やさしい人

CHIDORI

やさしい人

その日は、夏の名残がまだ空気の底に沈み、

夕暮れの光は誰もいない公園を照らしていた。


ふいに、泣き声がした。


「お母さん、どこ……?」


小さな背中がしゃがみ込み、肩が細かく震えている。

私は歩みを止め、しばらくその輪郭を見つめた。

周囲には誰の気配もない。

胸の奥で、何かが静かに沈む音がした。


「大丈夫?」


声をかけると、涙の跡を残した顔がゆっくりとこちらを向いた。


「お母さんも、お父さんもいなくなっちゃったの。おうちに帰りたい……」


夕暮れの空気よりも薄く、頼りない声だった。

私はうなずき、手を差し出す。

小さな手が、ためらいがちに掌へ落ちてきた。


二人で歩き出すと、風がようやく頬を撫でた。

汗が首筋を伝い、それがかえって涼しさを運んでくる。


「暑いから、飲み物でも買おうか」


並んだ影が長く伸びる。

コンビニの自動ドアが開くと、冷気が静かに体へ染み込んだ。

手をつないだままレジへ向かうと、店員が柔らかい声で言う。


「あら? お母さんとお散歩?」


止まっていた涙がまた目に満ちていく。

しゃくりあげながらも、はっきりと言葉が落ちた。


「この人、お母さんじゃない」


店員の笑みがわずかに固まる。

私はぎこちなく笑い返し、つないだ手をそっと、しかし確かに握り直した。


(どうか、通報されませんように)


祈るような気持ちで店を出る。

夕暮れはすでに夜へ傾き、街の色がゆっくりと変わり始めていた。


家に着くと彼女は、迷うことなく奥の部屋へ進み、写真の前に立った。


「お母さん」


写真に映る男女へ向けて、穏やかな微笑みを浮かべる。


年老いた母と、中年になった息子の二人暮らし。

今日もまた、母さんを迎えに行った。

この日々が、いつまで続くのだろう。

その問いだけが、夜の静けさの中で、そっと息をしていた。

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やさしい人 CHIDORI @chidoriro

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