罪の狭間で揺れて

瀬名柊真

Hb+CO→COHb

 4月末の13時26分。

 東京都渋谷区松濤。そこにあるとある民家から警察に通報が来た。


『と、トイレで主人が、主人の、死体が……!』


 通報を受けた渋谷警察署から何人かの警察が向かった。それからしばらくして、署内の無線が鳴る。


『こちら渋谷署、松濤一丁目の住宅にて変死体発見。検視官、至急現場へ向かってください 』


『検視官田村、了解。約10分で到着予定』


 無線機を置いたベテランの検視官である田村が、小さくため息を付いた。


「おい中山。一緒に来い」


「え? 俺もですか?」


「いつまでも新人でいるつもりか? なにもしなくていいからどうやって検視するのか見ておけ」  


 田村に声を掛けられた中山――ついこないだ新人として入ってきたばかりである――はデスクから立ち上がりつつ、渋々と言ったように軽く頷いた。


 到着先の自宅は、全体的に白を基調としたモダンな戸建てだった。「MISAKI」と、ローマ字の表札があるが、漢字がわからないのが難点だ。

 家に入ると何やら話し声が聞こえた。


「その発見の様子を詳しく教えて頂けますか?」


「えっと、ですからトイレに行こうと思ってドアを開けたら主人が……」


 どうやら聞き込みの最中らしい。真剣なところに声を掛けることが中山には躊躇われたが、田村は気にせず到着報告を行う。


「田村、中山到着しました」


「おう、三崎隆一ならトイレに居るよ」


 状況聞き込みしていた刑事の佐久間が、一度話を止め、左奥のドアを指さした。その横にいる通報者は少しふっくらとした品の良さそうな女性だ。さすが閑静住宅街とでもいうべきか。中山は、死体発見現場という場所にそぐわず、内心ひどく感心していた。

 軽く会釈だけして指された方向へ進む。トイレの中を見ると、すでに鑑識がいた。作業の邪魔にならないように注意を払いつつ、田村が死体へと近づく。中山が見たところ、トイレに座り込んだままの男性――年齢はおおよそ40代くらいだろうが訊くまではわからない――は前側に傾き、何かを考え込んでいるかのような姿勢だった。顔から首にかけては鮮やかな赤。服を着ているからそれ以上は見えない。


(うわっ……これが、死体。なのか)


 知識としては勿論知っていた。写真も見た。だが、実際に目の当たりにするとどうも違う。もしも初めてが猟奇事件の死体だったら――。吐き気がしたから、中山はそれ以上は考えないことにした。兎に角、眼の前の現場に集中しなければならない。だが。

 空気が違う。目が死体から離せない。こんなの生きているときと大差ないではないか。そう。熱くて顔が赤くなるのと同じような――本当に死んでいるのか? 急速に体が冷えていく。嫌なことを思い出した……。俺はこの現場でこれから先も過ごすのか――


「鮮紅色の死斑か。溢血点いっけつてんもある。硬直は……強いな。角膜は少し濁りが見える。まぁ死後10〜16時間程度といったところか」


 田村が何やら調べている声でハッと現実に引き戻された。学んだことを思い出せ。鮮紅色の死斑。確かそれが出るのは限られていたはずだ。そもそも死斑というのは血液が重力に従ってできるものだから、血液の色に由来する。ヘモグロビンが鮮紅色になるときと言えば――


「中山。温度計」


 死体の方を眺めながら手を後ろに伸ばす田村に、中山は予め渡されていた温度計を渡した。恐らく室温を測るのだろう。メモしなければ。


「室温16℃。中山、直腸温用のは?」


「あ、はい」


 今度は普通のより少し長めの温度計を渡す。田村は、三崎の死体を動かし、温度を測り始めた。その間に鑑識の一人である渡辺が、中山に声を掛けてくる。


「中山さん。ちょっといいですか?」


「あ、はい。どうされました?」


「はい。トイレ内の床に円形の焦げ痕と、ドアの内側の端に、上端から下端まで粘着物の付着がかすかに見られました。換気扇の方にも同じ形跡が。検視に使うでしょうから田村さんに伝えといてください」


 それだけいうと渡辺はまたいそいそと仕事に戻る。

 床の焦げ痕とやらが気になって見てみると、なるほど確かに黒ずんでいる。しかもこの床は板張りだからわかりやすい。だが、一体なぜ? 焦げるということは熱を持っているということだが、そんなものがあるだろうか。


「直腸温は20℃。まぁ、十中八九一酸化炭素中毒だろうな。酸素ヘモグロビンが残ってるほどの低気温じゃないし、シアン化物特有の臭いもしない。外傷なんかの異常所見もなかったしな」


 一酸化炭素中毒。今どきのガスは中毒死出来ないし、そもそもトイレにはガスがない。そうなると何かを燃やしたことになる。焦げ痕があるから何かが燃えていてもおかしくはない。だが、だとしたらそれはどこへ?


「それじゃ、この件は解決って感じすかね?」


「さぁな。一応一酸化炭素中毒死の疑いってだけで、詳しくは西田先生に回さないと確定できないな」


「西田先生というと、あの法医学の?」


「そうだ。血液を採集して分光光度計で一酸化炭素濃度を調べるんだ。後は内部所見もな」


 内部所見。中を切り開いて臓器を一つ一つ確認するのだろうか。とてもじゃないが中山にはおぞましくてできない。


「……そうだ。渡辺さんから床に焦げた痕と、ドアの内側と換気扇に粘着物が付着してたと聞きました」


「ああ、七輪か。それで、密室にするためにガムテープなり何なりを使ったんだろうな」


 七輪。そうか。七輪は丸くて、炭を使う。まさに丸い焦げ痕と一致するではないか。だが、だとしたらその七輪はどこへ消えたのだろうか。テープもなくなっている。まさか、他殺か? しかし、そんな事ができるのだろうか。仮にもトイレというプライベート空間で、しかも内側から密閉されている。窓はないし、そんな殺され方なら抵抗できたはずだ。目立った外傷もないから気絶させられた線も薄いように思える。


「田村さん、俺凄い自殺に思えるんですけど……だとしたら七輪とかテープとかってどこいったんです?」


「あぁ、例の奥さんが隠したんじゃないか。七輪を使ったにしては臭いがないし、ひどく体裁を気にしてるようだったからな。まぁ、主人が自殺なんて……おっと迂闊に口にしちゃいけないな」


 状況をいくらか紙に纏め、西田先生に死体を回そうと通信をする。それが終わると同時に佐久間が部屋に入ってきた。


「仁美さんが白状したよ。七輪とガムテープを隠したってな。主人が自殺したのがバレたら他所からなんと言われるかってこんなときでも気にしてたわ」


 ヒトミ。誰のことか中山は一瞬わからなかった。死者の妻であると気づいたのは主人が自殺。という言葉だ。


「三崎隆一。43歳。事業をしていたが、ライバル社が現れて徐々に衰退。去年に倒産したそうだ。そこからこの家のローンを払うために闇金に手出し。周囲にはうまく行っていると吹聴していたらしい」


 大人しくローンの支払いを遅らせたほうがまだマシだったのかもな。と佐久間は続けた。

 しかし、果たして本当にそうなのだろうか。もしもローンの支払いが遅れたまま新しい職につけなければ、家ごと手放さなければならない。銀行のブラックリストにも入る。中山が彼の立場ならどうしただろうか――


「その、ヒトミさんは?」


「リビングに居るよ。一応証拠隠滅だからな、それなりの罪には問われるはずだ」


「七輪とガムテープ、どこに隠したんでしょうか?」


 中山の問いに、佐久間は少し顔を伏せるとリビングまで歩きはじめた。中山がどうするべきか悩んでいると「ついていけ」と田村に言われた。


「俺は白状までが担当だからな。今女のが仁美さんの対応してるよ」


 リビングのドアから薄っすらと声が聞こえる。片方は入ってきた時に聞いた、少し掠れた女性の声。もう一人は落ち着いた、低い声の女性だった。


「それで、奥さんは物置の中に隠されたんですね?」


「えぇ、そうです……」


「ねぇ奥さん。隠して余計にひどくなるとは思わなかったんですか? ましてや、隠した貴方が疑われる可能性だって……」


「それでも、よかったんです。主人が自殺とバレたら、私も一緒に。可哀想な被害者なんて嫌なんです。だって、あの人。あの人最期まで何も……! 借金してることすらですよ? だから、罪くらい一緒に背負いたかったんです……」


 まだ二人の会話は続いていたが、これ以上聞くのは中山の良心が咎めた。佐久間にもう大丈夫だとジェスチャーで伝え、そっとリビングから離れる。

 言語化出来ない気持ちが綯い交ぜだ。これに誰が悪いだなんてあるのだろうか。自殺するのは悪いことだと聞いていたし、中山もその通りだと思っていた。だって――あいつが死んだ時、中山には何も残らなかったから。だが、だとすればどうするのが正解だったんだろうか。


「俺……思ったんですけど、リュウイチさんってどんな気持ちで死んだんでしょうか? だって、自分が死ぬことで闇金がヒトミさんに行ったりだとか、可能性はあるわけでしょう?」


 どうしようもなくなった中山の、ポロリと溢れた疑問に答えたのは田村だった。


「自殺するやつの気持ちなんか判らねぇよ。だが、それも考えられないほどに追い詰められてたんだろう」


 その声は、オフィスの時とも、検視の時とも違う、なにかを妙に含んだ切ない声だった。

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罪の狭間で揺れて 瀬名柊真 @sena-shuuma

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