角のない鬼

良田めま

第1話

 深い深い冥闇くらやみに。いつからだろう、一条の光が射していた。

 岩屋の入口はとうに崩れ、山の一部となって久しい。分厚い土砂の層によって、天の光は固く遮られていたのに。僅かな穴が、今、空いている。

 この間の地震によって地盤がずれたのか。それとも、大雨に土が流されたか。

 いずれにしろ、数百年に及ぶ封印が綻んだのは間違いなかった。


 僥倖である。

 天井に空いた、僅かな隙間から降り注ぐ救いの光は、長い月日をどん底で過ごしてきた彼の目を灼く。赤く。眩しく。

 尤も、実の肉体は既に朽ち果て、灰のごとく崩れ去ってしまって指先さえも残っていないが。

 残されているのは、古き楔に繋ぎ止められた魂だけだった。それさえも長い封印の末に擦り切れ、消えようとしている。

 このままであれば。

 音もなく、色もなく、世界に溶けて、輪廻の輪に還っていくであろう。


 だが、今。

 天に穿たれた綻びが、彼に夢と希望を与えていた。

 たかだか指一本通る程度の隙間が、数百年ぶりに淀みを動かし、新鮮な空気を穴へと運ぶ。


 感じる。

 七色に移ろう美しい空を。草木を撫で進む一条の薫風を。

 地上は生命に溢れていた。そこは今も昔も変わらないのか。若干、空気に余計なものが混じっているような気もするが、懐かしい世界の気配が微々たる違和感を覆い隠してしまう。

 ああ、生きている。肉体は失ったが、彼という存在はまだ消えていない。

 朝が来て、夜が来る。

 再び朝になり、夜へと変わる。

 その一瞬の翳りは、母親の産道を通って新たな生命が生まれる神秘にも似ている。

 だからこそ、狂おしいほどの愛しさを感じる。


 会いたい。

 彼を楽しませてくれた、あの者たちに。

 もう一度会って、抱きしめたい。

 この腕で食い込むほどに強く抱きしめ、抱きしめ、抱きしめて、二つになった胴体を愛でたい。千切れた臓物から滴る血を全身に浴びたい。


 ああ。

 足りない。

 悲嘆が、足りない。

 ずっと足りなくて、気が狂いそうだ。

 しかし、鬱憤を晴らそうにも振り回す手足がない。苛立ちをぶつける相手がいない。


 手――そう、手だ。否、手と認識するモノ

 天井に空いた綻び。その隙間からなら、魂の一部くらいは外に出せるだろう。代わりに他の全てが犠牲となるが、どうせ何もしなければ果てる運命だ。失敗しても同様。挑戦して生き延びるか、挑戦して死ぬか、挑戦せずに死ぬか。答えは決まっている。


 細く、しかと。

 上へ。外へ。

 そら……もう少し。

 ……出た。

 本当に叶った。

 嘘のようだ。信じられない。

 遮るもののない生の空気は、燃える枯れ草の匂いがする。無数の負の感情が、地面近くにわだかまっているのがよく見える。

 そうか、そうか。世は今もなお嘆きに満ちているのか。

 何より感動したのは、血のように真っ赤な夕焼けだ。ここは確かに彼の生まれた国なのだと、強く強く実感する。

 いくら時が過ぎようと変わらない、普遍の空。この空を見ていると、己の業も後悔も、全て赦されるような気がするのだ。


 さて、この後はどうしようか。どうしようと言っても、すべきことは決まっている。空腹を癒し、力を取り戻さなければ。すなわち、狩りだ。

 運の良いことに、こちらへ近づいてくる人の気配を感じる。怒りと悲しみ、諦めと嘆き。心地よい負の情に苛まれた哀れな幼子。

 なんと好ましい。

 彼に捧げられるに相応しき魂だ。

 ならば――悦んでいただこう。



 * * *



「やだ……まだ追ってくるっ!」


 振り返った木々の合間に熊よりも巨大な影を認め、由良ゆら凛音りんねは絶望に声を染めた。

 顔は蒼白。濃い疲労の色が張り付いている。ひとつに編んだ三つ編みは何度も小枝に引っ掛かったため解れてボロボロになり、大きな眼鏡は滴る汗のせいで鼻の上を何度も滑り、そのたびに右手で押さえなければならなかった。制服は激しい運動で乱れ、雨で弛んだ足場を突っ切ったために下半身は泥まみれだ。しかも茫々に生えた下草で、あちこちに切り傷ができていた。


 そんな少女を追い立てるのは、禍々しい異形。

 鬼だ。

 基本的には人間に似た骨格でありながら、数倍の背丈と質量を備えた怪物。頭部から生えた角は螺旋を描きながら天を衝き、威嚇するように剥いた牙は地をも噛み砕きそうなほど鋭い。そして、それら凶悪な姿に見合った破壊的な膂力。

 日本では、千年以上もの昔から人々の営みを脅かし続けている。

 脅威を知らぬ者などいない、人類の天敵だ。


 雷が落ちたような轟音が耳のすぐ傍で聞こえる。錯覚だろう。密集する山の木が障害となって、図体の大きな鬼は思うように進めない。それを狙って山に逃げ込んだ訳ではないが、結果的に地形は凛音の逃亡を手助けしていた。

 雷か地響きのような音は、鬼が木をへし折った音だ。斧もチェンソーも使わず、素手でいとも簡単に成し遂げる剛力は、華奢な凛音の体などずたぼろに引き裂いてしまうことだろう。

 血塗れになった己の姿を想像し、全身に虫が這ったような悍ましさを覚える。


(絶対に立ち止まっちゃダメだッ)


 だが鬼も、こちらが逃げれば逃げるだけ追いかけてくる。まるで狂った獣みたいに、時折地獄のような咆哮を轟かせる。獣たちは危険をいち早く察して逃げ出したらしく、山道には鳥の影すらなかった。


 聞こえるのは己が発する荒い呼吸。背後から追い立てる死の足音。

 追い追われる二つの影を、生い茂る梢の隙間から曇った夜空が見下ろしている。


(どうしてこんな事になっちゃったんだろう)


 たった数時間。いや、一時間にも満たないだろうか。穏やかだけど退屈で陰鬱な日常が、一瞬にして死と絶望に塗り替えられたのは。

 凛音は深い後悔と共に、帰り道での出来事を思い出していた――。

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2025年12月25日 12:00
2025年12月26日 12:00
2025年12月27日 12:00

角のない鬼 良田めま @mema_yoshida

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