夕方だけ開く縁側の時間

イトウ

夕方だけ開く縁側の時間

​ 空が朱から紫へと溶け落ちる、一日の終わりの境界線。

 放課後、中学二年生の陽が帰宅すると、古い木造の家はいつも沈黙で迎えてくれる。街の喧騒から切り離された、小さな箱庭。

 学校という場所は、陽にとってあまりに騒がしすぎた。教室に充満する、誰かが誰かを値踏みするような視線の散弾。途切れることのない会話の波。それらにうまく乗ることができない自分は、透明な膜の中に閉じ込められた迷い子のよう。

​ 玄関を抜け、長い廊下の突き当たりにある縁側へ。

 祖母の静江は、台所で夕飯の支度をしながら、いつも決まった時間に声をかけてくる。

「陽、お茶の準備はできているよ。縁側に置いてあるからね」

「……うん。いつも、ありがとう」

​ 使い込まれた板張りの縁側に腰を下ろすと、そこには二つの湯呑みが並んでいた。

 一つは陽の、空を切り取ったような青い陶器。もう一つは、土の温もりを宿したような茶色の湯呑み。

 陽が自分の湯呑みを手に取り、まだ温かいお茶を一口すする。喉を通り抜ける、ほのかな苦みと優しさ。

 庭の向こう、沈みかけた太陽が空を燃え上がるような茜色に染め上げていた。木々の影が、生き物のように長く伸び、庭の置石を黒く塗りつぶしていく。その、昼と夜が溶け合う逢魔が時が訪れた瞬間、空気がふっと、水面に落ちた一滴の雫のように揺れた。

​「……今日はまた、一段と見事な入り日ですな」

​ 隣に、誰かがいた。

 陽はもう、驚かない。

 そこにいたのは、色の褪せた藍色の着物を着て、手ぬぐいを首に巻いた年配の男。日に焼けた顔に刻まれた、深い溝のような皺。江戸か、それとも明治か。いつの時代から風に吹かれてやってきたのかは分からない。男は穏やかな顔で、陽の隣に置かれた茶色の湯呑みを手に取り、ゆっくりと喉を鳴らした。

​「そうですね。昨日よりも少し、赤い気がします」

 陽がポツリと答えると、男は満足そうに目を細めた。

「左様ですな。この空の色を見れば、今日一日の疲れも、土に帰っていくような心地がする。こうして、見知らぬ方と茶を飲める。それだけで、十分。人の世の果報ですな」

​ 男は、かつてこの地を耕していた農民。

 彼は今の時代の暮らしを驚いたり、陽の制服を不思議がったりもしない。ただ、そこに座って、同じ空を眺めている。陽は、学校で言えなかった言葉を、独り言のようにこぼした。

「……僕、学校でうまく話せないんです。みんなが何を考えているのか、怖くなることがあって。自分の言葉が、石ころみたいに硬くて重い気がするんです」

 男は何も言わなかった。ただ、深く頷くようにしてお茶を飲み干した。

 否定もされない。押しつけがましい励ましもない。ただ、陽の言葉をその場の空気に溶かすように、静かに受け止めてくれる。それだけで、陽の強張っていた心が、少しずつ解けていくのが分かった。

​ 一番星が瞬く頃、男の姿は薄墨のように消えていた。

 そこには、空になった湯呑みと、かすかな土の残り香。

​ それからというもの、陽は放課後のこの数分間を、宝物のように大切にするようになった。

 日替わりで現れる昔の人たちは、どの方も穏やかで、口数は少なかった。

 ある日は、昭和の初期だろうか、清楚な袴姿の女学生。

 またある日は、小さな風呂敷包みを抱えた商人の男。

 

 彼らとの時間は、陽にとって、自分を自分として取り戻せる心の呼吸。

 学校での悩み、小さな失敗、誰にも言えない孤独の影。それらを、昔の人たちはただ静かに聞いてくれた。彼らにとって、陽の悩みは今の時代の悩みではなく、いつの時代も変わることのない、人の営み、人生のゆらぎ。

​ しかし、季節が巡り、秋が深まってきた頃、その変化は訪れた。

 日が落ちるのが早まり、縁側に差し込む光の色が、琥珀色から冷たい銀色へと変わっていく。

​ その日、隣に座ったのは、白髪の混じった上品な女性。

 彼女は陽の横顔を、慈しむように見つめながら、静かに口を開いた。

「陽さん。この縁側が繋ぐ時間は、そろそろ仕舞いのようです」

 陽は、手に持っていた湯呑みを止めた。指先が、わずかに震える。

「仕舞い……? もう、皆さんは来なくなるんですか?」

「ええ。この縁側は、心が立ち止まってしまった人のために、少しだけ過去の風を通す場所。あなたはもう、ここで誰かの背中を追わなくても、自分の足で歩き始めています。分かっているはずですよ。あなたの心に、もう光が灯っていることを」

​ 陽は、胸の奥がチリりと痛むのを感じた。

 確かに、最近の自分は、教室で誰かと目が合っても、すぐに逸らさずにいられるようになっていた。沈黙を埋めようと焦るのではなく、沈黙の中にいる自分を許せるようになっていたのだ。この縁側で学んだ、ただ、共にいることの安心感。

「……寂しいです。僕、皆さんに助けられてばかりだったから」

「私たちは、ただ隣に座っていただけ。あなたが、私たちを見つけてくれた。あなたの優しさが、私たちを呼んだのですよ」

 女性はそう言うと、陽の手にそっと自分の手を重ねた。その手のひらは、幻とは思えないほど、驚くほどに温かかった。雪解けの水のような、清らかな温度。

​ 最後の日。

 空はこれまでにないほど鮮やかな紫色に染まった。

 陽が縁側に座ると、そこには驚くほど多くの人々が集まっていた。

 最初の農民の男。袴姿の女学生。商人の男。

 みんなが、縁側や庭先に腰を下ろし、まるでお祭りの後のような、穏やかで満ち足りた静寂の中にいた。

 言葉は、もう必要なかった。ただ、皆で同じ夕焼けを見つめ、最後のお茶を飲む。

 太陽が地平線の向こう側に完全に姿を消した瞬間、庭を吹き抜けた一陣の風とともに、人々の姿は光の粒となって消えていった。

​ 時は流れ、季節は幾度となくこの家を通り過ぎていった。

 かつての中学生、陽は、大人になり、精一杯に自分の人生を駆け抜けた。

 図書館の司書として働き、静かな家庭を築き、多くの人の言葉を預かり、そして、多くの人を愛した。

 やがて彼もまた、重力から解き放たれるように、穏やかな眠りの中へと旅立っていった。

​ ある秋の夕暮れ。

 主を失いかけたその家の縁側に、一人の男の子が座っていた。

 近くに新しく越してきたばかりの、まだ幼い子供。慣れない土地、知らない学校。その子の瞳には、かつての陽と同じような、何かに怯えるような、湿った光。

 男の子は、誰もいないはずの縁側で、一人ぽつんと沈みゆく太陽を眺めていた。

​ ふっと、空気が揺れた。

​「……今日はまた、一段と見事な入り日ですね」

​ 子供が驚いて隣を見ると、そこには一人の男性が座っていた。

 現代的な服装ではあるけれど、どこか懐かしく、透き通るような穏やかさを纏った人。

 子供の隣には、いつの間にか温かいお茶が入った、青い陶器の湯呑みが置かれている。

​「……おじさん、だれ?」

 子供が小さな声で尋ねると、その人は優しく目を細めて笑った。

「僕は、ただの通りすがりの聞き役だよ。ほら、空を見てごらん。いい色だ」

​ 男性は、子供の小さな肩に触れるか触れないかの距離で、静かに座っていた。

 否定もされない。励ましもない。ただ、そこにある孤独に寄り添う、確かな温度。

 かつて自分が救われたように、今度は自分が、誰かのための「過去の風」となって。

​ 縁側の時間は、終わらない。

 形を変え、人を変え、静かに受け継がれていく。

 夕闇のバトン。

 

 一番星が瞬く頃、縁側にはもう、男の子が一人で座っているだけだった。

 けれど、男の子の表情からは、先ほどまでの不安が消えている。

 空になった青い湯呑みからは、まだかすかにお茶の香りが立ち上っていた。

 それは、この家が繋いできた、優しさという名の歴史の香り。

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