あなたのなかで自分をとりもどす

MRo

第1話

 夏鈴が新庄隆史を最初に見たのは、春の終わりだった。

 廊下の窓から入る光が少し強くなって、制服の袖が邪魔に感じるころ。

 体育館の前を通りかかったとき、扉の隙間からボールの音が跳ねてきた。


 乾いた音。床に当たって、すぐ戻る音。

 その音の中心に、隆史がいた。


 背が高いわけじゃない。目立つ顔でもない。成績も、良くもなく悪くもなく。そういう情報だけなら、きっとすぐ忘れた。

 でも夏鈴は忘れなかった。隆史の動きが、変に焦っていなかったからだ。周りが走り回っているのに、一人だけ自分のペースで、淡々とシュートを選んでいる。音が少ないのに、点が増えていくタイプ。


 周りが「すげー!」と叫ぶんじゃなくて、遅れて「おお」とうなる。

 その感じが、夏鈴の胸に残った。


(あ、シューターだ)


 そう思ったのと同時に、別の記憶が勝手に引っぱり出される。自分も、そうだったから。


 夏鈴も元シューターだった。

 小学校からバスケをしていて、地元のクラブにも入っていた。

 背があるわけじゃないから、走って抜くより、外から決める練習をしていた。

 フォームを崩さないために、毎日同じ回数だけ打った。

 指先の感覚を覚えるために、家の壁に向かってボールを当てて、手に戻して、また当てた。


 それが、中一のときに肘を痛めた。

 最初は気のせいだと、休めば治ると思った。

 けど、投げるたびに痛みが増えて、最後にはボールを持つだけで変な怖さが出てきた。

 手術もした。リハビリもした。なのに、元の感覚は戻らなかった。


 夏鈴の中での最後の試合。

 ブザーが鳴る直前に放った最後のシュートは、リングにかすりもしなかった。バックボードにも当たらず、空気を切っただけで、ボールはただ落ちた。


 あの落ち方が、今もたまに夢に出る。

 目を開けると、自分の肘が重い気がして、寝返りを打つ。


 だから、夏鈴はバスケから離れた。

 部活にも入らなかった。体育館の床の線を見ると、足が止まりそうになることがあった。ボールの弾む音を聞くと、胸の奥が少しだけざわつくことがあった。


 なのに隆史は、夏鈴を体育館の前に止めた。

 自分から行ったのに、自分の意志じゃないみたいだった。


 試合も見に行った。

 友だちにからかわれながら、なんとか隆史の姿を追った。


「またバスケ見にいくの?」

「うるさい」

「誰が好きなの?」

「好きじゃないし」


 言い返しても、声が弱くなる。

 好きじゃない、という言い方は、自分の中でも半分しか信じられなかった。


 ただ、春の一目惚れから夏の始まりにかけて、一度も声をかけたことはなかった。

 見ているだけ。気づかれない場所から。自分の中だけで盛り上がって、勝手に落ち着く。


(今日こそ、声、かける……おつかれ! それだけ)


 何度も決めた。

 言うのはたった一言でいい。負担にならない。相手も困らない。

 そう思うのに、足が動かない。


 夏鈴は部活に所属していない。

 だから、声をかける理由がない。

 マネージャとして入部する手もあったけど、それは露骨な気がしてやめた。

 それに、もう一つ理由があった。

 バスケットボールの近くに寄ると、肘の奥が勝手に思い出すからだ。

 痛みじゃなく、失敗の重さみたいなものを。


 季節は夏。


 体育館の入口のあたりには熱がたまる。外の空気より重い。

 扉の裏に隠れていると、背中の布がじわっとしてくる。

 それでも夏鈴はいつもの場所にいた。扉の影。見えない位置。音だけが届く距離。


 コートには練習の声が飛ぶ。隆史も声を上げている。

 よく通る声。少しキーが高い。声変わりがまだで、柔らかいのにまっすぐだ。


 その声を聞くと、心地よいのに、近づけなくなる。

 見てしまうほど、何か言いたくなる。

 言いたくなるほど、自分が怖くなる。


(……でも、向こうは私のこと、多分知らない)


 話したこともない。見かけたことはあるかもしれないけど、確実じゃない。

 一年のクラスに知り合いはいないし、バスケ部にはクラスメイトもいるけど絡むこともない。

 つまり、接点がまるでない。

 名前だけは、練習で何度も呼ばれていたから覚えた。

 ただ、バスケのことは分かるのに、話せないもどかしさだけが増える。


「はぁ……」


 ため息をついて、いつもの位置にしゃがみこんだ。膝に制服のスカートが当たって、布が少しだけ張る。

 練習の音が少し小さくなった。休憩時間だとすぐ分かる。ボールの音が減って、代わりにキャップを開ける音が増えるから。


(あと一時間くらいかあ……)


 腕時計を見ると、そろそろ十六時を半分過ぎるころだった。

 空を見上げながら、あと一時間どうしよう、とぼんやり考えた。

 帰ってもいい。でも帰ったら今日も何もない。見に来ただけで終わる。


 そのときだった。


「あの、そんなとこで何してんの?」


 声が降ってきた。

 少し高い声。聞き間違えるはずがない。隆史だった。

 タオルを首にかけて、ペットボトルを持っている。水が中で揺れているのが見える。近い。近すぎる。


「え? あ……えっと……」


 言葉が出ない。

 毎晩、言いたいことは思いつくのに、今このときは口が重い。舌が動かない。自分の声がどこにあるのか分からない。


 隆史は少しだけ首をかしげた。


「俺、バスケ部の新庄だけど。先輩……すか?」


 名乗られた瞬間、夏鈴の胸が変なところで跳ねた。

 名前を知っているのに、改めて言われると現実になる。逃げ場がなくなる。


「き、北本夏鈴! 二年……です」


 名乗った声が早すぎて、自分でも変だと思った。

 隆史はすぐに目を丸くして、慌てて言い直す。


「あ、すいません。タメでしゃべっちゃって」

「いいよ、全然! 部活の先輩でもないし……」


 取り繕うように笑ったつもりだった。笑えているかは分からない。頬だけが熱い。


 隆史は入口のあたりの空気を見上げるようにして言った。


「そこ、暑くないです? 中の方がちょっとマシっすよ」


 そう言って手を差し出してくる。

 夏鈴はその手を見て、一瞬だけ肘の記憶がよみがえりそうになった。

 でも、今はそれより別のものが近い。隆史の指先。ボールを打つ手。


「あ、ありがと……」


 手をつかんで、引いてもらい立ち上がる。

 触れたところが特別に熱いわけじゃないのに、自分の心だけが落ち着かない。手を離したくなくて、でも握り続けるのも怖くて、力を抜いた。


 隆史は少しだけ気を使うように言った。


「もしかして、女バスの誰か待ってたり? 呼んできましょうか?」


 その言葉に、夏鈴の胸がきゅっとなる。

 違う。待ってるのは、あなた。

 でも言えない。言ったら、ここにいる理由が全部バレる。バレたら、自分が自分じゃなくなる気がする。


「ううん、違うの、大丈夫……だよ」


 隆史は「そうすか」とだけ言って、扉の向こうを指さした。


「せめて中入りましょう。少しはマシなんで」


 そして、さっきまで高い境界だった入口を、一歩だけ越えさせてくれた。

 夏鈴の中で、何かがひとつ進む。進んだのに、怖さも一緒に来る。ここに入ったら、もう「見てるだけ」ではいられない気がして。


 そのとき、コートの方から声が飛んだ。


「おーい、新庄! 休憩終わりだぞ!」

「はーい!」


 隆史は返事をして、夏鈴に向き直った。


「じゃあ、北本先輩はのんびりしてってください」

「は、はい……」


 隆史は走っていった。

 足音が床に小さく響いて、すぐ練習の音に混ざって消える。

 夏鈴はその後ろ姿を見て、胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。


(苗字、覚えてもらえたかな……)


 呼ばれたのは苗字じゃなくて『先輩』だけど、それでもいい。

 今日、隆史は自分の名前を聞いた。北本、と知った。

 それだけで、ほんの少し世界が変わる。


 そう思った瞬間、後悔がやってくる。


(あ、頑張って、って言えばよかった……)


 たった一言、言えたはずだ。

 自分が元シューターだったこととか、肘を壊したこととか、最後のシュートが外れたこととか、そんなのは全部いらない。

 ただ「頑張って」。それだけでよかったのに。


 でも今日は、それだけで良かった。

 隆史に声をかけられた。名前を名乗れた。体育館の中に入れた。

 ほんの少しの前進。自分だけで越えられなかった線を、一緒に越えさせてもらった。


 夏鈴は体育館の端に座った。床が少しだけ冷たくて、制服の膝が楽になる。

 練習の音がまた増える。笛が鳴り、ボールが弾み、スニーカーが走る。

 隆史がシュートを打つ。入る。派手な声は上がらない。でも、周りが遅れて「おお」と言う。


 夏鈴の中でも、同じ音が鳴った。

 昔の自分の「おお」じゃない。悔しさでもない。

 いま目の前にいる隆史に向けた、小さな音だ。


 次はもっと話せたらいい。

 次は「おつかれ」って言えるように。

 次は「頑張って」を落とさないように。


 夏鈴は膝の上で指を軽く組んで、ほどいた。肘は痛くない。

 それが少し不思議で、少し嬉しかった。

 バスケの近くに寄れなかった自分が、今日はちゃんとここにいる。


 そのことだけを、胸の中に置いて帰ろうと思った。


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2025年12月20日 15:00
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