第6話 硝子の向こうの姉妹(3)

 プツン。  唐突に、映像が途切れた。  古い映写機のフィルムが焼き切れたみたいに、那美(ナミ)の姿がホワイトアウトして消える。


 あとには、ジジジ……という耳鳴りのようなノイズだけが残った。  お兄様の心が、これ以上の回想を拒絶したのだ。  あの続きにあるのは、血と、絶叫と、那美の死だから。



「……世璃? どうしたんだい?」


 ハッとして意識を浮上させると、お兄様が心配そうにあたしを覗き込んでいた。  灰色の記憶の世界から、暖色の現在へと戻ってくる。  オイルヒーターの熱気。湿った雨の匂い。そして、目の前にあるお兄様の温かい瞳。


 お兄様の手が、あたしの頬を包み込んでいる。  その指先は氷のように冷たく、微かに震えていた。  あたしはその手のひらに、猫のように顔を擦り寄せた。



「ううん。お兄様がぼんやりしていたから、魔法をかけてあげてたの」


「魔法?」


「うん。『悲しいことは飛んでいけ』の魔法」



 あたしは無邪気に笑って、お兄様の手首の裏側――脈打つ血管の上に、ちゅっ、とキスをした。  お兄様は一瞬驚いた顔をして、それから氷が溶けるように、困ったように笑った。


「ありがとう。……効いたみたいだ」


 ――嘘つき。


 あたしは鼻をひくつかせた。  お兄様の脳みその奥には、まだ那美の残像がこびりついている。  焦げ付いた記憶の匂いが、まだプンプンしている。  お兄様は、あたしの顔を見ながら、この皮膚の下に眠る「死んだ那美」を探しているのだ。


 妬けるわね。  


 あたしは胸の奥で、黒いタールのようなものが沸き立つのを感じた。  

これが「嫉妬」という感情なのだろうか。  人間が抱く、最も醜くて、最も強力なエネルギー。


 那美。可哀想なお姉ちゃん。

 

 記憶の中のあなたは、悲劇のヒロインみたいに綺麗だったわ。  

あなたは死ぬ気で怪物を解き放って、この人を守ろうとした。  「兄さんを自由にする」なんて、高尚な願いを抱いて。


 でも残念。  その怪物(あたし)は、あなたの抜け殻をいただいて、こうしてお兄様に可愛がられている。  


 あなたの願いとは正反対に、お兄様をこの呪われた城に縛り付けている。


「ねえ、お兄様」


 あたしは上目遣いで、お兄様の瞳を捕らえた。  その硝子玉に、あたしだけが映るように。


「あたし、どこにも行かないよ。『外の世界』なんていらない。ずっとお兄様のそばにいる」



 それは、那美への当てつけだった。  那美がお兄様に与えようとした「自由という孤独」を否定し、あたしが与える「共犯という束縛」を選ぶように誘惑する言葉。


 お兄様の表情が揺らいだ。  一瞬、那美の言葉――『兄さんの方が幸せだよ』――が脳裏をよぎった気配がしたけれど、すぐに今のあたしの体温にかき消された。



「……ああ。知っているよ」


 お兄様は、あたしを抱きしめた。  

強い力だった。  まるで、溺れる人が浮き輪にしがみつくような必死さで。


「僕もだ。僕も、君を離さない」


 お兄様は、あたしの背中を何度も撫でた。  その手つきは、壊れ物を扱うように優しく、そして逃走を許さない看守のように執拗だった。  


 お兄様もまた、那美の記憶と、目の前のあたしの間で引き裂かれているのだ。  その葛藤が生み出す「絶望」の匂いが、今夜は一段と甘く、濃厚だった。


 勝った。  


 あたしは心の中で、死んだ那美に舌を出した。 幽霊には体温がない。抱きしめる腕もない。  


 どんなに綺麗な思い出も、生温かい肉の感触には勝てないのよ。



 窓の外では、雨が激しさを増していた。明日になれば、この雨がいろいろなものを洗い流してくれるだろう。でも、お城に染みついたこの腐った甘い匂いだけは、きっと永遠に消えない。


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西伊豆の廃屋から東京のタワマンへ。美しき食人鬼たちは、人間を喰らって愛を成す 秦江湖 @kouden

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