばんから、ホログラムつきの表紙をした、小ぶりのノートが出てきた。
「そこの水族館で買ったやつ」
小さなびんぼうは、すっと目を曇らせる。
ブドウ味を忘れて毒づいた。
こんな街。
ビーチサンダル屋と別荘と、飲み屋と小児科しかない。
「ほら溶けてる、溶けてる!」
べたべたの方とは反対の手を、女子高生が引っ張って、二人は砂浜へ走った。
波打ち際に手をひたす。
波が寄せてくる前に、駆け戻る。俊敏だ。
「ごめん、二日前のハンカチしかないや」
問題ない。
小さなびんぼうは、ズボンのおしりで手を拭った。
おしりが湿って、いよいよしょんぼりしてくる。
びんぼうは、うまく魔法が使えない。
そのせいでこんな街に戻ってきてしまった。
女子高生も本を持っているなら、いっしょに連れて行ってくれないだろうか?
まぼろしの都、自由自在の国へ、帰る呪文を、手をつないで唱えてくれないだろうか?
「何でそんなに、この街がイヤなの?」
波が優しく打ち寄せる。
水族館のイルカは幸せな目をしている。
人々の足は、自由の風を浴びられる。
でも、だけれど。
小さなびんぼうは、咳き込んだ。
「そうだね、魔法使いだもんね」
うん。そうなんだもん。
小さなびんぼうは、自分の幼い口調を、かわいいと思ってほしかった。
小さくて、かわいそうで、びんぼうだから、優しくしてほしかった。
びんぼうは膝を抱えた。
自由の風を拒み、この街を拒んだ。
生まれた街まで、
五時半の音楽が聞こえてくる。
偉大な魔法使いの小さな膝は、雑巾がけのせいで黒ずんでいた。
「お家、帰れる?」
帰れないのだ。
覚えていたくないと思ったから。
忘れたいと思ったら、まぼろしの都から、押し流されてしまったのだった。
「じゃあ、見てみる?」
女子高生は、ホログラムつきのノートを差し出した。最初の数ページが切り取られている。
「かわいいノート見つけると、ウキウキして、最初は変なことに使っちゃうんだよね」
確かに。たいがい幼い字で、
『⭐︎ひみつノート♡』
とか、書いてあるものだ。
ぴったりの使い道を見つける前に、ぱらぱらとページをめくる間、それは魔法に満ちた書物に違いなかった。
まぼろしの歌や、吟遊の旅が、端正に綴られるのだと、期待で胸を膨らませた幼い自分が、いたのだった。
「きみは、最初に何を書いてた?」
胸に抱いたノートから、切り取ったページを思い出す。
確かフラダンスの振り付けが書いてあった。
「踊ってみせてよ!」
アイスクリームの恩がある。
しぶしぶ、小さなびんぼうは、砂まみれのムートンブーツを脱いだ。
砂に裸足をつける。
フラダンスは神聖な踊り。巫女の祈りだ。
夕陽がさした浜辺で、びんぼうは、海にくちづけを贈る。波を描き、太陽をかたどり、わたしは、あなたを、愛しています、と揺らめく。
「覚えてるじゃん!」
フラダンスの先生は、微笑みなさいと言ったものだ。
忘れたいと思ったことを、思い出すのはこわい。
小さなびんぼうは、ビーチサンダルを履いて、スーパーマーケットでチョコを買ってもらったことがあったのだった。
家から海まで、二十分の道を、シャチと歩いたこともある。
小児科の厚いガラス窓越しに、誰かの別荘の庭の緑が、歪んでいるのを見たこともある。
そして今、幼い自分が愛した海では、女子高生が気持ち良さげに、たなびいている。
「あたしにも教えてよ!」
女子高生がローファーをぬぎ捨てて、ぬるい砂を踏んだ。
足をとられてひっくり返り、叫びをあげている。
そんなのを横目に、びんぼうな魔法使いは、まんざらでもなく、微笑んでいた。
海岸の街行き【上り】 長谷川リュネ久臣 @fuwafuwa_kani
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