文殊の便り

江賀根

文殊の便り

ひと昔前までは、飲みに行った先で名刺を渡すと、その店から季節の挨拶状が届くということがしばしばあった。

挨拶状とは言っても、結局は来店のお誘いだ。

今となってはそのような風習はほとんど消え失せてしまったが、今年も一通だけ届いた。


安藤様

いよいよ寒さが厳しくなってまいりましたが、お変わりなくお過ごしでしょうか。

何かとご多忙中と存じますが、お近くへお越しの際は、是非お立ち寄りください。

お嬢様のご成長ぶりなど、楽しいお話を伺えることを、楽しみにしております。

寒さが続きますので、くれぐれもご自愛ください。


かしこ

小料理 文殊もんじゅ


出張の際に偶然見つけて、一度訪れただけなのに、随分と律儀な店だ。

最初のうちはそう思っていた。


しかし、十年以上も送り続けてくると、いささか訝しんでしまう。

記憶では、六十代くらいの品の良い女将が一人でやっている店だった。今なら、八十歳前後のはずだ。

顧客名簿を基に、無条件に出しているとも思えなかった。何よりこの葉書は手書きだ。

そして、私に娘がいるという私的な内容が書かれている。


ここ数年、葉書を受け取るたびに同じ思いを抱きつつも、年末の諸事に追われるうちに、忘れてしまうことを繰り返していた。

そんな中、今年は久しぶりに、同じ方面への出張が入った。

正確には出張先は隣県なのだが、帰りの新幹線で途中下車すれば、寄れないこともない距離だ。

——時間があれば行ってみるか。


予定どおり十四時に出張用件が済んだ私は、文殊を訪れてみることにした。

今から向かえば、二時間ほどで着くはずだ。営業時間ではないが、準備のために女将は来ているだろう。

ゆっくりすることはできないが、挨拶状の礼だけでも伝えよう。


新幹線を途中下車し、在来線に乗り換えて、予定どおり二時間ほどで最寄り駅に着いた。

ホームに降りると、当時の記憶が甦った。

あのとき駅前のビジネスホテルに泊まった私は、近くで軽く一杯やれそうな店を探した。

だが、なかなか一人で入れるような店が見つからず、駅の裏口に回って、文殊を見つけたのだった。


改札を抜けると、正面に私が泊まったビジネスホテルが見えたが、当時とは名前が変わっていた。

周囲には派手な看板を掲げた居酒屋が数件あったが、まだ営業していないようで、行き交うのは大半が学生だった。


ここに向かう間に雨が落ち始めていたため、私はキヨスクでビニール傘を買い、裏口への連絡通路を渡った。


裏口の前には、小さな運河が流れていた。

——そうだ。この運河沿いにバラック建屋の飲食店が並んでいて、その中に文殊があったのだ。

私は傘を開いて駅を出た。


運河に沿って、小さな飲食店が隙間なく数十メートル続いており、色とりどりの看板が見えた。

だが、一目でそこがもう終わっている場所だとわかった。


文殊は、奥の方にあったはずだ。

私は立ち並ぶ店を確認しながら、ゆっくりと歩みを進めた。

ネオン看板が割れている店、入口に黄色と黒のトラテープが貼られている店、「危険」や「立入禁止」と書いた貼り紙をしている店。

一軒として、営業している店はなかった。


やがて前方に、「文殊」と書かれた紫色の袖看板が見えた。

私は、希望とも不安ともわからない感情を抱きつつ足を進めて、入り口の前に立った。


「立入禁止」

他の店と同様だった。

この状況を、どう理解すればいいのか。

亀裂の入った換気窓を眺めながら、私はしばらくその場に立ち尽くした。

傘に当たる雨粒の音だけが聞こえていた。


ふと隣の店に視線を向けると、そこにも貼り紙があり、何か文章が書かれているようだった。

日光や風雨によって消えかけていたが、拾い読みすると、「再開発」や「立ち退き」といった単語が読めた。

正面口と違って辺りに人影はなく、誰かに尋ねることもできない。

運河の反対側に、濡れながら自転車で急ぐ高校生の姿があったが、呼び止められず、背中を見送った。


——駅で聞いてみるしかない。


駅に戻り、窓口で切符を購入する際に、対応した五十代くらいの男性駅員に尋ねてみた。

「裏口の飲み屋街って、もう全部やめてるんですかね?」

「ああ、川沿いのところは全部立ち退きになりましたよ。三年くらいなるんじゃないですかねえ」

「立ち退きですか?」

「ええ、元々老朽化していて、取り壊して再開発するって話だったんですが、市長が変わって棚上げになっちゃってるみたいで」

「そうなんですね…どこか、他の場所に移転した店なんかもあるんでしょうか?」

「さあ、どうですかねえ。皆さん結構年配だったし、立ち退きの際にそれなりにもらったみたいですけどね」


そこまで話したところで後ろに客が並んだため、私は礼を言ってその場を離れた。


どこかに移転して、文殊は営業を続けている。


この状況を受け入れるには、そう考えるしかなかった。

帰りの新幹線のこともあったが、なぜかこれ以上は積極的に調べる気になれず、私は帰路に着いた。


翌日、出社した私は、以前文殊から届いた葉書を確認したが、住所の記載はなかった。

こんな律儀な人なら、普通は移転のことを伝えてきそうなものだ…と一瞬浮かんだが、すぐに打ち消した。

消印を確認すると、昨日私が訪れた場所の地名だった。

どこか近くに移転して、文殊は今も店を続けているのだ。それしかない。

自分をそう言い聞かせ、これ以上考えないように葉書を処分した。

そして自分の中で終わったことにした。


それから、忙しさに追われるうちに、あの出来事は徐々に頭の隅に押しやられていった。


しかし数日後、私宛に届いた郵便物の中に、見覚えのある筆致の葉書があった。

——文殊の女将だ。


安藤様

先日は、お足元の悪い中、お越し頂きありがとうございました。

せっかくなら、お立ち寄り頂きたかったのですが、お急ぎだったのですね。

窓越しでしたが、お元気そうな姿が拝見できて安心致しました。

次回は是非、杯を傾けながら、お嬢様のお話など聞かせてください。

またお会いできる日を楽しみにお待ちしております。


かしこ

小料理 文殊

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