脚の悪いカニはまっすぐ歩く

細木彩

脚の悪いカニはまっすぐ歩く

あたしはあなた(you)との、い

つかの触れ合いを思い出す。あ

なたの、透明な外膜にふれて、

どこまでも沈み込んでゆく。あ

なたは、それについて沈黙して

いる。まるで過去のように。あ

るいは、乾電池のように。



 二〇三二年八月三十一日。14:06現在、遠藤の身体は物理的に融解している。わざわざ平皿に出して食べたアイスクリームのように、表面張力を保ちながら……体とフローリングとの境目があやふやになって……記憶が溶け出していく。



 ──ぼくの最愛の彼女との出会いは突然であり、そしておそらく、運命と言って差し支えのないものであった。

 彼女とは、中野の喫茶店で出会った。ぼくの趣味として、中野ブロードウェイを冷やかしに行ってサブカルシティボーイを気取るというものがある。なんというか……そういう属性でぼくの輪郭を形づけたいというか、何もない自分を誤魔化したかった。小学校の遠足のおやつの三百円の制約の中でたいしておいしくもない麦チョコを選び続けたり、中高の制服のワイシャツの第一ボタンを留め続けたりしていた。そういうのの延長。ぼくのランドマーク。

 話が逸れたな。そう、帰り道に、入ったことのない路地にあった喫茶店に吸い込まれた。この喫茶店の場所は今では思い出せない。どの路地に入ったのか、どんな外見だったかも朧げなのだ。この日が暑かったからかもしれないし、彼女との触れ合いを記憶するのに脳のリソースを割き過ぎて一日の記憶上限に達したために、他の部分のメモリーを諦めたのかもしれない。ぼくは適当な席について、ナポリタンとアイスコーヒーを頼んだ。この日は春にしては暑く、店内には薄い冷房のベールがかかっていた。大きな窓からたっぷりの陽光が差し込んでいて……テーブルには、スプーンで掬えそうな、そんなやわらかなひかりが満ちていた。いい喫茶店だった。

 ここで彼女の登場だ。ドアベルをかろやかに鳴らしながら入店してきた彼女の第一印象は、真っ白、ということだった。今日日見ない純白のワンピースを着た、背の高い女性だった。飛行機に乗っているとCAさんをじっと見てしまったりするだろ? 手持ち無沙汰な時って動いているものを見ちゃうんだよ。ぼくもその例に漏れず、彼女を見つめていた。そしたら目が合ったんだ。そこでにこりと、もう親友にしか見せないであろう柔和な笑みと共に、ぼくの席の向かいに腰掛けたんだ。

 衝撃的だった。相席。昭和じゃあるまいし。しかも店、ガラッガラなのに。でも、近くで見た彼女は美人さんで、怖いより嬉しいが勝った。浮き足立つ心によって口が勝手に会話を始める。

「あ、えと、こんにちは」

「こんにちは。元気?」

「ええまあそれなりに。あの、すみません、見つめてしまって」

「いえ、全然。それより、突然で悪いんだけれど、付き合わない? あたしたち」

「エッ」

 そう。こんな顛末で、付き合い始めた。彼女の名前は西園寺みどり。名前から素敵だ。そしてこれは、ちょうどみどりの日の出会いだった。



 LINEも交換しなかった。彼女からくる非通知の連絡だけで、ぼくらは親交を深めていた。電話越しの彼女の声は、いつも違う印象を抱かせた。口約束だからか、彼女はよく待ち合わせに遅れた。けれど、来ない日はなかった。

 彼女が常識とズレているな、っていうのは結構気づいてた。初対面の男に告白するような人だし。けどぼくの近くにいてくれるなら、それでよかった。水平線に、突如現れる灯台みたいなさ。日頃の行いによって、神様がもたらした福音なのかなって。そんなに信心深いわけじゃないんだけど、そういうのに縋りたいときってあるじゃんね。



「ふわー。マグロでっかいねえ」

「そうだね」

「いいなぁ。かなり羨ましい。プールに行きたいのかも」

「……一緒に行く?」

「お誘い? 珍しいじゃん。でもあたし泳げないの」

 彼女はぼくの手をちまりと掴んだまま、マグロの周遊する大水槽の前に立ち尽くしていた。あまり人がいなかった。広さによる耳鳴りがするくらいの静けさ。

 マグロたちは、ヒレをほとんど動かすことなく、ぬーっと水の中を移動し続ける。止まったら死んでしまうんだっけ。もし人間が同じシステムで生きるのならば、ずっとずっと歩き続けることになるのだろうか。絶対に無理そう。伊能忠敬じゃあるまいし。マグロは上から光が当たって、てらてらと輝いていた。青魚と違ってマグロって皮付きで出されないよなあ。なんでだろ。綺麗なのに。

 ちらりと彼女の方を見る。マグロの周遊に釘付けだった。口が開いて、小さな歯がアクリルに映っていた。彼女の口の中を、ぬーっとマグロが通っていく。ぬーぬーぬー。ぬー。XYZ、空間の中を立体的に通り抜けていく。それを見つめていると、くっと唇が閉じた。そして彼女は手を振り解いて、ぼくに向き直る。

「もういいの?」

「言わなきゃいけないことがあるの」

「えっ。急だね」

「マグロを見て覚悟が決まったわ」

「すごい思考の流れだ」

 彼女は手を後ろで組んで床を見つめていた。目元に影が落ちていて、どういう感情かは読み取れなかった。

「ちょっと、ベンチに行ってもいい?」

「うん」

 彼女に手を引かれて、へどもどしながらついていく。床のカーペットにけっつまづいて、転びかけながら彼女の細い後ろ姿を見つめた。心臓は重低音でビートを刻み始めて、呼吸に影響をもたらしている。ドッと身体の後ろ半分が暑くなって、耳の後ろあたりに血液が集まって、ビームが出そうなくらいに熱がこもっていた。

 付き合い始めてから思ったのは、僕たちに共通の話題がないということだ。今日だって、タカアシガニをみて「どうぶつの森にいたよね」と話題を振ったけど、のれんより手応えがなかった。付き合い始めたのだって、彼女の一方的なアプローチ。この場合、彼女の采配によって交際の云々が決まるのは当然だろう。ぼくは彼女に一目惚れをしているけれど、彼女にとって、今のぼくの存在は何? きっとここにいるのがぼくである必要はない。

 別れたくないけど、別れを引き止めるような魅力はぼくにはない。

 付き合ってから三ヶ月、色々な場所に行ったけど、絶対に話題の出るところにした。植物園、科学館、動物園などなど。けれど、充実したのはいろんな場所についての知識だけで、彼女については微塵も詳しくなれなかった。ミステリアスというより、ぼくに何も言いたくないんだと思う。全部被害妄想かも。今ナーバス。つま先まで。

 彼女の歩みが止まり、平たいつややかなベンチに横並びに腰掛けた。顔が見えないのがありがたかった。ぼくは今、唇の最適な位置を見失っている。

「あの、ね」

「……うん」

「もし、もしもだよ? if、仮定の話」

「うん」

「その……」

 ぼくは床ばかり見つめていた。紺から灰色になるカーペットのグラデーションを見て、小学校の近所の文化ホールの座席もこんな色をしていたなと思う。

「わたしのほんとのすがたが、カニだって言ったらどうする?」

 流石に、顔を上げた。彼女は瞳にじんわり涙を浮かばせて、ワンピースのおなかあたりを握りしめていた。指先が少し赤らんでいる。嘘とか、冗談の類ではなさそうだ。

「ど、うするって」

「きらいになる、とか……」

「、いやそこ? あ、ごめん。そんなつもりじゃなくて、あの、たぶん好きだよ。カニも好きだし……」

「ほんとに?」

「でも、ちょっと待って、想像を超えてきたな」

 彼女がカニだった件。カニって、あのカニだ。足がたくさんある、赤い、そうさっき見た──

「えと、なんでいま、人間なの?」

「旅行で来てるの」

「旅行?」

「あたし、異星人なの」


 曰く、ぼくの彼女西園寺みどりさんは、宇宙の隅の方、地球からは観測できないという、蟹星(かせい、kanitas)から来たということだった。有り体に、西園寺みどりという名前も偽名らしい。本来の名前も教えてもらったが、言語体系が違うらしく聞き取れた音声はどう考えても「ローストビーフ」だった。ローストビーフさんと呼ぶわけにも行かないので、西園寺みどりさんとさせていただく。蟹星は水で満ちており、種族の収斂進化の結果カニになったらしい。カーシニゼーションという現象で、地球にもあるそうだ。そう聞くと、宇宙って狭いのかも。

 日本でいうJTBみたいな、旅行斡旋会社のパッケージプランで訪れている彼女は、夏が終わる頃に帰ってしまうらしい。

「こっちにきて苦労はないの?」

「特にないの。パッケージプランに地球学習セミナーがあるし、常識みたいなのは全部インプットしてから送り出してくれるから」

「インプットは学習とは違うの?」

「えっとね〜なんていうのかな。USBってあるじゃん。そういうのと同じように、あたしのかにみそに入ってた情報と、地球の常識とがこの体に入ってるの。言葉的にインストールのが近いかも」

「そんなことできるの?」

「今、できてるもの。仕組みはしらないけど」

「こわくない?」

「怖くない。ペースメーカーを入れる人が、その仕組みについて全部は知らないのと同じじゃない?」

「なるほどなあ」

「サイボーグと同じ感じかなぁ。それもまた違うのかもね」

「……売店行かない? ゆっくり話をしよう」

 まずは、かにみそはカニの脳みそではないということについてから。


 僕はフライドポテトをつまみながら、彼女を待っていた。ピザ屋によくあるような、切ったスイカみたいな形のポテト。モサモサした口触りは、口の水分を奪って、現実味を与えてくれる。

 カニ。その前に、異星人。

 全部がぼくの身体の外側で起きている。当事者ではあるが、渦中にはいない。身体が得た情報が脳みそ直結急行で駆けて行って、納得するしかなくなる。網膜に映る彼女の像は、一ミリだってほつれはない。けれど、彼女はカニなのだという。いつだってそうか。視界に映る全てが、本物である確証はない。納得。納得? 

 今食べているのは、ぼくが選び、ぼくがお金を払ったポテト。じゃあ、本当にぼくはこれを食べたかったのかな? いつだって、n+1。誰かが見たマグロを見て、誰かと同じように悩み、誰かと同じようにポテトを食べる。

「おまたせ」

「何にしたの?」

「蟹のビスク。食べてみたくて」

「エッ、いいの。共食い」

「言うと思った。じゃあ、じゃあだよ。きみが今後別の星にいったとしましょう。そこでは、ヒトがめちゃくちゃメジャーな食材で、おいしがられている。……そしたら食べたくならない?」

「……うぅん」

「あたしは食べたいの。もうここにいる時間も少ないし。やりたいことは全部やるの」

「すごいなあ」

「だからきみに、カニだって言ったのよ」

「ふぅん。嫌われるかもって言ってたのに。なんで?」

「目的があるから」

 彼女は黄色いスープカップに口をつけて、ちびりとビスクを飲んだ。

「うわ、すっご、濃い」

「おいしい?」

「結構好きな味。うま〜。いいなこれ。やっぱりこういう出会いもあるからさ、いろんなことやった方がいいよね」

 味わうようにちみちみスープを飲んでいる彼女の唇は、ビスクで赤色が増している。「ポテトつけてみたら?」なんて勧めたら、いたく気に入ったようで、ぼくのポテトはさふさふと彼女の口に運ばれている。

 ……目的ってなんなのだろう。ちょっと泣いてしまうくらいの、覚悟が必要なカミングアウト。カニングアウト? ぼくは結構カニの見た目が好きだ。大きなハサミがチャーミングで、みたいな具体的なことは言えないけれど、虫まではいかないあのメカっぽさがいいなと思う。カニが嫌いな人だったらどうなるんだろう。すぐに立ち去る? でも、彼女がカニであることを今現在確かめる方法はない。彼女の発言によって得られる情報で、今現在のカニ成分は提示されている。アレルギー表記と同じ。

「ポテト、めっちゃ食べちゃった」

「いいよ。お腹そんなに空いてないし。売店行こって言ったのは、向かい合って話がしたかっただけだし」

「そう? じゃあよかった。さっき言い損ねた目的についても言おうと思ってたからね」

 今までのかわいらしい口調ではなく、今日の彼女はハキハキ喋る。ペーパーナプキンでポテトの塩を拭いながら。

「あたし、人と肋骨を重ねるのが夢なの」

「……それは、ハグとか、そういう行為の特殊な表現?」

「ううん。物理的に」

「物理」

「そう。あたしはあなたと、知恵の輪みたいに重なりたいの。肋骨を、こう、指を組むみたいに」

 肋骨はわかる。理科室の骨格標本で見たことがあるし、ぼくは結構痩せ型なので風呂に入るたびに見ている。それを組む?

「どうやって?」

「体を融かすの」

「そんなことできるの?」

「できる。あたしのこの体は借り物なの。さっきのサイボーグって例えがわかりやすいと思う。精神だけがあたしで、肉体は使い捨て。組成はだいたい地球の人間と同じで、なんていうか、粘土みたいになってる肉体の素を、型に入れて大体の形にしたら、あとは好きにしていい、みたいな」

「粘土」

「あたしはワガママ言って、骨も作ってもらったの。料金高くついたけどね。だから、この肉体を融かすときには、骨は残るわけ」

「いや待って。体融かすのが常識なの?」

「そう。帰るときに邪魔だし。こう、体を融かすと中に入ってるメモリは蟹星の方の精神に同期されて、そのまま生き続ける。連続した記憶のままね」

「、きみの方はわかったよ。でもぼくは? 融かせるわけ?」

「融かせる。組成が同じだって言ったでしょ。二人分の融解液をくすねてきたから、きみに使えばそのまま骨になる」

「その場合、ぼくは死ぬんじゃない?」

「えっ」

 怒涛の勢いで論理を振り回していた彼女のエンジンはガス欠みたいに急に止まった。彼女は人間の生死について、あまり知らないようだった。

「しぬの?」「そうだね。一般に、骨になったら人は死ぬよ。本来この順番は逆だけど」「こう、胸のとこだけにするよ。融かすの。そしたら?」「多分ダメじゃない?」「え〜〜」「え〜〜て。こっちのセリフだよ」「人間ってそんな感じで死ぬのか」「セミナーで教わらなかったの?」「教わらない。多分留学でそこまでやるヤツがいなかったんじゃない?」「絶対カリキュラム入れた方がいいよ。こんなことになるんだから」「伝えておく」「いや、ほんとにね。ていうか、なんできみはそんな夢を持ってるの? そもそも、カニなのに肋骨? 外骨格でしょ」「それは……」

 会話が途切れる。ぼくは売店のレジに目をやる。おそらく大学生であろう若い男女が談笑していた。まぁ、空いているし、いくら居座っても怒られはしないだろう。ぼくの生死がかかっているのだから、大目に見て欲しい。

「夢を、見たの」

「それは、寝ているときにってこと?」

「そう。蟹星でね。結構ジンクス的なものがあるのよ。見たら叶う、みたいな。お母さんは夢でお父さんのことを見て、その次の日に結ばれたって言ってた。お父さんとはその日が初対面なのに」

「だから、こんなに無鉄砲というか、体当たりなのか」

「そう。だって、あたしカニなのよ? それなのに人間の夢を見るとか、そんなこと。なんだか絶対に叶えないといけないんだな、と思ったの。そこから自分から行動し始めた。カニってさ、結構受動的というか、一定のサイクルによって生きてるわけ。だから、なんかしないと、すぐ世代交代なの。脱皮するときに、あ、もうこんな時間が経ってるんだ、って感じる。いつも食べるものも、移動するルートもおんなじ。危なくないし、慣れてるし。なーにもかも、変わんないの。フツーに生きてればね。そこで、夢を見た。あたしの中に明確な目的ができた。だからいろんなとこに交渉して、手を尽くして、今ここにいるの」

 俯き加減に喋る彼女の頬には、睫毛の影がかかっていた。スープカップには、ピンクの跡が残り、ポテトフライの入っていた皿には、ちいちゃいカスが申し訳なさそうに残っている。

「寝る時に見る夢ってさ、どうやって見るものだと思う? 自分から?」

「うーん。ぼくはそう思う。自分の意識が働いて、見るものでしょ。夢って。過去の会話とか。だから自分からじゃない? 意識がどこから芽生えたかとか考え始めたら、生き物は全部受動的だよ」

 会話の中で、ぼくの中で思考のテトリスが積みあがっていた。一つずつ積み上がったそれは、今のぼくの発言によって最後の隙間が埋まって、全部消えた。

死んでもいいなと思った。彼女の目的のためなら。

「いつにする? 肋骨」

「一週間後の、八月三十一日。あたしの帰る日。ていうか、いいの?」

「うん。ぼくの一回きりの約束を、きみにあげるよ」



 この一週間で、死に支度をしようと思った。部屋を見渡してみたが、途中で読むのをやめた本とか、飲みかけのペットボトルとか、取るに足らないものしかなかった。一つ、枕元に置いていた彼女とお揃いのT2ファージのキーホルダーだけ、スマホに付けた。公共料金の支払いだけが心残りだった。解約の決断はできなかった。



「おじゃまします」

「どうぞ。おもてなしはできないと思う。部屋がほぼからっぽなの。もう帰るから」

「いいよ。おやつとか買ってきたからさ、一緒に食べようよ」

「お、うれし〜」

 彼女の家は、駅から十分ほど行ったところのアパートの二階だった。ひっそりちんまりとしたここは、旅行会社の管理するところらしい。ぼくの部屋と同じくらいの狭さで、落ち着いた。現在八月三十一日、11:37。リミットは、14:00。ちょっと来るのが早いかとも思ったけど、彼女と話がしたかった。フローリングに座って、ポテチをパーティ開けにする。

「あっ、食べ切れるの?」

「食べきれなくてもよくない? もう帰るんでしょ」

「まあ、それもそうか。じゃあ全部開けよ」

 ビッと口を切った大袋が床に横たえられていく。部屋は掃除されていた。家具もひとつもなかった。全部片づけたのかもしれないし、元からなかったのかもしれない。

「どこで融けるの? お風呂?」

「ううん。ここ。床。風呂だと逆に処理が面倒なんだって。下水に流れちゃうとちょっと問題になるみたいで。なるだけ、平面なところでやってくれって注意書きに書いてある」

「そうなんだ」

 今日は案外涼しくて、窓だけ開ければ十分な気温だった。会うたび、彼女は白のワンピースを着ていた。そして今日も。けれど、袖が違ったり、地の模様が違ったりしていて、彼女なりのこだわりなのかなと思う。

「ワンピース似合うよね」

「えへ、ありがと。きみの服も可愛いよ。それ、カニ?」

「あっ、そう」

 今朝、死ぬときに何を着ているべきかと考えたときに、彼女が喜ぶものがいいなと思った。だからカニ。あわててショッピングモールに向かった。服屋で「そのまま着ていきます」を言ったのは初めてだった。

「融けるのって、痛い?」

「そうでもないと思う。前まではかなり痛かったらしいけど、改良が進んでるんだって」

「ふぅん……」

 蟹星の人(カニ?)の生態とか、カニの体でどうやって過ごしてるのとか、そういうことを研究改良してるのもカニなら、機材とかどうやってるのとか、いろんな疑問はあるけど、別に関係のないことだ。聞いたところでどうする。もう死ぬのに。

 彼女はチョコがしみた星型のおやつを食べている。少しこぼして、ワンピースに茶色の点々がついていた。ぼくものたのたと手をのばして、コンソメ味のポテチを摘んだ。破片が上顎にささる。

「あの、さっきから質問ばっかりで悪いんだけど、融けるときって裸?」

「うん。肋骨重ねるって言ったじゃん。裸じゃなくてどうするの」

「えっ」

「緊張する?」

「うん」

「先に見とく?」

「え」

 べろり、と。おばけの皮を剥ぐみたいに彼女はワンピースを脱いだ。申し訳程度に、半身を捩って反対を向いていたから、皮膚の下で肩甲骨がぐるりと回っているのが見えた。背骨が浮いていた。ぼくが窓際に座っていて良かった。外から見られたら困るし……逆光にならなかったから。西日のスポットライトの中で、彼女は裸になった。

「わ」

「変?」

「変じゃない……と、思う。他の人の裸見たことないからわかんないけど。あっ乳首がないね」

「そう。骨入れるために安いプランにしたから、荒い作りなの。融けやすいように痩せ型にもしてるし、そんなに魅力的じゃないでしょ」

「それはまた別でしょ。結構好みだけど」

「結構?」

「……とっても」

「ふふん」

 彼女の言うように、体は全体的にうすっぺたく、骨が浮いていた。体毛やへそもない。もっと細かなところを見たら変なのだと思う。けど、彼女の体は白く、美しかった。

「きみもぬいでよ」

「もう?」

「いいじゃん。もう融けちゃお」

「……うん」

 ぷつぷつと、彼女がシャツのボタンを外す。ベルトを外して、ジーンズを脱ぐ。

「ずいぶん痩せてるね」

「きみが言うの?」

「まあ。それもそう」

「パンツも脱ぐ?」

「恥ずかしいならいいよ」

「じゃあ、脱がない」

「恥ずかしいんだ」

「うるさ」

 ザッと、床のおやつを部屋の隅の方に押しのけていると、彼女が部屋の奥からペットボトルを二本持ってきた。溶解液だろう。

「これ、飲んで」

「あっ飲むの」

「そう。飲み薬なの。でも全部飲み干して」

 手渡されたそれは、よくある水のペットボトルとほとんど変わらない。ポテチの塩味で喉が渇いていたのでちょうどよかった。蓋を捻っても、新品のペットボトルを開けたときみたいな手応えはなかった。口に含むと、少しナシみたいな匂いがした。

「怖くない?」

「うん。現実味がないし」

「そう。ありがとね。ほんとに」

 彼女がぼくの上にまたがってきたので、そっと抱きしめてみた。思ったより冷たい。人間の温かみはなかった。肌が異様にサラサラしている。セルロイドのようだ。その割に、マシュマロくらい柔らかい肉。筋肉がついていないというより、再現されていないのだろう。おそらく、心臓も動いていない。

「形だけ人の体にしてるんだね」

「そだよ。きみはあったかいね。心臓も早いし。緊張してる?」

「うん」

 彼女の息が首にかかっている。呼吸がすごく長い。人間のそれではなかった。本当に、異星人なのだ。わかっていたはずのそれが、ようやく腑に落ちた。ひいては押し寄せる波のリズム。

 ワッとカーテンが膨れて、夕方の風が吹き込んだ。ひんやりとして、秋が来ることを伝えるような、そんな風。

「あのさ」

「うん」

「あたし、きみのこととっても好きなの。伝わっているかわからないけど」

「どこが好き?」

「顔」

「そんな」

「でも、大事でしょ。地球人て変わり映えしないな〜と思ってたとこにきみを見てビビッときたの」

「そう聞くと嬉しいね」

「きみは?」

「ん?」

「きみはあたしのどこがすき?」

 フローリングについていた手が滑り、彼女とともにゆっくり後ろに倒れ込んだ。身体が融け始めていた。不快感はなかった。ほんのり冷たくて、彼女の重みが心地よかった。ナシの匂いが、ムッと濃くなっている。

「えっ」

「あたしと死んでくれるくらい、好きなんでしょ。どこが好きか言ってよ」

 ぼくは彼女のどこが好きなのだろう?

 全体的に、彼女は魅力の塊だ。顔、話し方、どこをとっても。じゃあぼくが死ぬだけのキーになっているものは?

「きみが、ぼくのことを好きなところ」

「アハ、きみらしいね」

 ぬちゃ、と、触れ合っているお腹のあたりの輪郭がわからなくなる。そもそも、ぼくは彼女との輪郭がわからなかったのかもしれない。ひんやりとしている彼女の体温と、ぼくの体温が混じって、ぬるま湯に近づいていく。

「キスとかする?」

「なんで?」

「なんとなく」

 なんとなくで、キスをしてみた。けれど唇も溶け始めていて、歯がぶつかった。ほんの少しだけ、チョコの味がした。目の奥がほどけていくように視界がおぼろげになり、ただ明るさだけがあった。骨がこすれてむずがゆかった。

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