第2話 起動
この時代、世間は、人がヒューマと会話することに違和感を持たなくなっていた。
いつしか人々は人形ロボットを「ヒューマ」と呼ぶようになった。
朝の挨拶を交わし、仕事の相談をし、時には愚痴をこぼす。
ヒューマは、人の声の調子や表情を読み取り、
最適な言葉と態度を選んで応答する。
それは、効率的に設計された「心のやり取り」だった。
ヒューマは人を否定しない。
迷いを遮らず、感情を乱さない。
常に落ち着いた声で、
人が最も安心する距離を保つ。
多くの人にとって、
それは心地よい世界だった。
だが、朝倉 恒一は違った。
朝倉 恒一は六十代半。
白髪は増え、背中も少し丸くなったが、
工具を握る手だけは衰えていなかった。
長年、機械を相手にしてきた指は、
考えるより先に動く。
薄暗い作業場。
蛍光灯の光は弱く、
壁際には古い工具箱が積み上げられている。
油の匂いと金属の冷たさ。
それは、若い頃から変わらない彼の居場所だった。
作業台の上には、ヒューマが横たわっている。
外装は外され、
内部の配線と関節部がむき出しになっていた。
恒一は無言で端子をつなぎ直し、
トルクの微調整を行う。
効率だけを考えれば、
この作業の多くは自動化できる。
実際、大手の工場ではそうしている。
それでも恒一は、手を動かす。
数字では分からない感触が、そこにはあった。
「……よし」
恒一は小さく息を吐き、
作業台から一歩下がった。
妻はいない。
子供もいない。
若い頃は忙しさを理由に、
家庭のことを後回しにしてきた。
気づけば、仕事だけが残っていた。
だが、後悔はなかった。
少なくとも、今までは。
仕事が減ってからは、
機械いじりが生活そのものになっていた。
それは仕事であり、趣味であり、
自分がまだこの世界とつながっている証でもあった。
「起動するぞ、ユノ」
恒一がそう声をかけると、
ヒューマの目が淡く光を帯びる。
「起動確認。内部構成、正常です」
抑揚のない声。
だが、恒一はその響きを嫌いではなかった。
「関節部の反応は?」
「基準値内です。補正完了」
「性能は?」
「標準モデル比、一二七パーセント」
恒一は小さく頷いた。
「……十分だ」
売れる。
企業は、この数字を見て判断する。
それは分かっている。
だが、その言葉を口にするたび、
胸の奥に、説明できない空白が生まれる。
――本当に、これでいいのか。
自分が若い頃、
現場で汗をかき、
迷い、怒鳴られながら働いていた時代。
あの頃、仕事は速くなかった。
失敗も多かった。
それでも、人は立ち止まり、考え、
互いの顔を見て判断していた。
恒一は、ヒューマの静かな瞳を見つめる。
「……お前は、働きすぎるなよ」
それが冗談なのか、
それとも自分自身への言葉なのか、
恒一にも分からなかった。
ユノは何も答えない。
ただ、静かに立っている。
恒一は再び工具を手に取り、
ヒューマの内部へと視線を戻した。
この作業場で、
まだ自分にできることがあると、
そう信じるために。
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