第3話 葵の上のビンタは熱い

学園の朝は、だいたいが「いい匂い」から始まる。

 焼きたてのパンの香り。紅茶の湯気が砂糖を溶かす甘さ。石畳が夜露を残したまま、日差しにぬるりと温められていく匂い。

 そして――貴族子弟の「噂」が、空気に混ざる匂い。

 テラスへ続く回廊を歩きながら、ヒカル=グレイヴは鼻先でその匂いを嗅いで、心の中で満足げに頷いた。

(うむ。今朝も世界は、俺を中心に回っている)

 制服の襟を指先で整える。鏡のように磨かれた窓ガラスに、ふと自分の横顔が映った。

 ――整いすぎている。頬骨の線も、目の形も、まつ毛の影も。神が「顔面だけは全力」で作ってしまった人間の典型。

 ヒカルは一瞬、うっとりしそうになって、すぐに自分に言い聞かせた。

(いけない。美貌に溺れると破滅する。前世の教訓だ)

 そう、前世――光源氏の記憶が覚醒して以来、ヒカルは「恋愛」という名の深淵に対して、妙に自信と警戒心を同時に抱くようになっていた。

 自信。なぜなら、愛されるのが当然だから。

 警戒心。なぜなら、最終的に国外追放されて死ぬから。

「ヒカルさま~」

 背後から、猫なで声。甘いのに、どこか粘つく。

 振り向けば、金髪の巻き毛を揺らす令嬢が、距離を詰めてくる。リボンの色が派手で、香水も強い。顔立ちは整っているが、目がいつも計算機みたいに忙しい。

「今朝、テラスでお茶をご一緒しません? わたくし、ヒカルさまに“ぜひ”お伝えしたいことがあって」

 シルヴィ。確か、乙女ゲームでいう“サブ攻略対象の取り巻き”枠だったはずだ。

「うん、うん。もちろんだよ。お茶は人生の潤いだからね」

 ヒカルは爽やかに笑った。笑顔の練度は、前世で磨きに磨いた。

 けれどその瞬間、回廊の先――テラスの入口あたりが、妙に静まり返っているのに気づいた。

 ざわめきが、引き潮みたいに引いている。

 鳥の声がやけに遠い。

 足音のリズムが、みんな、同じ方向へ揃っている。

(ん? なんだ? イベント発生か?)

 ヒカルの背筋を、冷たい指がすっと撫でた。

 テラスへ出ると、そこは――舞台だった。

 円形の白いテラス。蔦の絡まる柱。陽の光。紅茶の香り。花壇のローズマリーが風に揺れて、青っぽい匂いを立てている。

 そして中央に。

 立っていた。

 アリス=フォン=レーヴェン。

 婚約者。

 氷のように澄んだ青い瞳。銀糸の髪は編み込まれ、襟元に小さな白薔薇。背筋がまっすぐで、そこに立っているだけで空気が「正される」タイプの令嬢だ。

 ヒカルは反射的に、心臓の奥がきゅっと締まった。

(あ、やばい。アリス、いる)

 そして、もっとやばいことに。

 アリスの隣に、見覚えのない少女がいた。制服の袖が少し短くて、手首が出ている。頬が赤く、目が潤んでいる。視線が泳いでいる。

 ――あれは。

 昨日、図書室で泣いていた子だ。

 ヒカルが「君の涙は宝石だよ」とか何とか言って、ハンカチを差し出し、ついでに肩に手を置き、ついでに髪を撫で――

(あっ……)

 記憶が鮮明に蘇る。指先に残る柔らかい髪の感触。驚いて跳ねた肩。鼻腔に入った石鹸みたいな匂い。

(あれ、浮気未遂ってやつか? いや、未遂だ。未遂だからセーフだろ。……セーフだよな?)

 ヒカルが己の倫理を必死に整頓している間に、周囲の貴族子弟たちが半円を作り、視線を突き刺してきた。

 ざわざわ。ひそひそ。

「……やっぱり」

「婚約者がいるのに」

「しかも相手が一年生……」

 その言葉が、乾いた紙みたいに耳に擦れた。

 ヒカルは胸の中で、ひとつ深呼吸をした。

(落ち着け。これは公開イベントだ。観客がいる。つまり“格好よく切り抜ければ”評価が上がる可能性がある)

 そう結論づけた瞬間。

 アリスが、ヒカルの方へ一歩、歩み出た。

 靴音が、石に小さく響く。

「ヒカル=グレイヴ」

 名前を呼ばれただけで、空気が凍った。

 ヒカルの胃が、きゅっと縮む。

「……何か、言うことはありますか?」

 アリスの声は静かだった。静かすぎて、逆に怖い。怒鳴るより、ずっと怖い。

 ヒカルは喉を鳴らし、笑顔を作った。

「アリス。君がここにいるということは――ええと、つまり」

 言葉を選んだ。慎重に。美しく。詩的に。そう、源氏のように。

「君は、俺を待っていてくれたんだね」

 周囲が「は?」という顔をした。シルヴィが口を半開きにした。

 アリスの眉が、ほんの一ミリだけ動いた。

「……質問に答えてください」

「答えるよ。もちろん。君は俺の婚約者だ。俺の人生の……うん、ええと、たとえるなら、“春の光”だ」

「質問に答えてください」

 圧が強い。目が強い。凍結魔法みたい。

 ヒカルは観念して、両手を軽く上げた。

「昨日、図書室で、彼女に声をかけた。泣いていたから」

 少女がびくっと肩を震わせた。

 アリスは視線を少女へ向け、それから再びヒカルへ戻した。

「声をかけただけですか?」

 ヒカルは胸を張った。

「もちろんだ。君は俺を何だと思っている? 俺は紳士だぞ」

「髪に触れましたね」

 ヒカルの笑顔が、一瞬、ひきつった。

(え、そこ見てたの!?)

 喉が渇く。風が冷たい。ローズマリーの匂いが強くなる。

 ヒカルは口元を整え、言い訳を“美しく”した。

「髪というのはね、心の延長なんだ。彼女が泣いていたから、心に触れるように――」

「肩に手を置きましたね」

「……置いた。うん。置いた。だがそれは、励ましの――」

「『君の涙は宝石だよ』と言いましたね」

 テラスが、どよめいた。

「うわ……」

「言ったんだ……」

「恥ずかしい……」

 ヒカルの頬が熱くなった。恥ずかしさではない。むしろ、誇りに近い熱さ。

(名言だろ!?)

 アリスは、静かに息を吸った。

「ヒカル。あなたは――」

 その声の先に、氷の刃が見えた。

「婚約者がいる自覚は、ありますか?」

 ヒカルは真顔になり、胸に手を当てた。

「ある。もちろん。君は俺の婚約者だ。世界がひっくり返っても変わらない」

「では、どうして……」

 アリスの声が、ほんの少しだけ震えた。

「どうして、他の女性に“その顔”を向けるんですか」

 その言葉は、刃じゃなくて、針だった。

 ヒカルの胸に、ちくりと刺さった。

 ――アリスが、傷ついている。

 ヒカルは、その事実を理解した瞬間、胸の奥が妙に熱くなった。

(あれ……? これ、俺、悪いことした?)

 けれど次の瞬間。

 前世の記憶が、ぬるりと頭の中で囁いた。

(女が嫉妬するのは、愛の証。嫉妬は、恋の炎を燃やす薪)

 ヒカルは、ぱっと表情を明るくした。

「そうか!」

 アリスが目を細めた。

「……何が“そうか”なんです?」

 ヒカルは、感動で胸がいっぱいになりながら、一歩踏み出した。

「君は、俺を――」

 指をさす。胸を叩く。目を輝かせる。

「俺を想って、怒ってくれているんだね!」

 テラスが沈黙した。

 風が一度、止まったように感じた。

 シルヴィが、口元を押さえて震えた。

「……え、なに、これ……」

 アリスの目が、完全に“理解できないものを見る目”になった。

「……ヒカル。あなたは今、この状況で、何を言っているんですか」

 ヒカルは、うっとりしたように微笑んだ。

「これぞ、葵の上!」

「は?」

「葵の上はね、嫉妬して、ビンタするんだ」

 ヒカルは自信満々に頷いた。

「つまり、君は俺を愛している。愛が熱くて、手が出る。――恋の古典だ。最高だ」

 周囲の生徒たちが、ざわざわと“種類の違うざわめき”を起こした。

「古典って……」

「いや、違う……」

「葵の上、そんな扱いじゃ……」

 アリスは、一拍、黙った。

 その沈黙が怖すぎて、誰も息ができない。

 そして、アリスは静かに言った。

「……あなたは、わたしが“嫉妬で怒っている”と思っているんですね」

「そうだよ。だって、君の頬が少し赤い。瞳が濡れてる。呼吸が浅い。――恋だ」

 ヒカルは、分析を披露するように言った。

 言い切った瞬間、アリスの目の中の火が、すっと消えた。

 代わりに。

 冷えた。

 完全に。

「……そうですか」

 アリスは笑った。

 笑ったのに、寒い。

「では、あなたの“恋愛観”を――ここで確かめさせてください」

 アリスは、歩いた。

 ヒカルの前まで。

 ドレスではないのに、歩幅に“格”がある。

 ヒカルの胸が、どくんと鳴った。

(来た……! ビンタだ……!)

 熱い恋の儀式。

 源氏の記憶が、きらきらと踊った。

 ヒカルは、ちょっと顎を上げた。

 受ける準備。美しく。

 ――ぱんっ!

 乾いた音が、テラスに響いた。

 頬に衝撃。

 熱。

 皮膚がじんじんして、目の奥まで揺れる。

 けれど、それ以上に。

 心臓が――跳ねた。

「……っ!」

 ヒカルは一瞬、息を飲んだ。そして次の瞬間、頬を押さえながら、笑った。

 笑ってしまった。

 眩しいくらいに。

「熱い……!」

 アリスが一歩引いた。目が「無理」の形になっている。

 ヒカルは頬の熱を感じながら、胸の奥から湧き上がるものを抑えきれなかった。

「やっぱり君はすごい。俺の婚約者にふさわしい」

 アリスの肩が、ぴくりと揺れた。

「……ふさわしい?」

「そう。君は俺を正してくれる。叩いてくれる。嫉妬してくれる。――こんなに愛されているとは思わなかった」

 ヒカルは、なぜか涙が出そうになるほど感動していた。

 アリスは、絶句した。

 そして、ぽつりと言った。

「……あなたは、自分が何をしたか、分かっていない」

「分かってるよ。俺は――」

 ヒカルは胸を張った。

「俺は、魅力的すぎる」

 テラスが、ざわっと波立った。

「最低かよ」

「すごいメンタル……」

「逆に才能……?」

 アリスは、額に手を当てた。深く、深く息を吐いた。

「……ヒカル。あなたは、女性を“好き”なんじゃない」

「え?」

「あなたは――」

 アリスは、まっすぐにヒカルを見た。

「“女性に好かれている自分”が好きなんです」

 その言葉は、冷たい刃だった。

 ヒカルの胸が、ぴしっと音を立てた気がした。

 だが、その割れ目から、また別の感情が湧いた。

(……待って。今の言い方、めちゃくちゃ刺さった。つまり、俺の核心を突いたってことだ。――それって、俺のことを理解しようとしてるってことだよね?)

 ヒカルは目を輝かせた。

「アリス。君、やっぱり俺のことが好きだろ」

 アリスの瞳が、完全に虚無になった。

「…………」

「だって、俺の内面に踏み込んできた。俺を分析した。俺を断罪した。俺を叩いた。――愛だ」

 ヒカルは、頬の熱を愛おしそうに撫でた。

「俺、惚れ直した」

 アリスは、少女の方をちらりと見た。

 少女は泣きそうな顔で、首を横に振っている。周囲の生徒も、同じように引いている。

 アリスは、静かに言った。

「……わたしは、あなたに惚れ直されたいわけではありません」

「え?」

「わたしは――」

 アリスの声が少しだけ低くなる。

「“婚約者として尊重されたい”だけです」

 ヒカルの喉が、きゅっと鳴った。

 その言葉は、さっきの刃より、ずっと痛かった。

 尊重。

 それは、恋の飾りじゃない。

 責任だ。

 ヒカルは、初めて「自分が詰んでいる」感覚を、恋愛の方向からも味わった。

 けれど――

 そこで終われないのが、ヒカルだった。

 ヒカルは、少し笑って、目を細めた。

「分かった」

 アリスが眉を上げる。

「……本当に?」

「うん。尊重する。君を、婚約者として――」

 言いながら、ヒカルの脳内で「尊重」の定義がぐるぐる回り始める。

(尊重=大事にする=愛する=褒める=触れない? いや、触れたらダメか? じゃあ視線だけなら? いや、それも……)

 ヒカルは、必死に“正しい答え”を探した。

 その結果、口から出たのは、こうだった。

「だから、君の前では、他の女の子に“宝石”って言わない」

 アリスが、ゆっくり瞬きをした。

「……そこですか」

「そこだよ。宝石は特別だからね。君にしか言わない」

 ヒカルは、心から誠実な顔で言った。

 周囲が「違うそうじゃない」と顔に書いている。

 アリスは、口を開きかけて、閉じた。

 そして、最後に一言だけ残した。

「……ヒカル。あなたの“根本”は、たぶん、今すぐ直らない」

 ヒカルは、にこっと笑った。

「うん。だからこそ、君が必要だ」

 アリスは、顔をしかめた。

 ドン引き、という言葉が、これほど似合う表情もない。

「……帰ります」

 踵を返し、去ろうとするアリスの背中が、冬の湖みたいに冷たかった。

 ヒカルは、その背中に向かって、思わず叫んだ。

「アリス! 次は、もう少し強く叩いてもいい!」

 テラスが、完全に凍った。

 アリスの足が止まり、振り向きもせずに低い声で言った。

「――次は、叩きません。婚約を、考え直します」

 その一言で、ヒカルの血の気が引いた。

(え? それ、バッドエンド加速では?)

 けれど次の瞬間。

 ヒカルの頬の熱が、またじわっと蘇る。

(……でも、今の“冷たさ”、最高に美しかった)

 ヒカルは、世界で一番ズレた確信を胸に、拳を握った。

「よし。恋は、戦だ」

 周囲の生徒が、ひそひそ言い始める。

「戦じゃないだろ」

「婚約破棄のカウントダウンだよ」

 ヒカルは、頬を押さえたまま、晴れた空を見上げた。

 冬の光が眩しい。

 破滅の匂いがする。

 でも――この胸の高鳴りだけは、確かに恋だった。

「俺は、アリスに惚れ直した」

 熱い頬の痛みが、まるで恋の勲章みたいに、いつまでも残っていた。


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