2:初?登校の波乱(7)
海斗は反射的に杏奈の腕を掴み、植え込みの影に身を隠した。
「えー何、なんで隠れると?」
「しっ……なんとなく」
自分でも理由はわからない。
ただ、胸の奥がざわついて、正面から見る勇気がなかった。
視線の先では、夕暮れの中、一人の幼児が駆け寄っていた。
「まま〜!」
幼児「ななみ」が勢いよく飛びつくと、里玖は驚きに目を見開いた。
「七海! いったいどうしたの……どうやってここまで来たの?」
声は叱責よりも、心底驚いた母親のそれだった。
そこへ里玖の携帯が震える。慌てて通話ボタンを押す彼女の声が漏れ聞こえてきた。
「……はい。います。私の職場まで歩いてきたようです……。本当にご心配おかけしました。このまま連れて帰ります」
どうやら七海は、近くの保育園を抜け出して、里玖の職場である渚高校まで歩いてきたらしい。
「だめでしょ! 保育園の先生が心配しちゃうやろ!」
里玖が少し語気を強めると、
「ごめんなしゃい……」
七海はしゅんとして素直に反省しているようだ。
「次からはちゃんと保育園で待っとうとよ。わかった?」
「うん!」
里玖の言葉は厳しいが、その手は優しく七海の小さな手を握り直していた。
そのまま里玖は、教員専用駐車場で七海を軽自動車に乗せると、車をゆっくりスタートさせた。
里玖が運転する車が校門の向こうへ完全に消えるまで、海斗は隠れたまま動けなかった。
「早川ちゃん、子供いたんだ〜。びっくり」
杏奈が素直に感想を漏らす。
海斗は――返事ができなかった。
何から考えるべきかもわからない衝撃で声すらも出なかった。
* * *
気がつくと、海斗は自宅のキッチンでゆで卵を刻んでいた。
「……えっ。なにこれ」
正気に戻った海斗は、手元の包丁を見つめた。
杏奈とどうやって別れたのか、記憶もないのに、まな板の上には、すでに細かく刻まれた玉ねぎとピクルス。
カウンターには、通いの家政婦が作ったらしい唐揚げが皿に盛られている。
横にはメモ。
『冷蔵庫にはお味噌汁、白和え、肉じゃががございます。適宜温めてお召し上がりください。ティラミスはお母様からです』
どうやら、里玖のことで頭が真っ白になっている間に、自分の体――翔生の「手続き記憶」が勝手に動き出し、唐揚げをチキン南蛮へ味変するためのタルタルソースを作り始めていたらしい。
意識がなくても、体が勝手に包丁を握り、最適なサイズに野菜を刻む。
(こいつ……意外に料理男子なのか? やるなあ)
翔生の手続き記憶がやったらしい丁寧な仕事に、海斗は一瞬だけモヤモヤを忘れた。
だが、モヤモヤした時に没頭できる料理は、海斗にとっても嫌いな作業ではなかった。
ボウルに材料を入れ、マヨネーズと黒胡椒を混ぜ合わせる。
(あの七海は、誰の子なんだ)
タルタルを混ぜながら、海斗は考え続けた。
(子供がいるってことは、結婚してるのか)
あれから五年。里玖は二十九歳だ。
(俺が……死んだあとに……)
誰かと出会い、恋に落ち、家庭を築いていてもおかしくはない。
保育園と言っていたから、あの子は三、四歳だろうか。
であれば海斗が、あの攻撃で死んだとして……いや、報道では行方不明扱いだったが……そのあと比較的すぐ後に誰かと結婚したのか。
それを思うと、胸の奥が、えぐられるように痛んだ。
そのとき。
「ただいまーっ!」
背後で、まるで自分の家のように勝手知ったる声が響いた。アキトだ。
「ただいまって……お前、ここ自分ちかよ」
「おっ、タルタル作ってんの? やったー、チキン南蛮!……てことは記憶戻った?」
「いや……」
「へえ、記憶戻らなくても料理は作れるんやね~」
アキトは気にする様子もなく、カウンターに座ると、さっそく唐揚げをつまみ食いした。
「あの〜……」
「なん?」
「俺、前から料理好きだったん……か?」
丁寧語をようやく省略できるようになってきた。
「ああ、翔生の料理の腕前はなかなかよ。家政婦さんが作った料理をアレンジするのがめちゃうまいんよ。うちのオカンより料理上手じゃね?」
アキトはギャハハと笑った。
海斗は、胸の奥がじんわり熱くなるのを感じた。
(……料理は、俺も得意だった)
もともと定食屋の息子だから、手伝いさせられていたこともあり、調理場にはなじみがあった。
さらに、海自の艦艇乗りとして世界中の港を巡り、そこで食べた「海外の港町の、まだ日本では知られていない美味」が忘れられず、定食屋に帰省していた時はよく再現していた。
それが高じて、いつかそんな「各国の美味しい港料理」を出す自分の店を持つのが夢になっていた。
――あの頃。
海斗は、最後の任務の直前に思いをはせる。
夢の実現に向けて、資金もかなり貯まっていたし、相棒になる料理人も確保していた。
里玖だってその夢を応援してくれていた。
彼女自身、一緒に店をやるときのために、とお弁当屋さんの調理バイトで腕を磨いていたはずだったのだ。
それは海斗にとってはまだ昨日ではあるけれど、すでに五年前。
遠い昔のように感じられる、いやすでに遠い昔になっている現実が苦しい。
あの攻撃がなければ、自分はどんな五年後の今日を生きていたのか……。
タルタルの白が、視界の端で滲んだ。
---------------
*あとがき*
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