第5話

雨音が、図書館の窓を叩いている。

規則正しいはずのその音が、今日は少しだけ近く感じた。


白夜は、コーヒーのカップを両手で包んだまま、しばらく黙っていた。


「……では」


ぽつりと、ようやく声が落ちる。


「宵夜の話をしましょう」


瑠奈はペンを止めて顔を上げた。


「……誰の話ですか」


「私です」


一拍の間。


「……白夜さん?」


「ええ。

 それは、私が“白夜”になる前に使っていた名前です」


冗談めかしているようにも見えないし、

かといって芝居がかっているわけでもない。


琉奈は少しだけ眉を寄せた。


「……設定、ですか?」


白夜は、ほんのわずかに笑った。


「そう思っていただいて構いません。

 あなたは物語を書いている。私は、それを手伝っている。

 ……それで十分でしょう」


その言い方が、妙に優しくて、

琉奈はそれ以上突っ込めなくなった。


「宵夜は――」


白夜は、窓の外を見たまま続ける。


「長い間、旅をしていました。

 目的は、ただ一つ」


カップの中で、液体が小さく揺れた。


「――会いたい人に、もう一度会うためです」


琉奈の胸が、きゅっと締めつけられる。


「……恋人、ですか?」


白夜は、すぐには答えなかった。


数秒。

雨音だけが、二人の間を満たす。


「いいえ」


静かな否定。


「守ると、決めた人です」


その言葉には、迷いがなかった。


「宵夜は……その人を守れなかったんですか?」


問いは、思ったより自然に口をついて出た。


白夜は、少しだけ視線を落とす。


「……守れました。

 でも、代わりに……別れました」


「別れ?」


「ええ。

 生き別れ、というよりは……」


白夜は、言葉を選ぶように一度息を吸った。


「――舞台を、降りたのです」


その表現が、琉奈の中で奇妙に引っかかった。


「舞台……?」


「はい。

 宵夜は、そこから一人で歩くことになりました」


「……それで、三千年?」


冗談半分のつもりだった。


でも、白夜は否定しなかった。


「時間の感覚は、曖昧になりますよ。

 長く歩いていると」


「……ほんとに、作り話みたいですね」


琉奈がそう言うと、白夜は少しだけ微笑んだ。


「ええ。

 だから、あなたは“物語”として聞いてください」


そう言ってから、彼は静かに付け足す。


「ただ――」


白夜の指が、胸元の古い鈴に触れた。


「物語の中のその人は……

 とても、静かに強い人でした」


琉奈は、なぜか喉の奥が熱くなった。


「……白夜さん」


「はい」


「その人……

 今、どこにいるんですか?」


白夜は、少しだけ目を伏せた。


「――今は、まだ。

 物語の中、ですね」


りん……。


誰かが鈴を鳴らしたような音が、

確かに、聞こえた気がした。


琉奈は、ノートを強く握りしめる。


(……この人、やっぱり変だ)


そう思うのに、

ページを閉じる気には、どうしてもなれなかった。

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