愛執
米田
愛執
ハラリと一束、髪が床へ落ちる。
続いてシャキシャキと鋏を入れられて、どんどん短くなっていく。子どもの頃からずっと伸ばしていたけれど、何の感慨も湧かなかった。綺麗に伸ばしていたのに、本当にいいんですか、と何度も美容師に聞かれたけれど、切ってくださいとお願いした。
長い髪が好きだと言っていたから伸ばしていただけだ。我ながら、小さな頃に言われた一言を大事にしてここまで伸ばしてたなんて、かわいらしいところもあるんだな。
幼い時に、隣の家のお姉さんによく遊んでもらっていた。お姉さんは黙っているとちょっと怖い顔なのだけれど、話すと途端にニコニコして親しみやすい表情をする。今思えば、緊張して母親の後ろに隠れる私に、しゃがんで笑いかけてくれた時から始まっていたのかもしれない。
『髪、長いね。伸ばしてるの?』
『うん。結ぶの可愛いから』
『そうだね、いろいろな髪型に結べるから可愛いよね』
『……長いの、好き?』
『うん、好きだよ』
お姉さんは長い髪が好きなんだ。お姉さんが好きな私でいたいな、なんて思った。
「後ろこんな感じです。短くなりましたね!お似合いですよ。今日はご両親にはショートにすること伝えてあるんですか?」
「……いえ、言ってません」
「じゃあきっと、帰ったらびっくりしますね」
「そうですね」
母はもういない。父と離婚して、出て行ってしまった。
私のせいだ。
あの日、ベッドの上で睦み合うお姉さんと母を見てしまった。絡んだ指には、オーダーメイドでこだわったんだよ、なんて自慢していた結婚指輪が光っていた。ドアの隙間から覗いて、お姉さんと目が合った。乱れた服と髪を整えもせず、私に目を弓形に細めて微笑んだ。母は多分、私に気付いていなかった。
私は父親に見たことをそのまま話した。それからしばらく経って、母はいなくなった。今はどこにいるのかも分からない。
私たちも引っ越してしまい、お姉さんとはそれっきりだ。
ああ、失敗した、なんてその時は思った。所詮子どもの浅知恵だ。
父は多分、私が無邪気に見たことをそのまま話したと思ってるだろう。幼い私に、他意があったとはまさか考えないだろうし。
だって初恋だった。父に言えば、母はお姉さんと引き離されると思った。そうしたら邪魔者はいなくなって、私はお姉さんと一緒にいれると思った。私まで引っ越してお姉さんと離れ離れになるなんて。まあ、当たり前か。
父も悩んだろうな。まさかまだ成人もしていない女子学生と自分の妻が関係を持つなんて。自分も娘がいながら、人様の子どもに手を出すなんて、常識的な父には考えられなかったはずだ。
結局何の噂も聞かなかったので、父は誰にも話さなかったのだろう。私の親権も、誰にも話さないことを条件に父が持つことになったのかもしれない。分からないけれど。
「ありがとうございました」
美容室の外に出て、ショーウィンドウに映る自分の姿を見る。母にそっくりだと言われるこの顔に、ショートヘアは似合っているのかよく分からない。記憶の中の母は髪が長かった。よく分からないけれど、もう切ってしまったのでどうしようもない。少し気に入らない前髪を指で整えて、歩き出す。
お姉さんとは離れてしまったけれど、通っている学校名と名前は分かっていたので、微かな情報は知ることができた。どうしても繋がりが欲しくて、高校はお姉さんが通っていたところを受験することにした。父がお姉さんの進路を知っているかどうかは知らない。ただ、そこは偏差値が高く進路も開けている学校だったので、無理な言い訳もせず、当たり障りのない志望理由を言えばすんなりと許可は出た。
高校受験に伴い、塾へ通うことも認められた。正直、通う必要はないと思っていたけれど、高校に入ってもきっと通うことになるだろうから、今のうちから探しておきなさいと言われ、渋々体験授業を様々な塾で受けた。どこも似たような授業で、もう通いやすさだけで決めようかな、なんて段々面倒になってきた頃だった。端の椅子に座り、授業開始時間を待っていても先生が来ない。少しだけ教室がざわつくと。慌てて先生が教室に入ってくる。背の高い、スレンダーな女性だ。涙袋にほくろがあって、垂れ目。目元だけ見れば優しそうなのに、整った顔立ちで口角が下がっているせいか、冷たそうな印象を受ける。
――お姉さんだ。すぐに分かった。最後に会ったのは何年前だろう。大人になったお姉さんの姿を何度も想像していたけれど、想像よりも何倍も、何百倍も素敵だ。ドキドキしている私をよそに、お姉さんはニコッと笑って授業を始めた。
塾はそこに通うことに決めた。お姉さんは人気の先生のようだった。美人な上に気さくで、授業も分かりやすい。面白いだけじゃなくて、緩んだ空気を厳しく叱る時もあるし、みんなの憧れの先生という感じだった。
変わってない苗字と、何も付けてない左手の薬指を見て安心もした。まあ、それだけじゃ恋人の有無も本当に独身かも分からないけれど。
ただ、高校生の部へ上がると個別授業があり、そこでの怪しい噂も聞いた。生徒に手を出してるんじゃないか、と。自分の担当の生徒の成績が上がればそれだけ評価も上がる。そうやって管理しているらしいと誰かが教室の隅で話していた。
馬鹿馬鹿しいと思った。そんなのすぐにバレて問題になるはずだ。ただ、生徒を褒めるときに少し首を傾げて微笑むその姿があまりにも蠱惑的で、そんな噂が出るのも納得かもしれない、と少し思った。
私は無事希望の高校に合格し、この春に晴れて高校生になった。塾は引き続き通い続け、個別授業も取ることにした。人気だからか、隔週でしか授業が取れなかったけれど、それでもとても幸せだ。
お姉さん、私のことを覚えているのかな、なんてドキドキしながら初回の授業を受けたけれど、覚えてなさそうだった。それもそうか。私もあの頃とは身長も何もかも違うんだし。
ただ、いつもよりも近い距離で、直接話せたことがとても嬉しかった。冷たく見えるいつもの表情から、ニコッと笑う顔がどうしようもなく好きだった。
「ん、先生の好み〜?ショートヘアの似合う人かな、アハハ」
キャーッと教室で数名の女子から黄色い声が上がった。何でそんなに盛り上がってるの、なんて苦笑いして授業を再開した。
もうそれも先週の話だ。
髪を切ったその足取りで、塾へ向かう。今日は個別の授業が入っている日だ。
ドアを開けて受付で挨拶して、今日の授業のブースを確認する。番号を確認して、席へ座る。しばらくして、プリントや筆記用具、ファイルを持ったお姉さんが現れた。
「ごめんごめん!前の授業が押してさあ……」
ドサッと席へ座り、ファイルを確認し始める。そして、ふと顔を上げた。
「……あれ、髪切った?」
「あ……はい」
恥ずかしくて、顔が見れない。私が前髪を押さえたまま顔を伏せているのを見て、無表情からフッと笑う。
「えー、ちゃんと顔上げて見せてよ。何?失敗しちゃった?」
「前髪がちょっとなんか、気に入らなくて」
「見せて?」
ドキリとする。私は手を下げて顔を上げる。お姉さんは左手で私の前髪に触れる。普段、そんなこと絶対にしないのに。脳裏に過ぎる、『生徒に手を出しているらしい』――
「…………」
「そんなに短くないよ?うん、似合う」
顔が赤くなるのを感じた。どうしよう、褒められたのに恥ずかしい。
そんな私を見て、ニコッと笑った。
お姉さんが私に触れる手が、前髪から頬に移動する。他の人に見られたらどうしよう。誰かがブースの前を通ったら、なんて思って、頬に触れる、ひやりと冷たい金属の感触に気付く。
お姉さんはスッと表情を無くして、私から手を離す。左手で頬杖を付いて、足を組んだ。指輪に唇が触れているように見える。
『オーダーメイドでこだわったんだよ、お父さんと2人でデザインを決めてね……』
あの日、絡んだ母の左手の薬指の、光を思い出す。
ああ、そっか。
「――急に髪を切るなんて、失恋でもしたの?」
お姉さんが笑って、弓形に目が細められる。
私は彼女の目を見つめた。
「……そうですね」
呟いて、もうそれ以上は何も言えなかった。
愛執 米田 @okomeyoneda
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