モザイクに滲む

緋櫻

モザイクに滲む

 楽しかった修学旅行はもう先月の話で、朝のニュースで例年より少し早い梅雨明けを知った。程よい田舎の公立中学に通う私達にとっては、初めての受験生の夏。大して強くないこの学校の部活動は、既に大半が引退を迎えた。夏休みはもうすぐそこまで迫っている。


綾音あやね、そろそろ音楽室に移動しなきゃ」

 授業のチャイムが鳴る三分前。音楽の先生は時間に厳しいから、教室にはもうほとんど人は残っていない。昼休みの始めから机に突っ伏している綾音に、そっと声をかける。返事はない。優しく肩を叩いて再び名前を呼ぶと、彼女はのそりと頭を上げた。

「ん〜、もうそんな時間?」

 いつもの澄んだ瞳は半開きで、朝にヘアアイロンを通しただろう前髪は変な方向に癖がついてしまっている。どこかおぼつかない足取りでロッカーに教科書を取りに行くから、この先の階段で転ばないかちょっぴり不安。

「ごめん、おまたせ。行こっか」

 そう言って微笑ほほえんだ綾音の目元には、うっすらとクマができていた。



 *


 綾音と友達になったのは、中一のときだった。小学校で割と仲の良かった子とはみんなクラスが離れてしまったから、見知らぬ顔ぶれの中に気の合いそうな子がいないか探していた。

「これ、落としたよ」

 ある日、私は綾音のハンカチを拾った。カフェラテみたいな色をしたそれには、おっちょこちょいなところがかわいいと評判のくまのキャラクターがついていた。

「あ、『ちょこベア』じゃん!」

「え、知ってるの?」

 この出来事がきっかけで、私達はよく一緒にいるようになった。綾音は大人しい性格だけど、時々ふわふわと、まるで花が揺れるように笑う。私はその純粋な笑みを好きになった。


「綾音ってすごく真面目だよね」

 綾音と仲良くなってしばらく経った頃、私は休み時間に彼女の席を訪れていた。

「ええっ、ほんと?」

 さっきの授業の内容をノートに書き込んでいた綾音は、ぱっと頭を上げて、隣に立つ私を見た。

綾音は私が今までに出会った人の中で、いちばん真面目だった。宿題は絶対に忘れないし、授業の内容も全部メモを取っている。今だって、机の上のノートは思わず二度見してしまうほどぎっしりと丁寧な字で埋め尽くされていた。

私の言葉を聞いた綾音は、まるで信じられないとでも言うように目をまん丸にした。その顔には驚きだけではなくて、わずかな喜びも混ざっていたように思う。けれどそれはほんの一瞬だけで、すぐに自嘲じちょう気味に笑った。

「でもわたし、バカだから……これくらいやらないと身につかないよ」

 バカ。普段きつい言葉を吐かない綾音が、なんの躊躇ためらいもなくそう言ったことに、今度は私が驚く番だった。

「綾音はバカじゃないでしょ。そこまで自分を下げなくたっていいのに」

「お母さんがよくわたしに言うから。わたしのことめてくれるのは真帆まほちゃんくらいだよ」

 まるで何でもないことのように、綾音は困った笑みを浮かべてそう言った。


 そんな会話をした数日後。授業参観で、綾音のお母さんに会った。私のお母さんはその後仕事があったから既にいなかったのだけど、そのときの衝撃は今でも覚えている。

「綾音のお友達かしら」

 艶のある茶髪をお団子にまとめた、くっきりした顔立ちの女性。柔らかい雰囲気の綾音とはあまり似ていなかった。切れ長の瞳は私をじっとのぞき込んでいて、口元だけがわずかに笑っていた。

「友達の真帆ちゃんだよ。すっごく頭がいいんだよ!」

 綾音のどこか慌てた様子に、私はハッとした。そしてにこやかに、この人が求めているだろう友人像を頭に描きながら挨拶をした。幸い、その人は鋭かった空気を少し緩ませて、「そう、今後も綾音と仲良くしてね」とだけ言って去っていったから、特別何かあったわけではなかった。けれどあの目は、背筋にすっと寒気が走ったあの冷たさは、初対面の娘の友達に向けるものではない。少なくとも私のお母さんとは違う。そう感じた。


「あのさ、授業参観のときは、なんかごめんね。わたしのお母さん、ちょっとこわかったよね」

 授業参観の後日、綾音が急に謝ってきた。

「ええっ、そんな謝らないで!」

 頭を下げる彼女に慌てた一方、内心ではある考えが浮かんだ。

「……失礼だったらごめんなんだけど」

 そのときの私は、ほとんど確信に近いものを持っていたのと、ある程度仲良くなった後だから会話の延長で踏み込んでみてもいいのではないかと思ったのだ。友達への純粋な好奇心が働いた結果だった。

「綾音のお母さんって、ちょっと厳しい人なの?」

 綾音の瞳が揺れた。一度口を閉じた後、ゆっくりと、意を決したように開いて、か細い声が絞り出された。

「やっぱり、そう、なのかな」

 それから、綾音は少しずつ家のことを話してくれるようになった。お父さんは今はもう家にいないこと。何でもお母さんの言う通りにしてきたこと。でも大きくなってからそれが普通ではないかもしれないと気づき始めたこと。

「綾音はお母さんとケンカしたりしないの?」

「ええっ、ケンカ? したことないよ」

 きっぱり言い切ったことに若干戸惑ったものの、彼女の様子を見ていると、おそらく反抗の「は」の字も知らないのだろう。

 私は綾音のそばにいた。友達として支えたい、力になりたいと思った。綾音は私によく感謝を伝えてくれる。それはまさに私が好きな彼女の純粋そのものだった。

「真帆ちゃんが友達になってくれてよかった」

「真帆ちゃんと一緒にいると楽しい」

「真帆ちゃんのおかげだよ。ありがとう」

 そういった言葉を聞くたびに、私は胸の温かさと、直接助けてあげられない歯痒はがゆさを感じていた。


 *



 今日は委員会が長引いたから、家に着く頃にはお腹がすいていた。玄関でくつそろえて脱ぎ、手を洗ってからリビングのドアノブに手をかける。ちょうど電子レンジの音が聞こえたから、少し声を張ってただいま、とドアを開けた。

「あ、おかえりー」

 案の定、キッチンのほうからお母さんの声が飛んできた。湯気ゆげの立つガラスのボウルを抱えてこっちをちらっと見る。荷物をその辺に置いて、私もキッチンへ向かった。

「今日の夜ごはん何?」

「野菜炒めだよ。豚バラがすっごく安かったの!」

 お母さんはボウルのにんじんをフライパンにがさっと投入した。菜箸で炒めながら、湯気の割にはまだ硬そうなそれを見て眉を寄せた。

「あれ、思ったより炒めるの時間がかかるかも」

 シンクには既に包丁やまな板が散乱している。

「洗っておくよ」

「本当? ありがと!」

 洗い物を始めてすぐに、お母さんが話し始めた。

「今日、八時から『何コレ? ワールドミステリー』で古代遺跡の特集をやるんだって! 一緒に観ない?」

 なるほど、お母さんの上機嫌の理由はここにもあったようだ。

 お母さんはテレビ離れが進む現代でも、面白そうなバラエティがやっているとテレビをけておくタイプの人間だ。私もお父さんもそれにつられて、なんだかんだ家族団欒だんらんのひとときを過ごすのが我が家の日常。

 ぴかぴかになった食器に、私のほころんだ表情が映った。


「この前の保護者会で話してたけど、真帆、本当に明陽めいよう高校が第一志望でいいの?」

 出来たての野菜炒めをちょうど口に運ぼうとしたところで、お母さんが急に切り出した。持ち上げていた箸を下ろす。

「どうしたの、別に今の成績なら行けると思うよ?」

 県内の高校の中でも高い偏差値と進学実績を誇っており、かつ文武両道な人気校。通いやすい距離にある高校の中で、明陽は堂々のトップだった。

「うん、まあそこは心配してないんだけど」

 お母さんの大きな目がどこか心配そうに私を見つめる。お父さんは口をもぐもぐさせながらお母さんと私を交互に見た。

「担任の先生、『真帆さんなら明陽十分に目指せますよ!』って感じで、できるだけ上を狙っていこうって雰囲気だったじゃん。でも真帆の本当に行きたい高校なのかなって思っちゃって」

 たしかに、林先生は生徒に対して熱心な人だ。人あたりのいいおじさんって感じで、生徒からの評判はそこそこいい。

「今年の担任、まるで塾の先生みたいだな」

 お父さんが笑うから「もう!」ってお母さんが横腹をつついた。そういうことじゃないとでも言いたげな顔で。

 ああ、そういうこと。

「大丈夫だよ!」

 二人が同時にこっちを向いた。私も二人としっかり目線を合わせる。

「私は明陽に行きたいって思ってるから。通いやすいし、評判も良くて楽しそうなところでしょ?」

 そう言って微笑むと、二人は顔を見合せてから、ゆっくりと、安心したように目を細めた。

「それならいいんだけど。まだ七月だし、焦らないで、真帆の行きたい高校を選んでね」

「いやあ、僕達の娘とは思えないくらい優秀だな、真帆は」

「えー? あたしに似たんでしょ」

「そんな馬鹿な」

 二人がやいやい言い合っているのが面白くて、私は笑った。二人も笑っていた。

 優しくて素敵な両親と、それに相応ふさわしい娘。

 私は、今の生活を心から愛している。



 倒れる人が出るんじゃないかと思うくらいの、まるで蒸し風呂みたいな体育館で終業式は行われた。隅に設置された気休め程度の大きな扇風機が、ゆっくりと首を回しながらごうごうと音を立てている。さすがに春よりは手短になった気がする校長先生の話が、ぼーっとした頭を通り過ぎていった。厳しいとうわさの生活指導の先生にマイクが渡って、はきはきとした声が体育館中に響くようになると、ひそひそ話をしていた人達は大人しくなった。

「えー、これから夏休みに入るわけだが、三年生のみんなは受験が待ち構えている。もちろん、ただ宿題をやるだけではなく……」

「受験」という単語が出た瞬間、斜め前に座っている綾音の肩が少しだけこわばったように見えた。

 ――綾音はきっと、夏休みも勉強漬けなんだろうな。

 胸がきゅっと痛むような感覚。私が悩んだってどうしようもないと無理やり自分に言い聞かせる。そうして一旦は頭から追い出したつもりでも、それは片隅に少しずつ溜まっていって、いずれ大きくなることに気づいていないわけではなかった。


 教室に戻った後は、みんなお待ちかねの通知表タイムだ。いつもよりざわざわしている中、林先生が頑張って声を張る。

「みんな通知表が欲しいだろうー? ほら配るから席に着いてー」

「俺は欲しくないっすよお」と嘆く男子をなだめつつ、先生は名簿順で名前を呼んでいく。

 ついに私の番だ。教卓に向かい、差し出された私の通知表を受け取る。紙自体は去年と同じはずなのに、手にかかる重みがいっそう増したような感覚。席に着いて、ちらりと周りを確認してから、そっと表紙をめくり、書かれた私への数字に目を通す。

 ――うん、現状維持できてる。

「ねえねえ、どうだった?」

「うわっ」

 ほっと一息ついた瞬間、後ろから軽く肩を叩かれた。ぱっと閉じて振り向くと、斜め後ろの席から莉子りこが身を乗り出していた。

「んー、去年とあんまり変わってない気がする」

「ふーん、そうなんだ」

 莉子はあまり面白くなさそうな顔をしている。どうやら中身を覗かれてはいなかったようで、少し安心した。

「でも真帆って絶対頭いいでしょ? 高校どこ行くの」

「……今のところは、明陽が第一志望かな」

「えー明陽!? めっちゃ頭いいじゃん!」

 莉子が大袈裟おおげさなリアクションをすると、隣の男子もそれに反応して、莉子と盛り上がり始めた。私は苦笑いで「い・ま・は、ね! とりあえず目指してみるだけなんだからね」とだけ言っておいた。

 莉子は私と同じバレー部だ。明るくて話しやすい子だけど、噂好きというか、すぐ人のことを探るところが私はちょっと苦手。

 二人の会話を適当に聞きながら、この暇な時間が続くのなら綾音のところへおしゃべりしに行こうかと思った。ここより少し前の、廊下側の席。

 二人に向けていた姿勢を戻そうとした、そのとき――

 こっちを見ていた綾音と、ぱちりと目が合った。

 驚いたように見開かれた目。その瞳は私に対して、普段見せない色をしていた。それはほんの一瞬の出来事で、彼女はすぐに顔をそむけるようにして前を向いてしまった。

 間もなく「いいかげん席に着け〜! 先生も早く終わりたい!」という声で、あちこちに固まっていた生徒はしぶしぶ各々の席へと戻った。


 帰りの挨拶を終えて、私と綾音はいつも通り一緒に教室を出た。一階の靴箱へぞろぞろと向かう人の波。廊下を駆ける通知表の話題がうるさい。私達は学校を出るまで一言も話さなかった。

「いよいよ夏休みだね」

 私が話題に迷う中、先に口を開いたのは綾音だった。

「そうだね。ほんと三年生ってあっという間」

「真帆ちゃんは夏期講習行ったりするの?」

「うーん、一度模試は受けてみようと思ってるけど、塾に通うのは考えてないなあ」

「そうなんだ。……すごいね、真帆ちゃんは」

 いつもより声のトーンが低い。私は焦った。

「そんなことないよ! 綾音だっていつも頑張ってるじゃん。すごいよ」

 綾音は「ありがとう」とだけ答えたきり、口をつぐんでしまった。

 赤信号で立ち止まった。私達が別れるひとつ先の交差点が遠くに見える。ここの信号はあっちの信号より古いし、再び青に変わるまで時間がかかる。私達と同じ方向の男子達が後ろに並んだ。夏休みの宿題の話をしている。英語の宿題は多いと不評だ。

 信号が青になった。歩き始めても綾音は黙ったままだ。私はとうとう口を開いた。

「私の気のせいかもしれないけど、綾音、今日元気ないよね。何か……通知表が良くなかったとか?」

 なるべく慎重に、言葉を選んだつもりだった。二、三歩進むくらい、たった数メートルの距離の沈黙が、明らかな間を感じさせた。

「うん」

 少なくとも、綾音は肯定した。

「実は去年とあんまり変わってなくて。もっと伸びていてほしかったんだけどなあ」

 少しうつむいて歩く綾音の表情は、ゆったりとしたリズムでわずかに揺れる横髪に隠れている。

 ――ねえ、それって、本心?

 直感的にそう思った。でも、何も聞かなかった。

「またね」

「うん、じゃあね」

 横断歩道を渡った先で、普段の綾音なら控えめに手を振ってくれるのに、今日はこちらを見ることもなく去ってしまった。

小さくなっていく背中を見つめる。自分の性格を少しだけ恨んだ。



 八月のお盆休みの前、真夏という言葉がぴったりな晴れた日に、一度だけ綾音と遊んだ。あまりにも暑いから屋外は諦めて、電車で数駅先のショッピングモールに行った。フードコートでクレープを食べたり、プリクラを撮ったり、息抜きには最高な一日だった。彼女と顔を合わせるのは終業式以来だったから正直ちょっぴり緊張していたけれど、そんなのは余計な心配だったと思えるくらい、二人で楽しんだ。

 最後に立ち寄った雑貨屋さんで、私達は綺麗なしおりを見つけた。

「こういうの、ステンドグラスって言うんだっけ?」

「教会の窓とかにありそうなやつだよね。きれい」

 黒で縁取られた枠の中により細い線で複雑な模様が描かれている。動物や花など、色もモチーフもたくさんの種類があった。

 少しの間、綾音は栞をじっと見ていた。きらきらとした横顔をちらりと見て、私は言った。

「ひとつ買ってみたら?」

「ええっ……どうしよう」

 そう言ったきり、その場で固まってしまう。こういうとき、綾音は自分の意思がよくわからない、決められないのを私は知っている。今日食べたクレープだって、迷った挙句私と同じものを選んだ。

「私買っちゃおうかな」

「え! どれにするの?」

 私は少し考えてから、右端にある、コバルトブルーにイルカが泳いでいるものを手に取った。

「これにする。この色好き」

「わあ! いい色だね。イルカもかわいい」

 綾音はいっそう目を輝かせた。

「綾音も海の生きものにする?」

「うーん……そうしようかなあ」

 いくつか栞を手に取ったかと思えば、海洋生物とにらめっこを始めてしまった。少しの間それを眺めていたら、綾音は降参したように私を見て言った。

「真帆ちゃん、どれがいいと思う……?」

 それを合図に、私はゆっくりと近づいて、綾音の手の中からひとつ栞を抜き取った。

「これとかどう?」

 紫がかった青色にふわふわと漂うクリオネ。私のものと対になっているような気がした。

「たしかにクリオネかわいいね! ……うん、これにしようかな」

 そうして、二人でレジに向かおうと一歩踏み出したそのとき。綾音の動きが止まった。あ、と聞き取れないくらい小さな声でつぶやいた後、手に持った栞を見つめている。

「どうしたの?」

 綾音は私の問いかけに答えないまま、何かに迷っているような顔をしていた。けれどやがて何事もなかったかのように優しい表情に戻って、大事そうに両手で栞を持ち直した。

「ごめんね、何でもないよ」

「そう?」

「この栞、大切にするね」

 何でもないと言われてすんなり納得できたわけではなかった。でも、綾音の笑顔を見たらそれ以上追及する気にもなれなかった。


 外へ出た頃にはもう日が傾いていた。少し遠くからガタンゴトン、と電車の音が聞こえる。燃えるようなだいだい色に照らされたアスファルトには、二人の影が先程のショッピングモールのほうへ長く長くのびていた。

「楽しかったなあ」

 駅へ向かって歩きながら、綾音が言った。その言葉に詰まっているのは、今日一日の充実だけではないような気がした。ちらりと顔色を伺おうとしたけれど、影になってしまってよく見えない。

「あのね。今日が終わっちゃったら、わたし、もう遊べないの。春まで、受験が終わるまで」

「え……それは、ちょっと厳しすぎない? 土日とか、たまには息抜きがあっても」

「駄目なの」

 珍しく綾音が会話を遮った。ちょうど角を曲がって、駅に着いたところだった。綾音が立ち止まって私を見る。

「ほんとは今日遊ぶのも、お母さんいい顔しなかった。明日からはちゃんと勉強しなさいって」

 ――そんな悲しそうな顔しないで。

 私は今日一日、綾音にリフレッシュしてほしかった。思い切って贅沢ぜいたくしてほしかった。笑顔でいてほしかった。

「……そんなの、しんどいよ」

 綾音はうなずく。立ったまま唇をみ締めている少女を、私はいてもたってもいられなくて、そっと抱きしめた。随分と細い彼女は、私の中にすっぽりおさまった。

 少しの間そうしていると、腕の中で小さな声がした。

「わたし、いつも真帆ちゃんに救われてる。本当に、感謝してるの。本当だよ……」

 最後のほうは今にも消え入りそうな声だった。

 こんなに胸が温かいのは、単に綾音が腕の中にいるからだけではないことは明らかだった。紡がれる言葉のひとつひとつが、しっとりと心に染み込んでいく。

 私はどうしようもないほどに嬉しかった。こんなにも苦しいのに、満たされた心の奥底からよろこびが湧き上がってくる。

 なんて言ったらいいのか、今の綾音に贈るぴったりな言葉が見つからなくて、私は何も言わずただただ彼女を抱きしめていた。



 夏休みが明けると、それまで遊んでいるイメージが強かったクラスメイトも、いよいよ勉強に本腰を入れるようになった。だらけた空気が支配していた一部の授業も、今はある程度集中できる環境にはなってきていた。

 綾音は前よりますます元気がなくなり、時々お腹が痛いと言って保健室に通うようになった。私は授業が始まる前、教室に来た先生に綾音が保健室に行ったと一言伝える。ノートは前よりも細かく、綺麗に書くようにした。しばらく教室に戻ってこないときは、机の上に重なったプリントや返却されたワークをそっと整理しておく。綾音のいる休み時間は、授業の連絡事項を伝えたり、数学や英語で分からないところを解説したりする。これが私の新しい一日。時々クラスメイトが私のことを「優しい」と褒めて、「そんなことないよ」って返すまでがセット。林先生にも「いつも綾音さんを助けてくれてありがとう」と言われた。

 もちろん、綾音からの感謝の言葉も十分すぎるくらいにもらった。私は、できる限り綾音に寄り添いたいと心から思っている。そして実際、そうしている。はずなのに。


「ごめんね。どうしてお腹痛くなっちゃうのか、自分でもわかんなくて」

「最近は二時くらいに布団には入るんだけど、全然寝付けなくて」

「……あ、ごめん。ぼーっとしてた。集中しなきゃだめだよね」


 最近、綾音のことが頭から離れない。前はふとしたときに心配に思うくらいだったのに、今は一日に何度も、いや、常に苦しそうな綾音が頭の隅にうずくまっている。私は何か別のことに集中していないとすぐに彼女の元へ駆け寄って、思いつく限りの言葉を差し出したり、隣にじっと座っていたりする。返事はない。ここにいたら、私まで暗闇に引きずり込まれてしまうのではないか――そんな感覚がよぎって、私ははっとそこから離れる。そんなことを繰り返していた。



「その子、だいぶ精神的に参ってるんじゃない」

 私はお母さんに友達の状態を簡潔に説明した。一度信頼できる大人にも話したほうがいいと判断してのことだった。

「一度病院に行ったほうがいいと思うんだけど……親は連れて行ってくれなさそう?」

「正直、あまり期待はできないと思う」

 二人分のため息が静かなリビングに響く。

 やっぱり、綾音の状況は病院で診てもらったほうがよさそうなんだ。でも、どうやって。内科を受診して、ストレスが原因だと言われたら、綾音のお母さんは休ませて――いや、あの母親のことだから、きっと今と変わらないだろう。

 それから、私は。私は、ただ寄り添うことに徹するだけでいいのか。

「私にできることはないのかな」

 お母さんは眉間みけんしわを寄せてうーんとうなった。

「難しいね……でもいちばん大事なのは心の支えになってあげることだと思うよ。そばにいてもらえるだけでも違うはずだから」

 だいたい予想通りの答えが返ってきた。別にお母さんが悪いわけではないけれど。

「やっぱそうだよね」

「その子のこと、もちろん心配だと思うけど」

 お母さんは私を見つめて言った。

「あまり悩みすぎないでね。また何かあったらお母さんにも相談して」

 高校の話をしたときと同じ、娘のことをおもう真剣な瞳だった。

「大丈夫! わかってるよ」

 気づいたときには、私は前と同じように返事をしていた。

 だって、私は優等生だから。



 綾音を保健室に送り届けるのも両手で数え切れなくなった頃。教室に戻ってきて席に座ると、莉子が私の元に歩いてきた。まだ次の授業までは時間がある。

「綾音ちゃん、また保健室?」

「うん」

「そっかあ」

 莉子はしゃがんで机にひじをつき、私の顔を覗き込んだ。がやがやした教室の中で、二人だけの空間が生まれる。

「最近ずっと綾音ちゃん体調悪そうだよね。大丈夫なのかな」

 いかにも心配だ、といった声色で莉子は言ってから、一拍置いてこう続けた。

「真帆はさ、綾音ちゃんから何か聞いてるの?」

 ああ、やっぱりね。

 莉子にももちろん、クラスメイトとして、そして一応友達として綾音を心配する気持ちはあるだろう。

 でもそれだけじゃない。その裏にあるのは好奇心だ。他人の話題を好き勝手に楽しんで消費したい衝動を、薄っぺらい気遣いで覆い隠そうとしているだけ。

「私も詳しくは知らないよ。受験勉強で疲れてるんじゃないかな」

 綾音が私に語ってくれたことを、吐き出してくれた心の内を、莉子が知る必要はない。私は友達として、綾音に対して誠実でありたい。

「なるほど。みんなもいよいよって感じで頑張ってるもんね」

 ちょうどチャイムが鳴って、莉子は立ち上がると「じゃあね〜」と言って呑気のんきに去っていった。少しの間、私は莉子の背中を目で追っていたけれど、はっと我に返って目線を逸らした。



 お母さんのアドバイス通りに、一度病院に行ってみることを綾音に勧めた数日後。時間割変更の関係でやや久しぶりの体育があった。まだジャージは必要ないくらいの暑さの中、私達は教室で着替えていた。

「気をつけて! そっちに虫飛んでった!」

 女子の悲鳴が聞こえて振り向くと、ブンとちょうど顔の真横を親指の先くらいある虫が通り過ぎた。虫の行く先にいるのは、綾音だった。

「うわあ! あ、綾音!」

「え? ……きゃっ!」

 綾音のシャツに虫がひっついて、綾音は咄嗟とっさに腕を振り回した。そうしたら、なんとシャツの上で虫がつぶれてしまった。その場にいた全員が青ざめる。一瞬、時が止まった後は、ぎゃーという絶叫とティッシュを探し求める声が部屋に響いた。

 結局ティッシュだけではうまく汚れを取りきれず、汚れた部分を水で軽く洗っておくことにした。だいぶ薄着の綾音と一緒に私も汚れと格闘していた。それで普段の着替えでは全然気にしていなかった綾音のウエストが目に入った。

 そのときの私は、きっと傍から見たら、虫を見たときよりも青い顔をしていただろう。綾音は元々華奢きゃしゃではあったけど、ひどく薄いお腹はひと目でわかるほど修学旅行のときよりせ細っていて、もはや異常だった。夏休みに出かけたときも細すぎると感じたけれど、いざ目にすると、それは心配を通り越して恐怖だった。


「最近、ちゃんとごはん食べてる?」

 その日の帰り道、思い切って綾音に聞いた。

「え、ごはん……」

 綾音は呟くように言った後、少し考えてから答えた。

「正直、あんまり食べてない」

 予想通りの返答だった。

「なんか食欲が湧かないんだよね。よくお腹痛くなるし」

「やっぱりそうなんだ……私心配になっちゃうよ」

「うーん、頑張ってカロリー高いものを食べようかな」

 苦笑いの綾音に、私の心配は本当に伝わっただろうか。


 帰宅後、自分の部屋に入ってドアを閉めた瞬間、何だかひどい疲れが襲ってきて、その場に座り込んでしまった。息が荒い。大きく息を吸い込もうとしたけれど、身体が震えて言うことを聞かない。

 帰り道、どうして私はあんなに落ち着いて話せていたんだろう。体育のときからこわくて仕方がなかった。綾音が身体の芯からポキッと折れてしまうんじゃないか――そんなありもしない妄想が、なぜか頭にこびりついて離れない。綾音に寄り添いたいのに、助けたいのに。



 長かった夏もとうとう終わりを迎え、秋の風が吹き始めた。残暑を乗り越えても待ち受けるのは受験の冬で、教室の雰囲気は次第にピリピリしたものになっていく。

 綾音はお母さんと病院に行って胃薬をもらったらしい。けれど体調は回復しないどころか、だんだんと悪くなっていった。彼女に残された手段はもう、一旦受験が終わるまで耐え忍ぶことしかないように思われた。

 そんな中、最近行われた定期テストの順位が発表された。綾音はテスト自体は何とか受けていたけれど、あんな調子じゃいい結果を出せず余計に追い詰められるのではないかと、私は内心不安に思っていた。

 しかしながら、人の心配をしている場合ではないというのは、まさしく今の私に刺さる言葉だった。

「え……?」

 成績表を開いた私は、言葉を失った。手が震えている。今回のテストの欄に書かれていた順位は、十一。過去最低だった。

 ――二桁? 嘘、だって、今まで取ったことがない。なんで、いやたしかにどの教科も前より点数は下がったけど、そんな、これじゃ、明陽に受からないかもしれない。

 しかし何度見たって数字は変わらない。一時的にシャットアウトしていた周囲のざわめきが急速に戻ってくる。とりあえずこの受け入れがたい成績表を閉じた。そして動揺を他人に悟られないよう注意を払いつつ、どうしようもない時間が終わるのを待っていた。


「真帆ちゃんは、テストの結果どうだった?」

 昼過ぎから雲が空を覆い尽くして、少し肌寒くなった帰り道。綾音は私にそう聞いた。

「あはは、今まででいちばん悪かった」

 乾いた笑いとともに、私は事実だけを表した。

「ええっ、それは残念だったね。今回何か苦手なのあった?」

「いや、特には……細かいミスとか、なぜか忘れてたとか、そんなのばっかり」

 テスト勉強に費やした時間が減ったわけでも、当日の体調が悪かったわけでもない。

「そっか……まあでも学校のテストだから。模試で取れるなら大丈夫だよ」

 普段は心地よいはずの綾音の声が、耳に響く。

「綾音はどうだったの」

「前よりちょっと上がってた! 真帆ちゃんが解説してくれたところがちょうどテストに出てたし」

 屈託なく笑う綾音に対して、いつもみたいに微笑み返すことができない。

 まだ家に着くまでもう少しかかるのに、灰色の雲はどんどん重なって、今にも雨が降り出しそうだ。

「……わたし、真帆ちゃんにはいつもお世話になってばかりだね」

 打って変わって、綾音は落ち込んだ様子になる。

 違う、そんな風に思う必要はないの。

「わたしばっかり頼っちゃってる。でも、お願いだから」


「真帆ちゃんは、真帆ちゃんのことを優先していいからね」


 そんなこと、わかってるよ。

 私はちゃんと自分で自分を演じてる。そのうえで、あなたに寄り添いたいと思ってる。優等生として生きてる。


 それなのに、

 どうして私は今、

 綾音のことを「うざい」と思ったの?


 やがて雨が降り出した。

 私は綾音の言葉に適当に相槌あいづちを打ち、いつもの交差点を渡り切るより前に別れの挨拶をすると、リュックに折り畳み傘の存在を隠したまま走り出した。



 後日、あの雨の日のことは、綾音にとっては何ともなかったようでひとまず安心――いや、安心なんてしていられなかった。

 あのとき私は綾音に対して、半分八つ当たりをしていた。けれどもう半分は、深刻だった。

 私の成績が下がった心当たりは、まさしく綾音だ。勉強していても不安と心配でいっぱいになって、全然集中ができない。自分が悩んだって仕方がないとわかっているのに、私にはすべがなかった。



 あっという間に、受験前の保護者会の季節がやってくる。先生達は、保護者と話す前に生徒と一対一で面談をする機会を授業の合間や放課後に設ける。私は放課後、林先生に呼ばれて空き教室に来ていた。

「真帆さん、どうぞこの辺座って」

「はい」

 教室を入ってすぐの手前の椅子に、私は先生と向かい合う形で腰掛けた。

 早速受験について切り出され、私は順位が落ちたことに触れられるのではないかと少しハラハラしていた。けれど少し前に受けた模試の結果が良かったから「まあ今回だけだろうし、この順位でも目指せないわけじゃないから大丈夫!」と前向きなことを言われて、内心ほっとした。先生の目が私の成績が書かれた書類と、進路希望調査とをあっちこっち行き来しながら、特に何事もなく話は流れていった。

「よーし、じゃあ終わろっか!」

 この後に面談をする生徒はいないらしく、先生と私は一緒に教室を出た。授業が終わってからやや時間が経っているから、人の気配はない。空が曇っているからか、廊下がいつもより薄暗く感じる。

「ああ、そういえば真帆さん!」

 先生が思い出したように声を上げるから、私はびくっと肩を震わせながらも「何ですか」と聞いた。

「いや前も言ったけどさ、いつも綾音さんのこと気にかけてくれてありがとうね」

 よき先生として、にっこり笑ってそう言われるから、私は「いえいえ、友達ですから」とだけ返す。先生はうんうんと嬉しそうに頷く。

「ぜひ二人には高校に進学してからも、助け合っていってほしいよ」

 そして、耳を疑うような言葉を続けた。


「二人とも、明陽に合格できるといいなあ」


 ――今、なんて?

 理解が追いつかない私をよそに、先生はしゃべり続ける。

「実はうちの娘も通っていてね。ほんと明陽はいいところなんだよ。二人が娘の後輩になったら面白いや」

 綾音も、明陽が第一志望。それを本人の口から聞いたことはなかった。私も、直接志望校を言ったことはない、けれど。


 終業式の日、通知表をもらって、莉子たちと話をしていたとき。綾音と目が合って、帰りは何となく気まずかったあの日から……


 ――そっか。綾音も、苦しかったんだね。


 純粋なんて、最初から存在しなかった。

 それでいて、すべては誠実に存在していた。

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モザイクに滲む 緋櫻 @NCUbungei

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