【第六章】 傘と祝福『完』
私は会場の裏口から外へ出た。
夕暮れは、まだ残っていた。
オレンジと藍が混ざる空。
ビルの輪郭が沈む境目。
街は、相変わらず日常を続けている。
笑い声も、信号の音も、車の走行も、どれひとつとして、今日を特別扱いしてはくれない。
世界は、私がどれだけ揺れても動じない。
その中を歩き出す。
式場のすぐ横、公園に続く細い坂道。そこに、木陰のベンチがある。腰を下ろした瞬間、今日という一日の全部が、胸の奥からゆっくりと押し寄せてきた。
雨をつれて。
直人の笑顔。
直人の仕草。
直人の声。
まだ耳の奥に残っていた。
(本当に正しかったのかな?)
問いは、喉まで出るが、言葉にはならない。
正しいか、間違っているか。そんな線引きは、とうに意味を失っていた。
人生は、引き返しの効かない選択だけでできている。それを、ようやく理解しただけ。
結婚式は終わった。道は分かれた。
選んだのは、互いに別々の未来だった。
けれど、不思議なことに、私の胸の奥には、喪失ではなく静かな温度が残っていた。
あの日、愛したこと。
あの日、離れたこと。
その二つは、今も確かに息をしている。
失ったのではない。
置いてきただけ。
背中の向こう側に。
風が吹いた。スーツの裾が揺れる。
深い呼吸を、一つ。
生きることは、派手なドラマではない。
大きな再生や、劇的な救いが降ってくるわけでもない。
ただ、歩き続けること。
ひび割れたまま。欠けたまま。
それでも、一歩ずつ。
足元の影が伸びていた。
夕暮れは夜へと変わり始めている。
直人には新しい家がある。
日々がある。女性がいる。
その全ては、過去を捨てた結果ではなく、私という過去があなたの中に息づいているから、そう信じたい。
私を愛してくれたあなたは、いま隣にいる人を愛せる。それは矛盾ではなく、人間という生き物の、本来の美しさだと想うから。
それでも、胸の奥が、じん、と焼けるように痛い。息は、かすかに震えている。
――気づかれたくない。
だから私は、空に頼る。
「雨の日の結婚式は、祝福されるんですよ」
講習で教わった言葉。
何百組にも、笑顔で伝えてきた言葉。
「一生分の涙を、空が代わりに流してくれる」
これは涙じゃない。
――祝福。
そう言い聞かせることが、ウェディングプランナーの仕事だった。
愛が終わった人間が、愛の始まりを整える仕事。
……ずっと、それでいいと思っていた。
雨音だけが、世界を満たしていたとき。
小さな世界に、足跡が響いた。
その鼓動にも似た足取りは、静かに私の前で沈黙し、影を差した。
傘だった。
色は、あの日と同じ。
真夏の校庭で、あなたが差し出した薄いグレー。
私は、ゆっくりと顔を上げる。
「……覚えてたんだ」
あなたは返事のかわりに、折りたたまれた便箋をそっとベンチに添えてくれた。
言葉をかけられなくてよかった。
きっと、この雨は涙になってしまうから。
私に傘を持たせて、しゃがみ込んだあなたは、左手を見つめたまま動かなかった。
触れてしまえば、傷つける。
そのことをわかっていた。
それでも――あなたは、そっと、薬指に触れた。
指輪に手をかけて、引き抜くのではなく、ほどくように外した。
そして、小指へ。
『ここから先へは連れていけないけれど』
『ここまで一緒にいたことは、消えない』
まるで、言葉ではなく、手で伝えるように。
同僚の音葉と買いに行った、ただの指輪。
新婦様に、ご家族に、誰にも不安を与えないための配慮。
あなたを奪わないために、私が選んだ檻。
それが、小指に収まった。
(ああ――これは、終わらせ方なんだ。
約束なんだね。)
便箋だけがベンチに残される。
『気持ちが晴れたら、その傘を手放して。
素敵な式をありがとう』
……優しい終わりかた。
声は出ない。ただ呼吸だけが震えた。
雨だけが、泣き声を隠してくれた。
あなたは背を向ける。私は呼ばない。
それが、私たちが選んだ別れ方。
愛した日々を壊さないための、最後の距離。
雨はやんだ。
それでも私はしばらく傘を差していた。
だって、この傘は……
『守られた過去』になったから。
ある雨の日。
新しい新郎新婦が式場へやってきた。
私は入口で、あの日の傘を差して待っている。
「素敵な雨ですね」
私は晴れやかに言う。
花嫁が不安そうに空を見上げる。
それでも、私は微笑む。
「雨が降るから、並んで傘がさせるんです」
そして、私は歩き出す。
傘をさしながら。
前に向かって。
あなたがくれた心で。
そう、私は――ウェディングプランナーだから。
『完』
さよならウェディングーー雨の動線 チロコリ @tirokori
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