空の国を一周するまで

イトウ

落ちた先は、空の上だった

​「もう、どうでもいいよ……」

​投げ出した言葉と一緒に、カナタは非常階段から足を踏み外した。

テストの失敗、親とのケンカ、そして一番大切な友達を傷つけてしまったこと。

全部が重たくて、どこか遠くへ消えてしまいたかった。

​次に目を開けたとき、カナタは真っ白な雲の上にいた。

空はどこまでも青く、足元には不思議と固い地面がある。そこは、空にぽっかりと浮かぶ巨大な島だった。

​「……気がついた? びっくりしたよね」

​穏やかな声がして、カナタは跳ね起きた。

そこには、自分と同じくらいの年齢の少年が、優しく微笑んで座っていた。

「僕はナギ。この『空の国』の案内人だよ。君、地上で『ここじゃないどこかへ行きたい』って思わなかった?」

​ナギは丁寧に教えてくれた。

ここは、現実から逃げ出したくなった人が迷い込む場所。

そして、地上に戻るためのルールはたった一つ。

​「この島をぐるっと一周して、ここに戻ってくること。そうすれば、帰り道が見つかるよ。……大丈夫、僕が一緒に歩くからね」


​歩き始めて数日が経った。

最初こそ穏やかだった景色は、いつの間にか、足元がさらさらと崩れる「砂漠」に変わっていた。

歩いても歩いても足が沈み、前に進むのがつらい。

​「ナギ、なんで急に砂漠になったんだ……?」

「この国はね、君の心とつながっているんだ。この砂は、君がこれまで『言わずに飲み込んできた言葉』かもしれないね」

​ナギの言葉に、カナタはハッとした。

砂に足を取られるたび、頭の中に、かつての光景が浮かぶ。

本当は「ごめん」と言いたかった。本当は「助けて」と言いたかった。

でも、面倒になるのが怖くて、砂を飲み込むように黙り込んでしまった。

​「……僕は、いつもそうだった。嫌なことがあると、黙って逃げてたんだ」

カナタがそう呟くと、少しだけ砂の道が固くなった気がした。

ナギは優しく、「ゆっくりでいいよ。一つずつ思い出して、踏みしめていこう」と隣で歩いてくれた。

​砂漠を抜けると、今度は激しい雨と風が吹き荒れる「嵐の森」に入った。

雷の音が、まるで誰かの怒鳴り声のように響く。

​「怖い……!」

「カナタ、しっかりして。この嵐は、君が一番『逃げ出したかった瞬間』だよ」

​ナギに励まされながら、カナタは必死に木々にしがみついた。

そのとき、記憶が鮮明に蘇る。

あの日、学校の裏庭で。友達が悪いグループに絡まれていたとき。

自分は助けるのが怖くて、見て見ぬふりをして走り去った。

あの時の激しい後悔が、今、目の前の嵐となってカナタを襲っている。

​「僕は、最低だ……! あの時、あいつを置いて逃げたんだ。そのあと、顔を合わせるのが怖くて、また逃げた……!」

​カナタは泣きながら叫んだ。

すると、不思議なことに、あんなに激しかった風が、少しずつ弱まっていった。

自分の嫌な部分から目を背けずに、言葉に出したことで、嵐が鎮まっていったのだ。

​旅の終盤、ついにスタート地点が見えてきた。

だが、その手前で、大きな地震が起きた。道が崩れ、案内人のナギが崖の下へ滑り落ちてしまう。

​「ナギ!」

「僕はいいから……! カナタ、早く行って。一周すれば、君は帰れるんだ」

​ナギは岩の間に挟まれ、足を痛めて動けなくなっていた。

空を見上げると、出口らしき光の渦が、今にも消えそうに輝いている。

今、ナギを置いて一人で走れば、間違いなく地上に帰れる。

​カナタの胸がドキドキと高鳴った。

(また、ここで逃げるのか? 助けるのが面倒で、怖いからって、一人で帰るのか?)

​カナタは、自分の足に力を込めた。

向かったのは、光の渦ではなく、崖の下だった。

「……もう、逃げないって決めたんだ!」

​カナタはボロボロになりながら岩を動かし、ナギを背負い上げた。

「ナギ、一緒に行こう。君がいなきゃ、一周した意味がないんだ」

​ナギは驚いた顔をしたあと、とても嬉しそうに、「……うん。ありがとう、カナタ」と言って、その肩に顔をうずめた。


​ナギを背負ったまま、カナタは最初に出会った崖の縁に辿り着いた。

体は重く、息は絶え絶えだったけれど、心は驚くほど軽かった。

​「見て、カナタ。君が自分の足で、逃げずに歩ききったから……」

​ナギが指差す先。

そこには、輝く道が現れていた。

それは「一周した距離」が作った道ではなく、カナタが自分の過去に向き合い、ナギを助けるという「勇気」を出したからこそ現れた、本当の帰り道だった。

​「ナギ、君はどうするの?」

「僕は、また次の『迷い子』を助けるよ。でも、君にもらった勇気は忘れない。……地上に戻っても、もう大丈夫だね」

​ナギの姿が、温かい光の中に消えていく。

​カナタが次に目を開けたとき、そこは病院のベッドの上だった。

窓の外には、いつもの見慣れた景色。

でも、カナタの心には、あの空の国で一歩ずつ踏みしめた感覚が残っている。

​病室のドアを叩く音がした。

入ってきたのは、あの日見捨ててしまった友達だった。

カナタは逃げなかった。

少しだけ震える声で、でも真っ直ぐに相手の目を見て、一番伝えたかった言葉を口にした。

​「……ごめん。それと、会いに来てくれて、ありがとう」

​空の国は、もう見えない。

けれど、カナタは知っている。

どんなにつらいことがあっても、向き合って一歩ずつ進めば、そこが自分の「帰る場所」になるのだということを。

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空の国を一周するまで イトウ @Itou3208

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