風物
蓬田雪
風物
今日は、ばあちゃんに会いに行くことになっている。
12月27日。世間では「年末」と呼ばれる中、僕達は北にある祖母の住む町へと向かう。
予定になかった遠出であるためか、弟は浮足立っているように見える。弟は窓を見つめては、「兄ちゃん、あれ、食べれるの?」なんて言う。
「食べれるかもしれないけど、食べたいの?」
「うん。かき氷みたいで美味しそう」
「そっか」
窓の外を見れば、一面の雪。県をまたいでも、また雪。この雪がどこまでも続いているような気がして、気が遠くなる思いだった。
「兄ちゃん兄ちゃん」
「ん?」
「兄ちゃんはさ、後ろのあれ、喜んでくれると思う?」
トランクに積まれているのは、みかん。段ボール箱に所狭しとおかれたオレンジの宝物。来る途中の道の駅で買ったものだ。
「喜んでくれると、思うよ」
こたつに入ってみかんを食べる祖母の姿を想像する。毎年夏と冬、僕たち家族は帰省している。僕達にとって、祖母がみかんを食べるのは冬の風物詩のようなものになっていた。
再び、車のエンジン音と暖房のかすかな稼働音だけが車を支配した。
幼さ故なのか、それとも気を利かせたのか、我が家の冒険家は、
「兄ちゃん、ふかふかそうだよ!」
と、はしゃぐ。小学三年生。自分も弟くらいの時には、今……流れる景色に思考を委ねることができていたのだろうか。
「だな。後で、ダイブしてみるか?」
「賛成!」
「ちょっと、着替えは必要分しか持ってきていないから、やめてちょうだい」
「ママは子どもの頃やってたんでしょ?」
「まぁ…少しだけね」
弟は少しふくれて、「ママはずるいよ、雪がいっぱいのところに生まれて」と言う。そのことばが場違いに愛おしくて、僕も、父も笑った。
窓の外を、皆が眺める。各々が外の景色に、何かを重ねていた。
そこからまた、沈黙が訪れる。雪の世界を走るタイヤは、噛みしめ、泣いていた。あるのは、静寂ではなく、沈黙。車の走る音だけが車内を満たす。
「音楽でもかけるか?」
スピーカーから異国風の、それでいて春の陽気さも感じられる歌が流れてきた。歌っているのは子どもと老人だろう。ちょうど祖母と弟くらいの年齢差だろうか。かすれているが力強い声と、元気ではあるが緊張を含んだ声と、それらがハーモニーを奏でる。
いつもは元気をもらえる歌。
でも今は、不快だ。
「父さん、あとどんくらいで着く?」
「あと一時間くらいかな」
「じゃあ少し寝るから着いたら起こして」
かばんの中からイヤホンを取り出し、音を遮断する。
——無音が、心地よかった。
「起きて、起きてってば」
小さな感触が肩を伝ってきた。ゆっくりと瞼をあける。
少し伸びをしてから、窓の外を見る。車はもう止まっていた。
「早く降りるわよ」
母はまさに降りようとしている。
もう一度伸びをして、窓の外の風景を見る。
夏に来た時には緑で茂っていたこの場所は、水面が薄い透明な膜に変わっていた。結局たどり着いても、雪だった。
「どうしたの。早くして」
この銀世界と接触したくはなかったが、急かされ、車を出る。
身が凍えるような思いをしながら、少し歩いた。
「寒いな」
「だね」
会話は途切れる。ただ、踏みしめる感覚がある。踏んでも踏んでも消えない感覚。取っ払いたい。
息も水蒸気へと変貌する。「ぼぅ」と我が家の探検家が白い狼煙を上げていた
「兄ちゃん」
「ん?」
「どこに向かってるの?」
誰も何も答えられなかった。先頭を進む母親は話を聞いてすらいない。少し遅れた父は少し肩を揺らした後、結局何も言えなかった。
「どこだろうな」
俺もそんなすっとぼけた回答しかできなかった。小学三年生。きっと、かつては俺も冒険家だったのだろう。いつからか俺は冒険が怖くなってしまった。俺も冒険家のままでいたかった。
ふくれっ面をしながら、「むぅ」と口を結ぶ。我が家の勇敢でいて蛮勇なこどもは、これから骨を拾うような思いをするだろう。
やっと建物が見えた。そこからはどこか気が遠くなる思いがして。少しの間記憶がない。ただ、寒かったことは覚えている。
近づくと、見覚えのある影があった。
「よく来てくれたね」
祖父が父と母と弟を出迎えた。建物の入り口、ギリギリ暖房の風が届くような場所で、祖父は僕たちを待ってくれていた。奥には叔母や叔父、祖母の姉たちが見える。
「おじいちゃん、ひさしぶり!元気だった?」
「あぁ、元気だよ」
いつもと変わらぬ声色であったが、しわが増えている気がする。
少し毛も薄くなっただろうか。白髪ももう『白』と認識できないほどに枯れている。
いつも温和な表情の祖父だが、少し、やっぱり、元気がなさそうだった。
ジェンガのように何かの拍子に崩れてしまいそうな笑顔。その笑顔と、弟の笑顔を見比べ、て、僕は玄関へと踵を返した。
「タク、お前も元気だったか」
「……」
じいちゃんが僕を見つめる。振り向いて目を合わせることが、できなかった。
じいちゃんは弟と一緒に玄関口からずんずん奥に入っていく。母と父は、他の親戚と話しているようだ。
少し散歩することにした。生ぬるい熱気から逃げるようにして、外に向かった。しかし、外へ行くにもその先は雪。歩みを進めれば、底なし沼に引きずられるような感覚があり、外に出ることは叶わなかった。
自分が今忌避している外の世界は、さっきまで自分が歩いてきた場所だった。過去に戻りたくないと思いながらも、この先にある火に焦がされたくなくて、過去に思いを馳せてしまう。矛盾を抱えた自分の感情に苛立ち、足が揺れる。
結局散歩は断念した。ただ外の世界をガラス越しにぼうっと眺めていた。
「……最期に顔を見たかったな」
「悔やんでも仕方がないじゃないか」
「そうよね、ここでタクのせいにするのは筋違いだものね……」
いつの間にか他の親戚たちは父と母から離れていた。
父と母に向かおうと歩いた僕はその言葉を聞いて別の方向へ向かった。
大きさはあるが、建物の中では行く場所も、当てもない。トイレに引きこもった。
「よく来てくれたねぇ」
夏、窓越しの太陽に照らされた祖母は明るく僕らを出迎えた。
「タクも、シュンも、元気だったかい?」
「もちろん!あのねあのね…」
弟は矢継ぎ早にいろんなことを話した。それを三人は優しく見守った。
外へと視線を向けると、庭があった。いろんな人が散歩している。ここはみんなの庭だ。祖母もその仲間として、毎日散歩しているという。やはり北の方であるからなのか、涼しい。太陽も優しく大気を覆っていて、散歩するのはきもち良いだろうなあとわかる。
祖母は時々来る祖父と一緒に歩くのが最近の生きがいだと言っていた。
「またおこた入りたいねぇ」
なんの文脈もなく、祖母がそういった。
「おこたの季節はまだまだ先でしょ?」
父が目を細め、眉を顰める。自分の失態に気づいた。
「そうだけど、また温まりたくなったんだよ」
そう言って祖母は自分の愛するおこたに思いを馳せているようだった。
「兄ちゃん」
「ん?」
「おこたって、何?」
「こたつのことだよ」
祖母は、また入りたいと言っていた。
入りたいと言っていた。
着信音がした
『もうはじまるよ。来て』
母からだった。
トイレの個室を出て、僕は手洗い場に向かう。じゃー。水の流れる音。どこかへ行ってしまう音。
足早にトイレを出て、目的地へと向かう。
何度も意識を手放したくなった。
少し大きな部屋に着く。父も母も、弟も、叔父も叔母も、祖父も身にブラックホールを纏っていた。吸い込まれそうな気分がして目がくらくらした。
やがて鉄の中からはこが出てきた。箱の中身を、箸でつかんで、別の箱に渡す。
皆、口をきゅっと結ぶ。そこには無音があった。心地悪い無音だった。
誰も何も言わない。あの弟でさえ、戸惑いながらも、白のカルシウムを箱に入れている。自分が何を掴んでいて、何をしているのかも知らないだろうに、弟は空気を読んでいる。
「…っ」
祖父から、嗚咽が漏れ始めた。
それにつられて、同心円状にその感情が広がっていき、やがて部屋全体を覆いつくした。
僕はうつむきながら、自分の意志とは関係なく流れ出る洪水を、防波堤もなしに、受け止めようとして、やがて決壊した。
「っぐ、あ」
自分から漏れ出ていることはわかるのに、どこか自分じゃないような感覚。
そこからは、やっぱり覚えていない。
「じゃあ行きましょうか」
僕と弟、父母、祖父、叔父叔母を乗せた車は、移動を開始した。
「タク、そういえば、結果はどうだったんだい」
心臓が大きく跳ねた。血流が逆流するような気持ち悪さを感じた。
「タクはキャプテンだってね。すごいねぇ」
叔母が何の気もなく言う。
「一回戦敗北だったよ。ごめん」
イヤホンを取り出した。無音も、騒音も、気持ち悪かった。
インターフォンを鳴らす。
「誰も出ないぞ」
父に咎められたが、僕は気づけばもう一度インターフォンを押していた。
無邪気で、無機質なメロディーは、家の中を響き渡っているようだ。
「おじゃましまーす」
「ただいま」
「帰ったぞ」
「おっじゃまっしまーす」
「お邪魔します。久しぶりだな」
「そうねぇ……お邪魔します」
皆は中に入っているが、まだ指はボタンを押していた。
「タク。そろそろいいかげんにやめなさい」
玄関から少し顔を出した父に咎められ、ようやく僕はその無意味な行動をやめた。もっとも、意味ある行動を探し出すことは、今の自分には無理だが。
庭を少し歩き、玄関へと向かう。ほんの数歩の距離が、遠く、茂っている草と、その上の白い結晶の帽子がザグ、ザグと鳴っている。
「おじゃまします」
『いらっしゃい』
その声は聞こえない。
聞きたくても、聞こえない。
「あ、こたつだ!」
「電源入れてみる?」
「賛成!」
「電源入れたよ!」
「あれ、温かくならないよ」
「まだつけたばかりなんだから、そりゃそうだろ」
「えー」
「でもばあさんもそんなこと言ってたなぁ」
「そうだった?私も聞いたことないわよ」
「新婚のときプレゼントしたから、こたつ」
「おじいちゃんがあげたの?」
「お義父さん、変なセンスですね」
「実用的だろう。それに、洗面板をプレゼントしたやつに言われたくはない」
「それは、あれじゃないですか」
「ねぇねえ、みかんたべようよ」
「そうだね。ばあさんもシュンと食べたいと思うよ」
こたつの上にみかんが置かれる。
みかんはどこか寂しそうに、弟の胃に入っていった。
風物 蓬田雪 @snow-abcd
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