星の向こう

秋風夕顔

後悔

「ねぇ、後悔って、したことある?」

信号が変わる音に重なるように、彼女が言った。 彼は少しだけ足を止めかけたが、そのまま歩いた。 横断歩道を渡りきった先の植え込みには、初夏の風が吹いている。 咲ききったツツジの花が、ところどころ褐色に変わっていた。

「どうして急に」

返す声は、やや遅れて口をついた。

彼女は答えなかった。

イヤホンのコードが風に揺れ、肩にかかる髪にふれた。 歩道橋の前の自販機の光を横目に、彼はポケットに手を入れた。

「……たとえばね」

彼女が口を開いた。

「何か言いたかったときに、言えなかったことって、あとから思い出すでしょう」 「うん」

「それを、後悔って呼ぶのかもしれないって、ふと思って」


歩道橋の階段を上がると、遠くまで空が抜けて見えた。 沈みかけた陽が、街の輪郭をゆっくりと染めていく。 小学校の校庭には、転がったサッカーボールがひとつ。 人気はなかった。

「でも、言っていたら言っていたで、別の後悔があったのかもしれないとも思う」 彼の言葉に、彼女は短くうなずいた。 二人の影が、階段の鉄の手すりに沿って斜めに伸びていた。 その隙間を、鳥の羽音が通り過ぎていく。

「言えなかったことのほうが、長く残る気がする」

そう言って、彼女は視線を下げた。 彼はうなずかなかった。

「……まあ、いまさらなんだけど」

彼女が笑った。 その笑いに、彼は何も返さなかった。 階段を下りる途中、彼はふと立ち止まり、胸ポケットを探った。 出しかけた紙を、指先で押し戻す。 風が吹き、木々が静かに揺れる。 彼女は振り返らずに歩いていった。 白いスニーカーの靴音が、一定の間隔で遠ざかっていく。 日が、ビルの隙間に沈みかけていた。 彼はその後ろ姿を見ていた。 下りきるには、あと十段ほどあった。 風がまた吹き、彼女の髪がふわりと揺れた。 ひとつ、ふたつ。 彼女の歩幅は、いつも少しだけ速かった。 けれど、その日だけは、歩みがやや緩やかだった。 彼は一段だけ降りた。 ポケットの中の紙を、わずかに強く握った。 熱が、指先にこもっていた。

「言えばよかった」

かすれた声が、夕暮れの喧騒に溶けていく。その声に応えるものはなにもなかった。 彼女がもう一度、振り返った。 無言のまま、一瞬だけ視線が交わる。 それきりだった。 彼女はまた前を向き、歩き出す。

再会の約束もないまま。 手を振ることもないまま。 彼はその場から動かなかった。

影が、彼の足元に静かに伸びていく。 言葉もまた、落ちていった。 彼女の後ろ姿を見ながら、手紙を掴んでない方の手がわずかに前に出た。だが、彼女は振り返らなかった。

握っていた手紙をポケットから取り出す。その手紙は丸くなってとげとげしく、彼の手に乗っていた。

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星の向こう 秋風夕顔 @choannn

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