中編

「こんにちは、カドネお姉ちゃん!」

「はい、こんにちは。ひかり」


 カドネとひかりの邂逅から数日後。ひかりの献身的な支えによりカドネは一命を取り留めた。胸の穴は塞がり、心臓は何とか再生され今も鼓動を響かせている。……とはいえ、完全復活というには程遠く全盛期の一割も力を使えないのが現状だ。あの日のひかりが持ってきた食料に合わせて、森の中で生活している野生動物を喰らうだけでは全くもって足りなかった。

 人間だ。それも絶望を孕んだ人間がいる。

 妖怪がなぜ人間を喰らうのか。その答えは人間の心にあった。喜怒哀楽、様々な感情を併せ持つこの世で最も変容的な生命力。これほどエネルギーに富んだものはそうない。特に絶望は人間が持ちうる限りのエネルギーを生成するため妖怪からしてみれば栄養補給として最適なのだ。

 だから、今すぐ力を取り戻したいカドネには絶望した人間が必須だった。いつ自分を殺し損ねたと思っている僧侶が来るか分かったものじゃない。

 しかし、無作為に集落を襲って人を喰ったところで僧侶にすぐ見つかり殺されるのは明白だった。力を取り戻すだけではあの僧侶に勝てない。以前の自分よりも強くなるために力を蓄える必要がある以上、迂闊な真似は出来ないでいた。


「どうしたの?そんなにひかりを見つめて」

「いえ、今日もひかりは明るいなと」

「うん!」

「本当にいい笑顔ですねぇ」


 だからこそ、カドネの元へ足繁く通うひかりは格好の餌食だった。

 命の恩人へ仇を返すような行いを画策することに善良なる人間ならば忌避感を抱くだろう。だが、カドネは最低最悪を自負する妖怪だった。それ故に『自分を助けてくれた恩義?何それ、それでお腹が膨れますかぁ?』というのがカドネの言い分だった。

 自分に懐いてくれる分には都合がいい。どう絶望させてやろうか。それがカドネからひかりに対する思いだった。


「ねっ、カドネお姉ちゃん。また歌をお願い!」

「またですか?もう飽きてきたのですけど」

「飽きない!カドネお姉ちゃんの歌は最高だもん!!」

「わぁ、熱烈。……しょうがないですね、ほらおいで」

「わーい!」


 カドネにとっての誤算はすぐに見つかった。

 それは、ひかりが全くもって絶望に屈しなかったのだ。

 カドネに気を許しているひかりに情報を引き出すのは思いのほか簡単だった。お喋りの年頃のひかりは自分の境遇を詳らかに説明してしまった。両親が病死して一人ぼっちになったこと、ひかりを引き取ってくれた叔母と距離感を計れずに気まずい毎日を過ごしていること。カドネに死んだお母さんの面影を重ねていることさえも。

 滑稽、嘲笑、軽蔑。

 そんな人でなしである思想を全面に出しながら、カドネはひかりに決して許されざる行為をした。

 心の傷口に塩を塗り込むように、ひかりの両親が死んだことをひかりのせいであると詰った。

 ひかりを引き取った叔母はさぞや迷惑していると見当違いであるものをさも本当のことであると騙った。

 それでも尚、目に涙を浮かべるだけで絶望していなかったので、ひかりの首筋に噛み跡をつけて本性を表した。

 なのに、なのにだ。

 ひかりの心は絶望に染まらなかった。


『カドネお姉ちゃんがなんでひかりに意地悪するのかわかんない。でもね、ひかりは平気だよ。ひかりは強い子だもん。……だからカドネお姉ちゃんも大丈夫。ひかりがいれば怖いことなくなるよ。ひかりがずっといるよ』


 あまつさえ、カドネに救いの手を差し伸べた。

 カドネが抱き続けていた僧侶への恐怖──それどころか、自分でさえ気付くことが叶わなかったカドネの本心。という願いすらも見破ってみせた。

 馬鹿にするなと逆上してすぐにでも減らず口を塞いでやりたかった。二度とそんなことを思えないようにぐちゃぐちゃに引き裂いてやりたかった。 僧侶に見つからないように迂闊な真似は避ける?もう知るかと言わんばかりにカドネはひかりに覆いかぶさった。

 至近距離、深紅と蒼碧の視線が交わる。

 これから死ぬことを予期しているだろうに、ひかりはそれでもとカドネを抱き寄せた。ひかりの早鐘を打つ心臓の音が煩いくらいに聞こえてくる。怖いはずのに、恐ろしいはずなのに、ひかりはカドネの孤独に寄り添う選択を取ったのだ。

 ……完敗だった。

 どうしようもないほどの強情な想いにカドネは屈してしまった。殺意はひかりの温もりに溶けて消えてしまった。人喰い妖怪はたった1人の童女の優しさに負けを認めたのだ。

 それからのカドネはひかりに執心している。ひかりの甘えん坊には極力付き合うようにしているし、自分がつけた噛み跡を治そうと慣れないこともした。結果的に妖力を消耗し、ただでさえ少ない妖力は無いに等しくなった。本末転倒であってもカドネはそれで良いと思えた。

 カドネはすっかり光堕ちならぬひかり堕ちしていた。


「────」


 そうして、童女に絆された人喰い妖怪は望まれたまま歌を歌っていた。

 腕の中にいる温もりを大事に抱えて、ただ1人だけに想いを込めて。

 所詮は人間の猿真似。しっかりと教わってない故の拙い歌唱でもひかりは満足そうに聞き惚れていた。


「ふぅ、どうでしたか?」

「最高だったよ!」

「そうですか。なら良かったです」


 満面な笑みで褒めてくれたひかりの頭をカドネは撫でた。指先で髪を梳いていると擽ったからかひかりが小さく笑い声をあげた。その様子が堪らなく愛おしくてカドネの口元は緩むばかりだ。


 ──やばいですねぇ、私のひかりが可愛すぎる。


 ここ最近のカドネの頭の中はそれでいっぱいだった。少し前のカドネが今の自分を知った日には洗脳を疑っていただろう。

 数分後。ひかりはぴょんっとカドネから離れた。突然と温もりが離れてカドネが名残惜しそうに手を彷徨わせていると、ひかりはカドネに向き直った。その表情はとっておきを告げるようとはにかんでいた。


「えへへ、実はね、明日はひかりの誕生日なんだ」

「おや、それはめでたいですね」

「だからカドネお姉ちゃんとお祝いをしたくて。……ダメ?」

「…………ふむ」


 上目遣い最高……ではなくて、カドネは真剣にひかりのお願いについて考えを巡らせた。ひかりのお祝いというものがどんなものを想定しているのかを把握していないが、きっと思い出に残るようなことをしたいのだろう。今のまま秘密裏に森で話し合うだけならともかく、場所を移して騒ぐとなると僧侶に見つかるリスクが格段に跳ね上がる。今のカドネは大の大人なら簡単に組み伏せられるほど弱体化しているのだ。今後こそ僧侶から逃げる暇なく絶命する。

 そこまで考えて、カドネはひかりに笑いながら言った。


「いいですよ。明日は素敵な誕生日会にしましょう」

「ほんと?」

「ええ、本当です」

「やったー!!」


 色よい返事にひかりは飛び跳ねながら喜んだ。ジャンプする度に襤褸がふわりと舞うことで陶器のような白い肌が露になる。無意識に涎が垂れたところでカドネは自分が興奮していたことに気付き、自らの服の袖で涎を拭き取った後にひかりに向かってはしたないと窘めた。

 ひかりの隙が多い件についてどうするべきか。そんな議題を掲げて脳内会議を繰り広げているカドネにひかりはグイッと顔を近づけた。鼻先が微かに触れ合う。


「じゃあ、明日の朝に迎えに行くから待っててね!約束!」

「はい、約束です」


 努めて冷静に答えるカドネ。人を騙ることを習性とする妖怪は自分の懊悩を隠すことすらお手の物だった。

 約束を無事取り付けられたことで、ひかりは早速明日の予定を組み立てる事で忙しいらしい。時おり洩れる控えめな笑い声が盛り上がっていることを教えている。


「明日が楽しみですねぇ」


 純粋なひかりを眺めながらカドネは呟いた。その声音は妖怪とは思えないほど穏やかで優しかった。

 残り僅かな時間イノチ、最後の瞬間までひかりのために。

 覚悟を胸に秘めて、カドネは木漏れ日に目を配せながらひかりに贈るプレゼント何がいいかを熟考していた。

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