誰もがお前を殺したかった

佐藤シオ

プロローグ

 桜庭春樹が藤代蛍を初めて見たのは、中学校の入学式の日だった。


 自分のクラスの教室に向かうと既に藤代はそこにいて、いかにもやる気のない様子でだらんと椅子に背を預けていたのである。しかし、目を引くのはその姿勢の悪さではなかった。


 藤代蛍はとにかく美しい人間だ。顔は小さく、大きな目は長い睫毛に縁取られている。鼻はツンと高く筋が通り、小さな唇は桃のように瑞々しい。真っ白なうなじを隠すようにその部分だけが伸ばされた髪も含め、それはもう見た者をハッとさせる、精巧な人形のような顔が均整のとれた細身の胴体の上に乗っていた。


 桜庭も例に漏れず、教室に入ってすぐにその存在に目を惹かれた。男とも女とも言い難い性別を超越した美がそこにあった。


 その教室へ次々と入ってくる生徒たちは藤代に気がつくなり言葉をなくし、目を丸くしている。話しかける者は誰一人いなかった。全員、遠巻きに気にしつつも近づくほどの度胸はなかったのである。何十人もの視線を受け止めながら、藤代はスラックスのポケットに入れた手を出すこともなく大口を開けてあくびをした。鋭い犬歯がちらりと覗く。


 桜庭はそれを見て我に返った。慌てて何事もなかったかのように黒板に近寄り、張り出されていた紙から自分の名前を探す。桜庭の席は藤代の左斜め後ろにあるようだった。


 相変わらず品性の欠片もない座り方をした藤代を横目でこっそり覗きながら自分の席へ進む。近くで見るとより一層その顔は麗しく見えた。止まりそうになる足を無理やり動かして辿り着いた机でぼんやりと後ろ姿を眺める。


 ――あんなに美しければ、さぞ楽しい人生だろう。


 両の頬にニキビを蓄え始めた思春期の桜庭はやや厭世的になっており、少しでも醜い肌を隠そうと伸ばした前髪の下で羨望と嫉妬の眼差しを学ランに包まれた背中へ突き刺した。黒板の張り紙で知った『藤代蛍』という名前を思い浮かべながら、その髪の毛の一本一本に至るまで呪いをかけるかのように睨めつける。


 元々いまいち冴えない顔に荒れた肌の自分は桜庭にとって何よりも醜悪なものに見えていた。そこへ現れた藤代の美しさはまるで全く別の生き物のようにすら感じ、ほんの少し、自分の人生を呪った。せめてもう少し、もう少しだけマシであっても良かっただろうと。


 しかし藤代はそれ以上に深く自らの人生を呪っていた。それは醜さではなく、美しさゆえに。誰にも知られぬ黒い炎を胸の内で燃えたぎらせながら、優雅に長い足を組み替えた。いくつもの煩わしくまとわりつく視線に耐え、宙に視線を泳がせて遠い週末を想う。


 やがて入学式が始まっても、藤代のやる気のなさと姿勢の悪さは変わらなかった。その後ろ姿を見て声をひそめる者はいたが、ふとした拍子に藤代の顔を見るなり押し黙る。それは教師ですら同様であった。無事に式を終えて教室に帰るなり声をかけた担任は、一瞥されただけですっかり閉口してしまった。その様子がまた桜庭は面白くなかった。美しければ全てが許される。なんて不平等な世界だろう。


 いよいよ帰宅時間になったとき、ようやく藤代に声をかけるファーストペンギンが現れた。顔は悪くなく、高い身長に身幅が追いついていないいかにも成長期の男子中学生といった者だった。どうにか連絡先を交換しようと尽力しているようで、藤代の短い返事の何倍も言葉をこねくり回して説得を試みている。


「ほら、授業の情報とかも回ってくるしさ」

「………………あっそ」


 長く続いたラリーは、その一言で納得したのか面倒になったのか、藤代が折れる形で終わった。無難な黒いカバーに嵌められたスマートフォンをポケットから取りだし、白い指先が液晶画面を滑る。少し意外な可愛らしいビーズの連なったストラップがきらきらと揺れていた。


 桜庭のスマートフォンが静かに震える。人当たりの良い男子生徒から誘われて加入したSNSのグループからの通知だった。『藤代蛍』となんの捻りもない本名、未設定のままのアイコンのアカウントがグループに参加したという通知。本当にこの人間と一年間は同じ教室で授業を受けなければいけないのか、と実感の湧いた瞬間だった。


 男子生徒を押し退けて藤代が教室から去った瞬間、室内の話題は藤代に関するもので持ち切りになった。女子はきゃあきゃあと色めき立ち、男子はアイツなら抱けるかも、と下世話に盛り上がっていた。桜庭はそんな空気が嫌になり、同じ人間だと思われたくなくてさっさと席を立って帰路を急いだ。



 そんな桜庭が藤代と関係を持つことになったのはそれから数ヶ月後、すっかり季節も変わり金木犀が咲き始めた頃だった。


 通学路から少し外れた場所にある図書館。桜庭は初夏にそこを見つけ、こじんまりとしながらも沢山の本を所蔵したその場所をかなり気に入っていた。入口近くの幼児向けコーナーはたまに少し騒がしいこともあるが、基本的には利用者もあまりおらず、特に奥まった場所にある部屋は本棚の間を歩けば足音が静かに響く心地がよい空間であった。備えつけられた机と椅子は簡素ではあったものの本を読むには十分で、空調の音のみが聞こえるその空間で本を読んだり課題をこなすのが桜庭の一番の楽しみだ。


 特に金木犀の咲く季節になると、図書館の裏に植えられた金木犀の木から館内までふわりと香りが漂って格別だった。そんな季節に、美の化身がその場に降り立ったのだ。


 桜庭はいつも通り来館し、今日は何を読むかと考えながらいつもの部屋に入った。すると、本棚の間に先客がいるではないか。視界の端で見ただけでわかる。あの『藤代蛍』だ。


 動揺を表すかのようにスニーカーの底が音を立てた。藤代はその瞬間にこちらを振り返り、身を固くして視線を注いでいる。桜庭の背中に嫌な汗が伝った。まさかあのガラス玉のような瞳が自分に向けられることなど、考えたことすらなかったのだ。藤代にとって自分の醜い肌はどれだけ汚く映るだろう。重い一重の目は睨みつけているように見えているだろうか。


「…………お前、同じクラスの」

「あ、うん、そう。桜庭春樹……」

「桜庭」


 藤代が近づいてくる。桜庭は蛇に睨まれた蛙のようにすっかり身を縮め、逃れることもできなかった。身長は同じくらいなのに、その時ばかりは藤代が何メートルもある巨人であるかのように錯覚していた。長い指が顔に近づいてきても、それを避けることすらできない。


「……ふぅん」


 無遠慮に長い前髪を掴まれて強引に上げられ、藤代は素顔をじっと眺める。桜庭は声一つ漏らすこともできない。心底嫌なはずなのに、今すぐやめて欲しいはずなのに抵抗できなかった。頬の化膿したニキビや伸ばした前髪のせいで増殖した額の赤いニキビが露わになっていると思うと気が狂いそうだ。


「お前、何読むの」


 ぱっと手を離され、前髪がはらはらと落ちた。


「……まだ、決めてない」

「じゃあこれ読めよ」


 藤代はすぐ横の本棚から一冊引き抜いて渡した。渡した、というよりは突きつけたの方が正しいのだろうか。表紙にはオペラ座の怪人と誰もが知る有名なタイトルが印字されていた。


「なんで、これ渡すんだよ」

「は? そこにあったから」

「お、俺が醜いからだろ」


 あらすじぐらいは知っている。醜い顔を仮面で隠した男の話だ。直接侮辱されるよりもずっと屈辱的だった。お前も仮面で隠せばいいとでも言いたいのか、身の程を知れとでも言いたいのか、ふつふつと怒りの感情が桜庭の中で湧き上がっていた。しかし、藤代は全く意に介せず桜庭に背を向け、部屋の奥に向かって足を進めた。


「他の奴らと変わんねぇよバーカ」


 藤代にとって、他人の美醜など心底どうでも良いことだ。自分に害をなす者であればミケランジェロの彫刻のように美しい者であっても蹴り飛ばし、無害であれば周囲が顔をしかめるほど醜悪な者であってもフラットに接する。それが藤代蛍という人間だった。


 桜庭はぶつける先を見失った不完全燃焼の怒りと困惑を抱えたまま呆然と立っていた。手にはオペラ座の怪人を持って。何気なしに視線を落として表紙を見れば、知らぬ間にすっかり見慣れた白い仮面が赤い薔薇とともに描かれている。こんなもの、とすっぽり一冊分の空白ができた本棚に押し込めようとして、背表紙に印字されたあらすじに目が走った。読んだことがなくても知っている話。今や全く触れずに生きることの方が難しいラブストーリー。


 微かな産声を上げて本は開かれた。


 スクールバッグを床に置き、本棚の前から一歩も動くことなく桜庭は綴られた世界にのめり込んでいく。どこか陰鬱な空気が漂うパリのオペラ座へタイムスリップする。足元の床がゆらゆら揺れて、オペラ座の地下深く、沼のほとりへ落ちていく。そこにいるのは顔の醜い男。音楽を心から愛した男。


 自分もいつかこうなるのだろうかという微かな不安が頭をよぎった。顔の醜さに耐えきれず仮面を被って、誰もいない場所に引きこもって、ひたすらに情熱の煤を積み上げ続ける。悪いものではないかもしれないが、真っ当な生活ではないことも確かだ。他者に賞賛される何者かになりたい欲求を人一倍抱えていた桜庭にとって、それは望んでいない未来の自分の姿だった。


 そのとき、ガラガラと大きなカートの車輪が転がる音で現実へ引き戻される。桜庭は慌てて本を閉じ、スクールバッグを持って部屋の奥へ急いだ。


 返却された本を何冊も乗せたカートを引くのは篠塚みどり。そばかすの目立つ顔とどこか垢抜けない傷んだ金髪が特徴的な二十代後半の女性だ。つい最近、この街にある実家に帰ってきては図書館でアルバイトを始めたらしい。


 桜庭は彼女が苦手だった。同じ時期にここへ通い始めたことで勝手なシンパシーを感じられているのか毎度のように話しかけられるものの、全く気乗りのしない桜庭をどこか外れた指摘で笑う篠塚の図で終わっている。学校から帰ってきてまでわざわざ人と話し、その上笑われるという時間は無利益どころかマイナスにも差し掛かる嫌な時間だ。


 部屋の奥では静かに藤代が本を読んでいた。長いテーブルに一定の間隔を空けて設置された椅子の、一番隅っこ。窓の傍でただただ紙面の文字を追っている。いつもクラスの中でも特に明るい生徒たちと笑い声を上げている姿からは大違いで、桜庭は一瞬面食らってしまった。


 ――美しい。ただ、ひたすらに。


 風で揺れては白い頬を撫でる濡れ羽色の髪。しとやかにページをめくる細い指先。窓の向こうにある金木犀の木も相まって、呼吸を忘れてしまうほど絵になる光景だった。それはもう、同じ人間なのか疑いたくなるほどに。


「……!」


 息を呑んだ。藤代が笑ったのだ。


 それはほんの小さな微笑みだった。僅かに口角が上がるだけの、無意識の表情の変化だった。しかし、その微笑みが桜庭の胸を射止めて磔にしてしまった。篠塚が去り次第帰ってしまおうとしていた足に根を生やしてしまった。


 この瞬間、『藤代蛍』は桜庭春樹にとって『神様』になった。



 ――これは、神が死ぬまでの物語だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

誰もがお前を殺したかった 佐藤シオ @NaCl0717

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画