生殺与奪

不思議乃九

生殺与奪

第1章:搬送


 相澤透は、古びたモップの糸を洗剤液に浸しながら、校舎の長い廊下を見ていた。

 放課後の静寂。西日が床のワックスをオレンジ色に焼き付けている。


 二十四歳。夢も希望も、とうの昔に捨てた。今の彼を突き動かしているのは、情熱ではなく「手順」だ。鍵を開け、清掃し、点検し、鍵を閉める。その繰り返しが、彼の世界のすべてだった。


 ふと、視界の端で空間が歪んだ気がした。

 古い換気扇が回るような、低い重低音が鼓膜を叩く。

「……電圧か?」

 職業病のような呟きが漏れた瞬間、風景が断裂した。

 床が消え、光が消失し、内臓がせり上がるような強烈なG(重力)が彼を襲う。 


 次に目を開けたとき、透は硬いアスファルトの上に倒れていた。


 鼻を突くのは、焦げたゴムと、湿ったコンクリートの匂いだ。

 透はすぐに立ち上がらなかった。

 まず、自分の指が動くかを確認し、次に足首の関節を回した。可動域に問題はない。打撲による痛みはあるが、骨折はしていない。


 次に、周囲を「点検」する。

 そこは、見覚えのない街の交差点だった。

 信号機はすべて消灯し、放置された車両が数台、力なくドアを開けている。ビル群はそびえ立っているが、人の気配が一切ない。まるで模型の街に迷い込んだような、不自然な静寂。


「状況、不明」


 透は短く言った。

 パニックは起きない。パニックは「解決の手順」に含まれていないからだ。

 彼はまず、路肩に設置された案内図に歩み寄った。

 地図。これがなければ、保守点検は始まらない。

 掲示板のプラスチックカバーが割れている。彼はその破片を拾い上げ、厚みと鋭さを確認してから、作業着のポケットに仕舞った。

 街の掲示板には、現在地を示す赤い丸。

 だが、地名はどれも見たことがない。

 透は地図を眺めながら、指先で特定の場所をなぞった。

「……避難経路、消火栓、地下道への階段」

 彼は観光名所を見ているのではない。この街を一つの「巨大な施設」として捉え、その「非常口」を探しているのだ。


 遠くで、悲鳴が上がった。

 金属がぶつかり合う音と、何かが砕ける音。


 透の視線は、音のした方角ではなく、足元のマンホールの蓋に向かった。

 錆の浮き具合。蓋の隙間に詰まった泥。

(ここは、メンテナンスが行き届いていない)

 それが、彼がこの異界に対して抱いた最初の「感想」だった。


「……まずは、拠点を確保する。話はそれからだ」

 透は手に持っていた清掃用のワイヤーブラシを強く握り直すと、音とは反対の方向へ、音を立てずに歩き出した。


 彼の目には、絶望ではなく、ただ「修復すべき不備」だらけの世界が映っていた。


第2章:ルール


 街の中央には、不釣り合いなほど巨大な、円柱形の白い建造物がそびえ立っていた。 


 道すがら、透は数人の「同類」を見かけた。ある者は泣き叫び、ある者は虚空を睨んで立ち尽くしていた。透はその横を、ただの清掃作業のように通り過ぎた。関わる必要はない。現状、他人は「不確定要素」でしかない。


 円柱施設の入り口は、自動ドアのように音もなく開いた。

 中には、広大なホールがある。天井には無数の監視カメラと、スピーカー。

 透がホールに足を踏み入れると、既に数十人の男女が集まっていた。中央の大型モニターが瞬き、無機質な合成音声が響き渡る。


『──搬送の完了を確認。ガイドラインを提示する』


 短い沈黙の後、箇条書きのテキストが画面に並んだ。


* 領域からの脱出不可

* 生存者間における係争の合法化

* 生命活動の停止は不可逆的である

* 「到達」により、すべての手順は完了する


「ふざけるな! 帰せよ!」

 血気盛んな若者がモニターに向かって椅子を投げつけた。椅子は不可視の障壁に弾かれ、乾いた音を立てて転がる。

 透はその音を聞きながら、椅子の跳ね返り方で「障壁の硬度」を測った。

(物理的な突破は困難。出入り口は電子制御。予備電源の有無は不明……)

 周囲が騒然とする中、透だけが「到達」という言葉を咀嚼していた。

 それは目的地の名称なのか、あるいは状態を指すのか。


 アナウンスは具体的なルールを一切説明しない。どの武器を使えとも、誰を殺せとも言わない。ただ「争いは合法」とだけ告げた。


「説明しない、か」

 透が呟いた。


 それは、管理者が「解釈」を参加者に丸投げしている証拠だ。。

 不親切な設計。だが、不親切な設備ほど、裏をかく隙は生まれる。


 不意に、ホールに赤い警告灯が回った。


『これより、第一フェーズを開始する』

 その言葉を合図に、ホールの壁の一部がスライドし、外へと続く通路が複数解放された。


「おい、待てよ! 到達って何なんだよ!」


 誰かの問いかけに、音声は答えなかった。

 ただ、透は見ていた。解放された通路の先、街の至る所に設置された街灯が、一斉に青から赤へと色を変えるのを。


 それは「清掃開始」の合図のようでもあり、あるいは、巨大な実験動物の檻が開けられた瞬間のようでもあった。


 透は人混みに紛れ、真っ先にホールの隅にある非常用設備点検表をチェックした。


 最終点検日は、空欄。

 彼は小さく舌打ちする。


「管理が行き届いていない現場は、事故が起きやすい」


 彼は群衆がパニックで出口に殺到するより前に、最も「流れ」がスムーズで、かつ視覚的な死角が多い北側の通路を選び、足早に闇へと消えていった。

 腰のベルトに下げた鍵束が、チャリ、と重く鳴った。


第3章:最初の血


 施設を出てから三十分。街は急速に夜の気配を帯び始めた。

 街灯の赤い光がアスファルトを刺し、影を異常に長く引き伸ばしている。


 透は商店街のアーケードを歩いていた。

 背後から、激しい足音と怒号が聞こえてくる。彼は振り返らず、シャッターの閉まったドラッグストアの軒下に身を潜めた。

 

「……来るな! 寄るなと言ってるだろ!」

 悲鳴に近い声。

 続いて、肉を切断する「湿った音」が響いた。

 

 透は、物陰からその光景を静かに観測した。

 数メートル先。先ほどのホールで見かけた男が、別の男に何度もナイフを突き立てていた。刺している側は、恐怖で顔を歪ませ、支離滅裂な言葉を叫んでいる。刺されている側は、既に声も出せず、地面に横たわって痙攣していた。


 透の心拍数は、ほとんど上がっていない。


 彼は助けに行こうとはしなかった。自分の能力で、暴走した人間を無傷で制圧する「手順」は存在しない。無理に介入すれば、自分の作業着が血で汚れるだけだ。


「……一、二、三」

 透は、地面に広がる血溜まりを数えた。

 出血の速度。広がり方。傾斜。

 

 刺された男の体から溢れた鮮血は、路面の凹凸に従って、緩やかに排水溝へと流れていく。 


「あそこの排水溝、詰まってるな」

 透は冷静に分析した。血は一箇所に留まり、深い水たまりを作っている。その量からして、主要な動脈が断裂したことは明らかだった。あそこまで出れば、もう修復は不可能だ。


 やがて、刺していた男は力尽きたようにナイフを落とし、街の奥へと走り去った。


 後に残されたのは、静まり返った死体と、赤く染まったアスファルトだけだ。

 透は、死体のそばに歩み寄った。

 死体そのものには興味がない。彼が見たのは、死体の周囲に残された「足跡」だ。

 犯人の靴のサイズ、歩幅、そして逃走した方向。

 血を踏んだ靴底が描く赤いスタンプは、暗闇の中で饒舌に逃走経路を物語っていた。


「ゴム底の作業靴、右足を引きずっている。歩幅は六十センチ。パニック状態で、周囲の角を確認していない」

 透は脳内の「危険マップ」にその情報を書き込む。

 

 ふと、自分の靴の汚れに気づき、透はポケットから使い捨てのウエスを取り出した。

 血がつかないよう、慎重に死体を回避する。

 

「死は、現実」

 アナウンスの言葉を反芻する。

 

 これまではただの状況証拠だった「死」が、目の前の肉塊として提示された。

 だが、透にとってそれは悲劇ではなく、ひとつの「清掃条件」の変化に過ぎなかった。

 この街には、至る所に「片付けられない汚れ」が増えていく。

 そしてその汚れは、時に滑り、時に足跡を残し、時に獲物を呼び寄せる。

 

「手順を変える必要があるな」

 

 透は死体から視線を外し、街の地図を思い浮かべた。

 身を隠し、物資を確保し、地形を利用できる場所。

 自分にとって最も「構造を知り尽くしている」場所。

 

 透の足は、北西にある学校へと向かっていた。


第4章:地図を作る者


 深夜。市立第四中学校の校門の前に、透は立っていた。

 全国どこにでもある、コンクリートと鉄筋の塊。だが透にとって、この空間は単なる建物ではない。配管の走り方、鍵の種類、視界の死角、そして「どの扉が、どの順番で開くべきか」を完全に把握している聖域だ。


「……まずは、ライフラインの点検」

 透は守衛室の窓を、持ち歩いていたプラスチック片で器用に解錠し、中へ滑り込んだ。

 まず確認したのは、分電盤だ。

 この街の電気系統は生きている。だが、いつ落とされるかわからない。彼は予備の懐中電灯を三本、腰のベルトに固定した。


 次に、備品倉庫の棚卸しを始める。

 彼は「武器」を探しているのではない。「道具」を探しているのだ。


• PPロープとワイヤー: 導線の遮断、および転倒トラップ用。

• 中性洗剤の原液: 廊下の摩擦係数をゼロにするため。

• 脚立(1.5メートル): 高所からの観測と、通路の物理的封鎖。

• マスターキー: 建物内のすべてのドアを「壁」に変えるための権限。


「ドラッグストアで回収した消毒液と包帯は、保健室のストックと合わせる。これで、出血を伴うトラブルには三回まで対処できる」


 透は校内を歩き回り、頭の中に「防衛マップ」を描いていく。


 三階の突き当たりは行き止まりだが、換気窓から外壁の配管へ逃げられる。

 音楽室の二重扉は遮音性が高く、内部の音を外に漏らさない。

 体育館の床下ピットは、成人が三人隠れるのに十分なスペースがある。


 彼は、階段の踊り場に「仕掛け」を施した。

 目立たない細いワイヤーを、足首の高さに張る。ただし、ただ張るのではない。転んだ先に、あえて「清掃中」の看板を立てかけた。

 人は、警告がある場所でこそ、その警告の「裏」にある本当の罠に気づかない。


「学校は、安全管理の集積地だ」


 透は、職員室の椅子に深く腰掛けた。

 外では、時折、遠くで爆発音や叫び声が聞こえる。

 だが、この校舎の中にいる限り、彼は「管理者」だ。

 どこから敵が入り、どの床で滑り、どの扉で袋小路に追い込まれるか。その手順は、既に彼の脳内でシミュレーションされていた。


 ふと、モニター室の防犯カメラ映像が揺れた。

 校門の前に、一人の人影が立っている。

 武器を構えている風でもなく、ただ、疲れ果てた様子で校舎を見上げている。

 透は、手元のマスターキーを指先で弄んだ。


「……予定外の来客。対応マニュアル、未作成」

 彼は感情を動かすことなく、その人影が「故障」なのか「異物」なのかを判断するため、ゆっくりと立ち上がった。


第5章:同盟


 校門の前に立っていたのは、泥のついたスーツを纏った女だった。

 真鍋澪。彼女は透がモニターで見ていることに気づいているかのように、レンズに向かって両手をゆっくりと上げた。


「……交渉に来た。殺し合いの相談じゃないわ」


 透は校内放送用のマイクのスイッチを入れる。ノイズが校門のスピーカーから吐き出された。


「そこから動くな。三歩進めば、上の非常用散水栓を起動させる」

 嘘だ。散水栓は手動だが、透の声にはそれを確信させる冷徹な「手順」の響きがあった。


 数分後、透は一階の昇降口で、強化ガラス越しに彼女と対面した。

 扉は施錠され、透の手には消火器が握られている。


「私は真鍋。外では企業の法務をやってた。あなたの名前は?」

「……管理番号でいい」

「そう。管理員さん、ってわけね。ここはいい要塞だわ。外は地獄よ。罠を仕掛けて回る狂った男がいる」


 真鍋の情報によれば、街の北側は「山科」という男が針金やガソリンで地雷原に変えているという。彼女は、透の「場所」と、自分の「情報」を交換したいと持ちかけてきた。


「私を中に入れて。代わりに、次のフェーズで支給される物資の場所を教える。法務の経験から、このルールの『穴』もいくつか見当がついているわ」


 透は彼女の顔を、換気扇の汚れを点検するように眺めた。

 瞳の揺れ、呼吸の深さ、服の破れ方。

 彼女は嘘をついていないが、何かを隠している。だが、それは重要ではない。


「条件がある」

「何でも言って」

「一、校内の清掃・管理手順には一切干渉しないこと。二、怪我をしても、俺はあんたを運ばない。三、ここを出る時は、俺が決める」


 真鍋は少しだけ眉をひそめた。「助け合う」という言葉が一切ない、契約書の条項のような言葉だったからだ。


「……冷たいのね。用務員さん」

「保守点検に感情は邪魔だ」


 透は無機質に言い放ち、鍵を開けた。

 同盟。それは「守るため」の約束ではない。

 透にとっては、自分一人では手の届かない「死角」を監視させるための、一種の動体検知センサーを設置するようなものだった。


 真鍋が校内に入ると、透はすぐに彼女が歩いた床を消毒液で拭き始めた。


「……何、それ」

「外部からの汚染の除去だ。手順通りだよ」


 透の“達観”は、他人を仲間としてではなく、維持管理すべき「動く備品」として処理していた。

 この歪な共同生活が、嵐の前の静けさであることに、二人はまだ気づいていない。


第6章:罠の街


 「山科」の仕掛けた罠は、悪意というよりは「嗜好」に近いものだった。

 街のいたる所に、釣り糸のような極細のワイヤーが張り巡らされ、その先には工事用の釘打ち機やガソリンがセットされている。踏めば、終わり。


 透は、真鍋が持ってきた情報を元に、学校から数ブロック離れたホームセンター「ホビーランド」の資材売り場にいた。

 目的は、学校の防御を固めるための追加の「部品」──強力な接着剤、予備のブレーカー、そして大容量の消火剤だ。


「……いたな、用務員くん」


 資材ラックの影から、カサついた声が響いた。

 山科だ。痩身で、指先がテープや傷跡で荒れている。彼は工具棚に背を預け、手遊びのようにカッターナイフの刃を出し入れしていた。

「お前の『学校』、見たよ。丁寧な仕事をしてるな。でも、お前のはただの『管理』だ。そこに華がない」


 山科がそう言った瞬間、透の背後の棚から、複数のボルトが勢いよく射出された。


 透は反射的に、手に持っていたアルミ製の脚立を展開し、盾にした。

 ガキン、と硬い金属音が鳴る。

 透は脚立の脚を握りしめたまま、周囲の「床」を見た。

 

 タイルが少し浮いている。そこを踏めば次の罠が起動する。

 棚の最上段には、重たい溶剤の缶が不安定に積まれている。

 山科はこの売り場を、自分専用の「殺戮工房」に作り替えていた。


「逃げ道はないよ。ここは僕のフィールドだ」


 透は答えなかった。代わりに、作業着のポケットから業務用洗剤の原液を取り出し、足元の滑らかなタイルにぶちまけた。

 

「……何だ、それは。目潰しのつもりか?」


 山科が嘲笑い、一歩踏み出す。

 その瞬間、山科の足が氷の上に乗ったように滑った。

 

「っ、な……!」


 体勢を崩した山科が、反射的に壁の棚を掴む。

 だが、透はそこも「点検」済みだった。その棚の支柱は、透が数秒前にボルトを一本抜いて、グラつかせておいたものだ。

 

 ガシャアァァン!!

 

 山科が掴んだ棚が崩れ、大量の塗料缶が彼の上に降り注いだ。

 山科は床に撒かれた洗剤と、自分の塗料で、立ち上がることすらできない。

 

「殺しはしない。ただ、あんたは清掃が必要な状態になった」

 

 透は淡々と言い、照明の主スイッチを切った。

 闇の中で、透は山科が仕掛けた「音」の罠──ワイヤーの鳴りを耳だけで判別し、無傷で裏口へと抜けていく。

 

「待て! 卑怯だぞ、こんな……! 正面から戦え!」

 

 背後で喚く山科の声を、透は「騒音」として切り捨てた。

 正面から戦う? そんな非効率な手順は、透のマニュアルには載っていない。

 

 透は、持ち出した接着剤とワイヤーをバッグに詰め、夜の闇に同化した。

 彼にとって、戦いとは「作業の延長」であり、勝利とは「無事故で帰宅すること」だった。


第7章:格闘者の崩れ


 地下駐車場の空気は重く、排気ガスの残り香と湿気が混じり合っている。

 そこには、透と、そして格闘経験者である南條がいた。


「おい、用務員……! 待て、置いていくな!」


 南條は、コンクリートの柱に背を預け、荒い息をついていた。彼の屈強な腕は、山科が仕掛けた「ピアノ線の罠」によって深く裂かれ、止まらない出血がボクシンググローブのようなバンテージを赤く染めている。


 透は足を止め、数メートル先から彼を見下ろした。その目は、壊れた備品を眺める時と同じ、無機質な「査定」の目だ。


「……南條さん。あんたの左足の筋、切れてる。自力走行は不可能だ」


「わかってる! だから肩を貸せって言ってるんだ!」


 透は動かない。

 

「断る。助けても、運べない」


「何だと……?」


「あんたの体重は推定85キロ。この負傷状態で地下から地上まで引き上げるには、俺の体力の60%を消費する。その後の生存率が、二人合わせて15%を切る計算だ。不合理だ」


 透の言葉は、冷たい正論ですらなかった。それは単なる「点検結果の報告」だった。


 南條が絶望と怒りの混じった咆哮を上げる暇もなく、駐車場の奥から複数の足音が響いた。山科の配下か、あるいは報酬に目が眩んだ追跡者か。


「……手順を変更。これより、離脱を優先する」

 透は背負っていた消火器の安全ピンを抜いた。


 追跡者たちがライトを向けて突っ込んでくる。その瞬間、透は消火剤を床に向けて一気に噴射した。


 真っ白な粉末が煙幕となって視界を奪う。

 同時に、透はあらかじめ配置を確認していた「非常灯」を頼りに、闇の中を疾走した。

 背後で、南條の悲鳴と、追跡者たちが粉末に咽せながら激突する音が聞こえる。


 だが、逃走は無傷では済まなかった。

 乱戦の最中、振り回されたバールが透の脇腹を掠めた。

 

「……っ」

 

 鋭い痛みが走り、呼吸が浅くなる。

 地上へ続く非常階段に駆け込んだとき、透は自分の脇腹を強く押さえた。

 熱い液体が指の間から漏れる。


「呼吸、困難。右腕の握力、低下。修復が必要だ……」


 透は暗い階段の踊り場で、荒い息を整えながら、持っていたガムテープを傷口の上から服ごと力任せに巻きつけた。止血ではない。「これ以上壊れないための固定」だ。


 格闘のプロであった南條は、力に頼りすぎて自滅した。

 透は、自分の体が「故障」し始めたことを自覚しながら、それでも足取りだけは乱さないよう、一歩ずつ学校へと戻る階段を登る。

 

 彼に残された「段取り」は、まだ終わっていない。


第8章:観測者の言葉


 学校の屋上。フェンス越しに見える街は、赤い街灯に縁取られた墓場のようだった。


 脇腹の傷をガムテープで固めた透は、コンクリートの縁に座り、備蓄の水を一口飲んだ。隣には、いつの間にか現れた男──久我が立っている。


 彼はこの殺し合いの中で、一度も武器を手にせず、ただ誰かが死ぬのを眺めていた男だ。


「……南條は死んだよ」

 久我が、遠くの煙を見つめたまま呟いた。「君が切り捨てたおかげで、あそこは綺麗な地獄になった」

 透は答えない。懐中電灯の電池残量を点検し、予備の単三電池をポケットの定位置に入れ替える。


「相澤透。君はまるで、この世界を『点検』しているみたいだね。でも、点検の最後には何が残ると思う?」


「……異常がなければ、それでいい」


 久我が低く笑った。その笑い声には、底知れない空虚が混じっている。

「出口は外にはないよ。この『到達』という手順の最後に、何が届くと思う。安らぎか? 報酬か?」


 久我は透に歩み寄り、その耳元で毒のように言葉を落とした。

「……何もないんだよ。君がどれだけ丁寧に手順をこなしても、最後に残るのは『終わった』という事実だけだ。君のその『保守』には、守るべき中身が最初から欠落している」


 透の指先が、一瞬だけ止まった。

 

「……手順が完了すれば、それでいい。中身が空かどうかは、俺の仕事じゃない」

 透は立ち上がり、久我を無視して階段へと向かった。


 その背中に、久我の最後のアナウンスが響く。

「残りは二人。君と、あの狂信者の黒川だけだ。君が守り抜いたその『学校』が、最後の検分場になる」

 校舎内に戻った透は、震える手で工具箱を開けた。

 脇腹の痛みが、心拍と連動して熱く脈打っている。握力は以前の半分も出ない。

 だが、彼は止まらない。

 

 廊下に洗剤を撒き、消火栓のバルブを緩め、体育館の入り口に特殊な鍵を掛ける。


 最後の手順。


 それを完遂することだけが、彼が自分を自分として維持できる唯一の手段だった。


第9章:体育館決戦


 体育館の巨大な空間に、重く湿った足音が響く。


 黒川。この殺戮を「神による選別」と信じる男は、返り血で汚れた鉈を引きずりながら、闇の奥を見据えていた。


「相澤。逃げも隠れもしないとは、敬虔なことだ。ここを君の墓所に決めたのか?」


 返事はない。ただ、暗闇の中から規則正しい「金属音」だけが聞こえてくる。

 黒川が大きく一歩踏み出した瞬間、キュルリ、と靴底が異常な音を立てた。


「……ッ!?」


 摩擦を失った足が宙を舞う。透があらかじめ床に塗りたくったワックスと中性洗剤の混合液。ただの洗剤よりも粘り気が強く、一度滑れば体勢の立て直しは不可能だ。

 黒川が転倒する衝撃音が体育館に反響する。


「手順一。機動力を奪う」


 キャットウォーク(天井の点検歩廊)の上から、透の声が降ってきた。

 黒川は怒りに燃える目で頭上を睨むが、透はそこにいない。


 透は舞台袖のブレーカーボックスに手をかけていた。

 パチン、という乾いた音と共に、体育館の全照明が落ちる。

 完全な闇。だが、透には「見えている」。

 彼はこの体育館の図面を暗記している。どの位置に支柱があり、どこに跳び箱が置かれ、どこに肋木(ろくぼく)があるか。


「神だの何だの……。ここはただの公共施設だ。不備があれば直す。異物があれば取り除く。それだけだ」


 黒川が闇雲に鉈を振り回す。その音が、舞台の**重い緞帳(カーテン)**を切る音に変わった。

 透は、舞台裏の滑車を利用して、吊り下げられた防球ネットを黒川の頭上へ投下した。

 網に絡まり、もがく黒川。


「手順二。視界と可動域を制限する」


 透はキャットウォークからロープで滑り降りた。脇腹の傷が悲鳴を上げるが、彼はそれを「動作エラー」として処理し、無視する。

 彼は黒川の背後に音もなく着地した。手に持っているのは、武器ではない。特大の結束バンドと、頑丈なPPロープだ。


 黒川が網を引き裂き、這い出してくる。

 だが、その足元には、透が事前にバルブを緩めておいた消火栓からの水が浸り始めていた。

 透は、予備電源で生きていたステージ用のコンセントを引き抜き、水溜まりへと投げ込んだ。


 激しい火花と、肉が焼ける臭い。

 黒川の体が雷撃に打たれ、硬直する。


「手順三。動作停止(シャットダウン)」


 透は倒れ伏した黒川に歩み寄り、その手足を手慣れた動作で「結束」した。

 椅子を固定し、備品を片付けるときと同じ、無駄のない動き。

 

「……な、ぜ……。お前のような、空っぽの男に……」

 黒川が血を吐きながら問う。

「あんたは『意味』を探しすぎた。俺はただ、『手順』をこなしただけだ」

 透は黒川の首筋に、事務用のカッターナイフの刃を当てた。

 感情はない。ただ、これでこの建物の「点検」がすべて終了するという確信だけがあった。

 

 一筋の赤い線が走り、体育館に静寂が戻る。

 透は返り血を拭うこともせず、ただ、大きく一度だけ息を吐いた。


「……作業、終了」


第10章:到達


 黒川の頸動脈から溢れた熱が、体育館の床を汚していく。


 透はそれを、ただ見つめていた。

 安堵はない。高揚もない。

 ただ、複雑な大型機械の修理を終えた後のような、乾いた疲労感だけが全身を支配していた。


 視界の端が、テレビの砂嵐のようにざらつき始める。

 久我の言葉が耳の奥で反芻された。


『到達の最後に、何が残る』


 透は、自分の血と黒川の血で汚れた掌を見た。

 皮膚の感覚が、急速に遠のいていく。


 体育館の天井が、壁が、剥がれ落ちる塗料のように分解され、真っ白な光の中に溶けていった。

 数億の同類を蹴落とし、ただ一つの「到達」を成し遂げた代償。

 その光は、救済ではなく、あまりにも無慈悲な「完了」の合図だった。

 

 意識が、プツリと断線した。

 ……。

 …………。


目を開けると、薄暗い四畳半の天井があった。


焦げた匂いはない。

血の匂いもない。


代わりに、どこか生温かい空気が、部屋にこもっている。


透はゆっくりと起き上がった。

体は重く、脇腹にあったはずの痛みも、もうない。


床を見る。

丸められた紙くずが、いくつか転がっている。


彼はそれを数えなかった。

数える必要がなかった。


スマホを手に取る。

指が、迷わず画面を滑る。


『以前購入した商品です』


配送頻度。

定期便。

在庫あり。


透は注文を確定した。


水道で手を洗い、

紙くずをまとめ、

ゴミ袋の口を結ぶ。


最後に、玄関の鍵を閉める。


カチリ、という音。


手順は、完了した。


──終

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