スターゲイズ・アンダーテール

滝たぬき

1. プロローグ

 二人の男が向かい合っていた。一人は角張った顔に大柄で引き締まった肉体をしている。対照的に、もう一人はすらっとした細身で繊細な印象を受けた。しかし、その顔にはモヤがかかっており、顔立ちや表情を知ることができない。

「本気で言っているのか」

 低く、咎めるような声が大柄の男から放たれた。彼を見れば、その表情は険しく、細身の男の方を鋭く睨み付けていた。

「————————」

「ふざけるな!これまで積み上げてきたものを、俺たちが置き去りにしたものを、全部どうでもいいと言うのか!」

 細身の男は何と答えたのだろう。聞き取れなかったというよりは、そもそも言葉などない空白だったような感覚。しかし、ただ一つ、彼の放った言葉が向かい合う男を傷つけ、怒らせたことは確かだった。

 肌を突き刺すように張り詰めた空気の中、細身の男は再び言葉を続けた。しかし、その内容は抜け落ちているかのように聞き取ることができない。向かい合う男にだけは聞こえるようで、その言葉を受けて大柄の男はさらに激昂していく。細身の男に詰め寄って怒声を浴びせる。それは言い合うというより、片方の激情をもう片方が清流の如く涼やかに受け流しているようだった。

 やがてその怒声すらも遠くなっていき、周りの景色もぼやけていく。そして——。

 

 気が付けば、頬に硬い感触と体の節々に軋むような痛みがあった。

「なんで知らない人間同士が喧嘩してる夢なんて見たんだ」

 どうやら知らぬ間に机に突っ伏して眠っていたようだ。しかも他人が喧嘩している夢などという全く面白味のない夢まで見て、良い目覚めとは言えなかった。

「誰だったんだあれ。知らないやつなのに、妙にリアルだったな」

 ガタイの良い体育会系の男と、顔の見えない細身の男。先程まで眠りこけていた少年、秋月蒼真はその二人に見覚えがなかった。

「疲れてた……のかな。根を詰め過ぎたな」

 机の上には参考書と筆記用具、書きかけのノートが置いてある。蒼真が通う高校は現在テスト期間だ。多くの生徒が、この試験を乗り越えた先に待っている夏休みを楽しむために、身を粉にして勉強しているのだ。蒼真もその例に漏れず勉強していたのだが、どうも疲れていたようで寝てしまったらしい。

「シャワーでも浴びるか」

 机の上にある勉強道具をしまうために、開きっぱなしのノートを閉じる。その時に、

「あっ」

 右手の人差し指に違和感を感じて見てみると、皮が切れて血が薄らと流れていた。ノートを閉じた拍子に、紙で指を切ってしまったようだ。

「最悪。濡れるとしみるよな……」

 防水性の高い絆創膏も存在するが、生憎手持ちにない。変な夢も見て踏んだり蹴ったりだ、と溜息を吐きながら浴室へと向かった。

 しかし、蒼真の心配は杞憂となった。体を洗う間、傷口がしみることはなかった。それどころか、浴室から出て着替え終わった時に気が付いたのだが、傷口そのものが無くなっていたのだ。

「寝ぼけてて、指を切ったのも夢だったとか……?」

 あまりにも寝ぼけ過ぎていると思うのだが、そう考えてしまうほどに、人差し指の傷は影も形もなく消えていた。元々、傷の治りが早い方ではあるのだが、十分ほど前にできた傷が治るというのは流石に異常だ。

「まあ怪我してないならそれでいいか」

 夢か現か分からない怪我よりも、今は差し迫ったテストに集中しなければならない。余分なことを考えるリソースはないのだ。眠って時間を無駄にしてしまった分を取り戻さなくてはならない。

 気合いを入れて再び参考書と向き合おうとした所で、スマートフォンのバイブ音が響いた。画面を見れば、同級生の松井大貴からチャットが届いていた。

『勉強なんもしてない。助けて』

 蒼真は画面をそっと閉じた。見ないふりをしたのではない。見たところでどうしようもなかったのだ。学校で大貴から文句を散々言われるのだろうと思いながら、蒼真は参考書に再び手を伸ばした。

 

 

「試験終了です。答案用紙を裏返して、後ろの席の人が集めてください」

 試験官の指示に従って、試験の答案用紙が集められていく。

 手応えとしてはまずまずといったところだった。分からない設問がいくつかあったが、遅くまで勉強した甲斐もあってそれなりに回答できた。

 試験官は答案用紙の枚数を確認すると、教室から立ち去っていく。それを合図に、教室はそれまでの静けさと打って変わって喧騒に包まれていった。

 試験を終えて一息吐く者、生徒同士で回答を確認し合う者、難しかった問題について話し合う者、まったく別の話題で盛り上がる者と様々だ。蒼真は一息吐いていたのだが、そこへ一人の男が眉間に皺を寄せながら近付いて来た。

「なんも分からんかった……」

「そりゃそうだろ。昨日の今日で解けるわけない」

 昨夜、蒼真に救援メッセージを送った男、松井大貴はがっくりと肩を落とした。

「なんで昨日返信してくれなかったんだよ!」

「あんな時間に助けを求められても困る。こっちだって余裕があるわけじゃないし」

「そんな事言うなって。中学の時から、雨の日も風の日も二人で乗り越えて来た仲だろう?」

「赤点は一人で取ってくれ」

 そう告げると、松井は縋り付くように更に騒ぎ始めた。夏休みの補習を受けたくない、だの、もう予定を入れてしまった、だのと、実に情けない様である。

「悪いけど、試験期間はまだ続くんだ。帰って試験勉強させてもらうぞ。ひとりで」

 試験は全部で四日間ある。今日はその初日だ。勉強を友人と教え合うというのは良い事だ。だが、大貴から教えて貰うことなど皆無だ。試験前に一緒に勉強したとして、自分の気になる点を勉強する余裕などなくなってしまうだろう。

 大貴との勉強には利点がない、と冷静に結論付け、自分の鞄を持って席を立つ。大貴は捨てられた子犬のような目でこちらを見ているが気にしない。というか、子犬ほど庇護欲を駆り立てるような可愛さはなく、むしろその図々しさにため息が出るほどだ。大貴を振り切るために足早に教室のドアへ向かう。

「そっか。鳴芽先生サイン付き『星わた』の新刊が手に入ったんだけどなあ。あれは心優しい誰かに譲るとしよう」

「サイン付き『星わた』の新刊⁉︎」

 大貴の発言に、教室を出ようとしていた足は行き先を反対方向へ向け、蒼真はほぼ反射的に大貴の方へ駆け寄っていた。

「『星わた』って、六年前から続編が出ていないあの『星わた』か⁉︎」

「そうだ。次巻で真相が明らかになる、と告げられたまま何の音沙汰もなかったあの『星わた』だ」

『星渡る君へ』、略して『星わた』。十年ほど前、当時はまだ駆け出しの新人小説家だった鳴芽なるめ瑠美るみが世に送り出した小説だ。主人公の暮らしていた星が人間の住める環境では無くなってしまうところから物語は始まる。退廃的な世界観と、諦めずに惑星間の移住を目指す主人公たちの姿が人気を呼んだ。口コミで知名度は徐々に広がり、有名なインフルエンサーが面白いと言った辺りから爆発的な人気に繋がったのだ。その勢いは、ドラマ化に次いで映画化までされた程の人気ぶりだった。新刊は毎度飛ぶように売れていたのだが、ある時を境に新刊はおろか何のアナウンスも発表されなくなった。それから六年の時が経ち、熱狂的なファン達も続編は作られないものと諦めていたのだ。

「どうしてお前が新刊……それもサイン入りなんて代物を?」

「俺の叔父さんが出版社に勤めてるんだよ。だから新刊の情報とかは結構網張ってるってわけ。しかも鳴芽先生と会う機会があったらしくてな、叔父さんにこっそり頼んどいたのさ」

 蒼真は胸の高鳴りを抑えられずにいた。友人の叔父が星わたの関係者であるということが、とても運命的なことのように思える。そう感じてしまうほどに、蒼真も星わたの大ファンであり——、

「よし。大貴、分からない所を教えてくれ。完璧に理解させてやる」

 待ち焦がれた続編、それも原作者様のサイン付きとなれば、前言など容易く撤回してしまえるのだ。

「よーし。んじゃ、俺ん家に集合な!」

「了解。家に参考書取りに帰ってから行くよ」

 蒼真は今度こそ教室の外に向けて歩き出した。足取りは軽く、惑星間を一つ跳びで行き来できそうな気分だ。新たに語られる物語と長年明かされなかった謎を前に、期待と想像で蒼真の胸はパンク寸前。

 


 ——その想像を超える事態が目前まで迫っていることに、蒼真は気付いていなかった。



 参考書を鞄に入れ、帰ってきたばかりの家を後にする。鼻歌混じりに歩く道は、普段と違って天の川のように輝いて見えた。

「いやいや。勉強しに行くんだぞ。何浮かれてるんだ。しっかりしろ、おれ」

 不意に我に帰った。というのも、高揚していて気にならなかったのだが、道行く人たちから冷ややかな目線が向けられていた。側から見ればかなりの浮かれ様だったらしい。気分が落ち着いてくると周囲に気を配れるようになるもので、今は羞恥心が心の七割を占めていた。ちなみに残りの三割は未だにドキドキとワクワクが占めている。

「にしてもなんだか人が多いような。……あれは、警察?」

 内省を繰り返していると、向かう先に人だかりが出来ていることに気付いた。さらに前方に注意を向ければ、多数の警官と赤い三角コーナーが道路を封鎖していた。何事かと思い、反射的に人だかりの方へと向かう。人だかりの向こうには、何人もの警官が慌ただしく動き回っていた。規制線で道路が封鎖されており、只事ではない雰囲気だ。

「この先で火災が発生中です。危険ですので別の道をご利用ください」

 拡声器越しに警官の声が響く。封鎖された先では、住宅から灰色の煙が空高く立ち昇っていた。この辺りにできた人だかりは、火災の様子を見にきた野次馬だったようだ。

「また火災か。今月で何軒目だよ」

 近頃、蒼真の住む美張みはり町では火災が頻繁に発生している。連続する火災の原因はいずれも不明。そのことがかえって話題を呼び、根も葉もない噂がネット上に溢れた。挙げ句の果てには、国家を転覆するために暗躍している組織の仕業などという陰謀論が囁かれているほどだ。ちなみに、蒼真はそんな陰謀論に露ほども興味が湧かない。

「仕方ない。回り道して行くか」

 来た道を引き換えそうとしたところで、奇妙な光景を見た。

 一人の女が封鎖している方向に向かって歩いていた。女はそのまま警官の真横を通り過ぎて行く。警官たちは誰一人として、女を静止しようとしなかった。気付かないはずのない距離だ。その様子はまるで誰もその女のことが見えていないようで。

 気味が悪い、と思った次の瞬間、女は視界から消えていた。

「今、確かに誰かいたよな……」

 目を擦ってみるが、女が見えた場所には誰もいない。

「試験勉強で疲れてんのかな」

 試験勉強は精神的にも疲れる。知らず知らずのうちに負荷がかかっていたのかもしれない。

「後少しの辛抱だし、これを乗り越えたら星わたの新刊が俺を待っている!」

 自らを鼓舞し、封鎖されていない道を探しに向かう。

 踵を返した蒼真の後方では、火災による黒煙が立ちのぼっていた。

 

 

「誰にも見えてない女が見えた、ねえ……」

 大貴の家に着いてから、勉強会かま始まり三時間ほど経過頃。お互い疲れて集中力が落ちてきたので、蒼真は来る途中に見た不可思議な光景について彼に話した。それを聞いた大貴の反応は呆れた様子で、

「興味なさそうな顔して、本当は女に興味津々なんだな」

「妄想じゃない。本当に見たんだって」

「へー。蒼真って、オカルトの類いは信じないと思ってたわ」

「普段ならそうさ。ただ、あの時は妙に現実感があったんだよ」

 すぐに消えてしまったものの、あの時見えた人影は確かな存在感を有していた。……他に見えている人はいないようだったが。

「すぐそこで火事が起きてたんだろ?そこで焼け死んだ人の幽霊……かもな」

「一人身元不明の焼死体が発見されたらしい。ネットニュースに出てた」

「やめろよ!怖いこと言うな!」

「自分で言ったんだろ……」

「あーあ。蒼真が変なこと言うせいで集中力なくなったわー。テレビでも見よ」

 大貴は開いていた参考書を無造作に放り投げると、テレビをつけ目ぼしい番組を探し始めた。勉強会を開始してから三時間ほどが経ち、頭の回転も鈍くなってきたところだ。

「ニュースで火災のことやってるかな」

「幽霊映り込んでたらどうするんだよ⁉︎」

 本気で怯えている大貴からチャンネルを奪い取り、チャンネルをニュース番組に切り替える。しかし、映し出されたのは火災現場の映像ではなく、とある『大穴』の映像だった。

『アメリカテキサス州にある巨大な縦穴、通称デビルズ・ホールの調査隊に地下探検家の土方宗二氏が日本人として初めて抜擢されました。土方氏は記者からのインタビューに————』

 底の見えない大穴——、デビルズ・ホールと呼ばれたそれは地上をくり抜いたように広がっていて、奥深くは全てを飲み込んでしまいそうな暗闇に覆われていた。

「デビルズ・ホールって……悪魔でも住んでるのか」

「デビルズ・ホールを知らねえの⁉︎」

 大げさな程驚く大貴に頷くと、大貴は少し興奮した様子でデビルズ・ホールについて話し始めた。

「大穴がいつから存在しているのか不明。大きさも深さも現在確認されている世界中の大穴の中で最大。深さに関しては現在の技術では確認できないほど深いんだぞ。名前は悪魔がその穴から飛び立つのを見たことに由来するんだが、今はコウモリと勘違いした説が有力視されていて——」

「なんでそんなこと知ってんの?」

「ツチノコが確認されたとか、まだ未確認の地下深くには地下文明を築いた地底人が存在しているとか、秘密結社が内密に大穴を調査しているとか都市伝説がかなり囁かれてるんだぜ。そういう都市伝説系の動画漁ってたら詳しくなった」

「それで試験期間中に動画見まくって気が付いたら一日終わってたってわけね」

 図星だったのか、大貴は顔を逸らして天井を見上げる。

「都市伝説って、ロマンあるよな」

「まあ、そういうのって大概妄想だけどね」

「蒼真は分かってないなあ。真実か嘘かなんてどっちでもいいのさ。そうだったらいいな、と胸を躍らせている時がいいんだろうが」

「それで後々、勉強してないから教えて、と泣きつかれる身にもなれ。ほら、ここ分かるか?」

 大貴の前にある参考書を開き、理解していないであろう箇所を指差す。試験範囲はまだまだカバーできていない。休憩している暇はないのだ。

 時折唸り声をあげる大貴に勉強を教えながら、時間は緩やかに過ぎていった。

 

 時刻は午前零時を少し過ぎた頃。結局、一夜漬けで試験範囲の全てをカバーすることは出来なかった。だが、最低限押さえておくべきところは教えられたはずだ。

「まだ試験まで時間はある。さっき教えたところ、もう一回復習しとけよ」

「ほんと助かった。ほい、これ今回の報酬」

 手渡された星わたは、確かに鳴芽先生のサイン入りだった。しかし、大貴の発言には違和感があった。

「おい待て。今、今回の報酬って言ったか?次はないからな。俺だって自分の勉強が——」

「お疲れ!」

 都合が悪くなったらしく、大貴は蒼真を家から押し出すと、バタンとドアを勢いよく閉めた。

「あいつ、俺を都合のいい教材だと思ってんのか……!」

 沸々と怒りが込み上げてきたが、手元にある星わたの存在のお陰で全てを許せた。

 深夜の街道を歩いていく。しん、と静まり返った空気の中にいると、世界には自分しかいないんじゃないかと思えてくる。もしも自分が世界に一人だけ取り残されたらどう感じるだろう——、と考えたところで、大貴の言っていたことを思い出す。

「まあ、確かにロマンはいいかもしれない」

 あり得ないことに思いを馳せるのは楽しい事だ。でなければ創作物を楽しめない。蒼真の胸の中で弾けそうなこのワクワク感も、元を辿ればロマンに思いを馳せていることが起因だ。大貴もまともな事を言う時があるらしい。

 しばらく進むと、来る時に火事を見た場所まで戻った。煙は止まったようだが、かなりの規模だったのか、未だに消防士や警察官が動き回っている様子が見えた。

「こんな遅くまで、大変そうだなぁ」

 そんな、他人事のような感想しか出てこなかった。自分が住む街で起こった火災で、その原因は分かっておらず、いつその被害に遭うか分からないというのに。

「あの女の人、なんだったんだろう」

 ここを通ると嫌でも思い出す。蒼真にしか見えなかった不可思議な女を。実はあの時、女と一瞬目が合ったような気がしたのだ。その女の目は虚で生気が感じられず、その焦点も定まっていなかった。それはまるで、この世界を彷徨う死者のような目で——。

「早く帰ろ」

 思い出すほど気味が悪くなり、そそくさとその場を立ち去る。

 直後、得体の知れない悪寒が全身を駆け巡った。幽霊のような女を見た時とは違う、心臓が針に刺されたような感覚。背後から何かが近づいてきている。足音をたてながら、ゆっくりと。

「お前か。オレを呼ぶのは」

 低い男の声が背後から響いた。返事は出来なかった。口を開くことさえ躊躇うほど辺りの空気は重く、肌を刺すように冷たい。そこで、蒼真は先程の悪寒の正体に気付く。蒼真は人生で初めて、殺気というものを感じていた。

「お前か。オレを呼ぶのは」

 二度目の問いかけ。これに答えなければ、蒼真に未来はない。が、答えたところで、自身が殺される未来しか思い浮かばなかった。

 見えない恐怖を背に、蒼真の思考は白熱する。この場を切り抜ける方法、背後にいる者は何なのか、どうして自分に殺気を向けるのか。

「ひっ——」

 気が付けば、情けない声を上げながら、背後にいる何かに向かって鞄を投げつけていた。恐怖に耐えられなかったのだ。鞄をぶつけて、相手が怯んだ隙に走り去ろうとして——。

 背後に視線を向けた先で、幽鬼の如き青白い光を宿した瞳がこちらを見つめていた。その殺意を隠さない瞳に見つめられて、蛇に睨まれた蛙のように身体が硬直する。恐怖で逃げる足が竦んだのだ。

炎蛇サーペント

 男の短い呟きと同時に風切音が鼓膜を揺らす。辺りを見回したが、大きな変化は何もない。

「あ——?」

 突然、足がもつれて体勢を崩してしまった。右足に違和感を感じてそちらを見ると、赤い体表をした蛇が巻き付いていた。振り解こうと乱暴に足を振るが、蛇の締め付ける力はどんどん強くなっていく。

「—————っ!」

 地面を引っ掻き、声にならない悲鳴が漏れる。蛇が巻き付いた部分からは、肉の焦げた匂いがした。この蛇は締めつけた獲物を体表面の高熱で焼き殺そうとしているようだ。

 意識が沸騰し、一秒ごとに自分自身が削ぎ落とされていく。残ったものは苦痛と恐怖だけ。

「この程度で泣き喚くか。お前ではなさそうだ」

 男は心底がっかりしたようだった。何の目的で、何を期待して、蒼真を襲ったのか。そんなことに思考を割く余裕は蒼真に無く、逃げる、という選択肢すら浮かばなかった。

 男が蒼真に向けて手をかざす。何を起こそうとしているのかは分からないが、蒼真の命を奪う行為であることは理解できた。

 ここで自分は死ぬ。その事実を直視した瞬間、苦痛も恐怖も感じなくなっていた。足に巻きつく蛇すら気にならない。胸を占めた思いはただ一つ。

 死にたくない——。

 刹那、蒼真の全身を熱が駆け巡った。それは蛇が放った燃えるような熱さではなく、温かみのある熱だった。

「え、足が……治って……」

 気が付けば痛みは消え、巻きついていた蛇は淡い緑の炎に包まれながら地面をのたうち回っていた。

 その光景を前に、男は目を見開いて立ちすくむ。

「——ハ。やはりそうか!漸く見つけたぞ」

 男の口角が釣り上がる。先程まで無感情だった表情に悦びが灯る。それは狂気を感じさせる笑顔で——、

「この時をどれほど待ち侘びていたか。裏切り者には死を——!」

 興奮した男は次こそ腕を振りかざした。

 瞬間、蒼真の視界を炎の大波が覆った。次々と襲いかかる事態に、蒼真の理解は全く追いつかない。先程とは違い、自分の死を意識する暇もない。本当にどうしようもなく、抵抗さえ出来ずに、蒼真は灼熱の津波に飲み込まれた。

「貴方こそ、見つけたわよ。こんな街中で魔法をぶっ放すなんて何を考えているのかしら」

 頭上から凛とした女の声がした。それと同時に、蒼真を呑み込もうとしていた炎の大波が真っ二つに割れる。

 霧散していく炎の中、蒼真の目には銀髪をなびかせながら、肌が焼けるような熱気の中で涼しげに佇む女の姿が写っていた。その手には、彼女の背丈ほどもある大きな鎌のようなものが握られている。

「メフィスト、その子とこの辺りをお願い」

 女は蒼真を庇うように立ち塞がると、鋭く男を睨みつけた。

「了解。気を付けなよ。相手は大悪魔だ」

 どこからともなく、蒼真の隣にメフィストと呼ばれた男が現れた。男——メフィストは紫紺の瞳を蒼真に向けると、爽やかな笑みを浮かべた。彼の風体は西洋貴族のようで、胸に飾られたジャボや煌びやかな装飾が、彼の存在を際立たせている。彼女らが何者かは分からないが、女の言葉から察するに、突然現れた女とメフィストは蒼真を守ってくれるらしい。

 女は大鎌を構えながら一気に距離を詰めていく。その歩みには一切の躊躇いも、恐れも感じられない。——咽せ返る程の殺気に晒されているのに。

「ああ。大丈夫だよ。あの子はね、神様なんだ」

 メフィストは蒼真を安心させるために言ったのだろうが、蒼真にはその意味が全く分からない。神様?彼女が?

 どういうこと、とメフィストに問おうとした瞬間、正体不明の男から火の粉が舞った。大気は熱を帯び、辺りの温度が急激に上がっていく。それは張り詰めていた空気が突然弾けたようで。

炎蛇サーペント

 男の手のひらから、燃え盛る大蛇が大口を開いて女に襲いかかる。その大きさは蒼真に巻き付いたものとは比べ物にならない。空中で身体をくねらせながら進む大蛇は、しなやかに迫る鞭のよう。

 対する女はその巨体に怯む事なく、

「ふっ——!」

 大鎌を横薙ぎに一閃すると、襲いかかった大蛇はいとも容易く切断された。切り裂かれた大蛇は幻のように霧散していく。女は、そのまま流れるように跳躍して男に肉薄していく。

「舐めるな」

 男は右腕を業火に包み目の前を薙ぎ払う。それはただ闇雲に振るっただけの攻撃。その程度の脅威に女が遅れをとるはずもなく、疾風の如き速さで炎を掻い潜ると、次の瞬間、肉と骨が裂ける音がした。

「ぐ——っ⁉︎」

 苦悶の表情を浮かべる男。彼の右腕は、女の大鎌によって真っ二つに切断されていた。血を流しながら焦る男とは対照的に、女は冷静に追撃の蹴りを放つ。男は吹き飛ばされ、受け身もとれず地面に転がっていく。

「本命はこっち。——封印カリオス

 女は大鎌の柄を地面にカンと当てると、男の頭上と足元に青白い光を放つ幾何学模様が浮かび上がる。男を挟むように現れたそれは、間にいるものを閉じ込めるための檻のようだ。光は徐々に強くなっていき、男の姿が見えなくなっていく。

 直後、男の体が炎に包まれた。炎は男の全身を覆うように一瞬で広がっていく。そのまま、男は瞬きのうちに灰と化してしまった。それに続いて幾何学模様の放つ光も弱くなっていく。

「デコイだったか……。やられたわ」

「想像していたほど考え無しってわけでもないらしい。取り敢えず、この子を助けられただけでもよしとしよう」

 忌々しく呟く女にメフィストが話しかける。その様子を、蒼真は口をポカンと開けたまま見ていた。先程見た光景が現実離れし過ぎていて、蒼真の頭では理解が追いつかない。

「た、助かった……んですか?」

「一時的に、だけどね。一先ず命の危険はないよ」

 メフィストの言葉を聞いても、未だに事態が飲み込めない。あの男は何者なのか。どうして襲ってきたのか。手をかざすだけで炎が出るとはどういうことか。足に絡みついた蛇が燃えたのは何故なのか。女とメフィストは何者なのか。何故助けてくれたのか。疑問は尽きる事を知らず、頭の中で整理し切れない。

「あれ——」

 不意に視界がぼやけた。そのまま全身の力が入らずその場に倒れ込む。意識は濁った湖のように不鮮明。先程まで頭の中を埋め尽くしていた思考さえできない。

「————」

 メフィストらしき人物が覗き込んで何かを言っている。だが、既に言葉を理解する力も残っていないらしい。瞼が閉じていく中、蒼真は一つだけ気が付いたことがあった。

 助けてくれたのに、お礼も言ってなかったな——。

 

 

 助けた少年は力を使い切ったのか意識を失ってしまった。何も知らない少年にとって、あの男の襲撃は突然の出来事だったのだ。仕方がないだろう。メフィストは倒れた少年をお姫様抱っこで抱えると、彼をじっと見つめたまま動かない。

「ふむ。この子をどう思う?」

「どう思うって、ただの人間でしょう?」

「そうじゃなくて、アイツはこの子を狙っているみたいだろう。何かワケありなんじゃない?」

 そう言われて少年を見るが、何処からどうみても普通の少年だ。変わった所など、ましてや先程取り逃した大悪魔のような超抜じみた特徴などない。——変哲のない、ありふれた命だ。

「どちらにしても放っておくわけにいかないわ。一旦、その子を連れて帰りましょう。また一から探し直さないといけないし」

 恐らく、男は少年を狙って動いてくるだろう。少年を連れていくのは守るためという理由もあるが、それよりも誘き寄せる餌になるからという理由の方が最もだ。——先ほど少年を助けられたのは幸運だったと思うけれど。

「嬉しそうだねえ」

 メフィストの表情は余裕たっぷりで気に食わない。

「別に、そんなことない」

 そう告げる口元が少しだけ緩んでいたことに、私は気づいていなかった。

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2025年12月20日 18:00
2025年12月21日 18:00

スターゲイズ・アンダーテール 滝たぬき @takitanuki

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