地下牢の戴冠式

そら

本文

――金も、地位も、力さえも。全てを奪い去った私が最後に辿り着いた、究極の愛の形。

 ああ、思えば随分と長い間、この滑稽な茶番に付き合わされてきた。だが、それももう終わりにしよう。


「さあ、始めよう。私と貴方の、二人だけの戴冠式を――」



 金色の長い髪を背中の中心で緩く結わえ、傷のある左の眉を覆うように垂れる前髪。傷はあれども彫りが深くどこか幼い顔立ちは、深い海の色の瞳も相まって、妖しい魅力があると言われた。

 豪奢なシャンデリアが放つ無機質で暴力的な光を、大理石の床が鏡のように反射している。その光の渦の中心で、私は「御子柴みこしば帝斗ていと」という一人の人間を完璧に演じていた。

 正体を見破られてはいけないという極限の緊張感が、己の背筋を伸ばしているのがよくわかる。

 御子柴帝斗という男が、いかに魅力溢れる人物であるか。それを、語るのは、政財界に隠然たる影響力を持つ老婆、通称『マダム』だ。彼女の喉から漏れる掠れた声は、まるで乾燥した砂が擦れ合うような不快な響きを伴っている。

 会場には、高価な香水が放つ上品な香りと、シャンパンの泡が弾ける微かな音が満ちていた。私は彼女に賛辞を贈られ、気恥ずかしさに頬を染めるような『照れ笑い』を演出し、殊勝に俯いてみせた。それが今現在の御子柴帝斗――すなわち、この私、狗飼いぬかい昂己こうきだ。


「本当に、帝斗様は素晴らしいお人だわ。若くしてこれほどの重責を担いながら、その謙虚さを忘れない。亡き先代も、草葉の陰でさぞお喜びでしょう」


 壊れたレコードのように同じ称賛を繰り返すマダムの口元は、塗り固められた紅の中で醜く歪む。蛇のような視線が私の肌を這い回り、仮面の下にある本質を抉り出そうと隙を伺っている。彼女の瞳には、かつての帝斗が持っていた「本物の傲慢さ」に対する渇望と、現在の私が見せる「計算された謙虚さ」への疑念が見え隠れするようだった。

 危うく仮面が剥がれそうになるのを、私は奥歯を噛み締めて、なんとか堪えた。

 連日続くレセプション。貼り付けられた笑顔。血の通わない祝辞。疲労はすでに限界に達し、視界の端では光の粒がチカチカと明滅している。私は優雅な仕草で口元を覆い、こっそりと欠伸を噛み殺す『ふり』をした。それは、退屈している帝斗を演じるための芝居であると同時に、剥き出しになりそうな自意識を必死に内側に閉じ込めるための唯一の、そして最善の抵抗であった。


 ようやく解放されたのは、日付が変わる頃。会場の外へ出ると、湿り気を帯びた重い夜風が吹き抜けていく。マダムの執拗なまでの寵愛を躱すのは、もはや職人芸の域に近い。カクテルを手に取る一瞬の隙にさえ彼女の視線がねっとりと絡みつき、もしかすると彼女は、私の皮の下に隠した『狗飼』という不浄な正体に気づいているのではないかとさえ思わされた。

 地下駐車場の冷え切った空気の中に、自分の足音だけが規則正しく響く。言い知れぬ恐怖と嫌悪の狭間で、ふとおかしくなり、喉の奥から乾いた笑いがこみ上げてきた。


(バカな。そんなはずがないだろう。あんな枯れ果てた老いぼれに、私の完璧な擬態が見破れるはずがない)


 顔も変えた。声も変えた。骨を削るような思いで、否、文字通り骨を削って、身長や体格さえも彼へと近づけた。脳内で高笑いする傲慢な自分と、それとは別に、冷静に「気を引き締めろ」と警笛を鳴らす自分。そんな二つの声が耳の奥で不協和音を奏でるようになったのは、一体いつからだったか。

 生憎と良心などというものは、帝斗をあの地下室に閉じ込めた日に捨てた。私が抱くのは、愛する『あの方』への――真の御子柴帝斗への、狂信的なまでの忠誠心ただ一つだ。


「全ては、あの方をお守りするために」


 虚ろな意識の中で辿り着いた家の前、車を降りて呟いた独り言が、冷たいコンクリートの壁に虚しく反響した。その直後のことだ。


「あの方って、誰のことかしら?」


 不意に背後から飛び込んできた、媚びを含んだ甘い女の声に背筋が凍った。

 水銀灯の青白い光が、淀んだ闇を中途半端に照らしている。その闇が形を成したかのように、長い黒髪を揺らして現れたのは九条鈴愛れいあ。御子柴帝斗の婚約者であり、九条財閥という温室に咲いた、猛毒を孕む花だ。

 彼女のドレスの裾が、アスファルトの上で衣擦れの音を立てる。鈴愛は鋭い視線で私を射抜き、無遠慮に私の胸元のチーフへと、白く細い指を伸ばしてきた。


「鈴愛……なぜまだここにいるんだ。パーティーはもうとっくに終わったはずだろう」

「なぜって。貴方の体調を心配しただけよ。今日の貴方、どこか上の空だったでしょう? ……まるで、中身がどこかへ行ってしまったみたいに」


 彼女はクスリと笑い、チーフの形を整えるふりをして、そのまま私の心臓の鼓動を確かめるように掌を押し当ててきた。私は、この女がひどく苦手だ。愛があればその我儘も可愛げになるのだろうが、私にとって彼女は、私の守るべき静寂を掻き乱す『害悪』でしかない。

 絡みつく細い腕。押し付けられる柔らかな体温。微かに香るのは、甘美でありながらも触れることを許さない、猛毒を孕んだ百合の匂い。


「ねえ、今日は冷えるわ。私も家の中に入れてくれない? それとも、『あの方』がいては私はお邪魔かしら?」


 冷酷な嫉妬を含んだその響き。彼女の瞳の奥に、くらい光が灯る。どうやら私の正体よりも、自分以外の何者かに心を奪われている(と彼女が思っている)ことへの苛立ちのようだ。だが、その執着は同時に、私の偽装を突き抜けてくる鋭さを持っていた。


「最近の貴方、前よりもずっと『帝斗様』らしいわ。隙がなくて、完璧で……まるで、誰かが作り上げた最高級の人形みたい」


 彼女の言葉はあまりに鋭く、熱を持った針のように鼓膜から脳までを焼き尽くす。正体を見破っているのか、それとも単なる皮肉なのか。彼女の唇の端に浮かぶ笑みは、どちらとも取れる危うさで揺れている。

 私はなんとかそれを皮肉であると信じ込み、彼女の華奢な肩を抱き寄せた。指先に伝わる体温は嫌に生々しく熱くて、ひどく汚らわしいものに感じられたが、それを表に出すわけにはいかない。胃の腑を不気味に撫で回すような不快感を、甘い愛の言葉という名の泥で塗り潰す。


「家の掃除が行き届いていないんだ。今の惨状を見られたら、君に嫌われてしまう。恥ずかしいから見せたくないんだよ」

「あら、優秀な家政婦が何人もいるでしょう? 彼女たちにやらせればいいじゃない」

「いや、君以外の女を家に上げるものか。たとえ家政婦であってもね」


 喉が焼けるような甘言を吐くと、彼女は満足げに、蕩けたような表情で身を寄せてきた。だが、その瞳は笑っていない。私を試すように、じっと私の瞳孔の動きを追っている。

 その直後。彼女はすん、と小さく鼻を鳴らして私の首筋に顔を寄せた。


「貴方、香水の趣味が変わったのね。なんだか……酸味のある、嫌な香りだわ。……まるで、内側から腐りかけているみたい」


 心臓が跳ねた。おそらくそれは逆流した胃酸の臭いに違いない。

 過度のストレスと不規則な生活。そして、この『偽物の生活』がもたらす内臓への過度な負担。私の肉体は、とっくに悲鳴を上げていたのだ。彼女の鼻腔に届いたのは、気品あるフレグランスなどではなく、嘘を重ね続ける男の腐敗臭とも呼ぶべきものだった。

 私は反射的に彼女の体を突き飛ばすように離し、目を丸くする彼女を鋭く睨みつけていた。


「な、何よ、急に」

「……すまない。今日はもう、帰ってくれ。酔いすぎて、ひどく醜い姿を見せそうだ。これ以上、君に情けないところを見せたくないんだ」


 私は口元をハンカチで強く押さえ、弱ったふりをして視線を地面に落とした。その屈んだ姿勢さえ、帝斗がかつて『見苦しいものを見た時』に見せた拒絶の型をなぞる。

 影が長く伸び、私の足元から闇へと溶け込んでいく。鈴愛は不服そうに唇を尖らせ、しばらくの間、無言で私を観察していた。その沈黙は、彼女が私の正体を確信し、それをどう料理するか思案している時間のように感じられ、冷や汗が背中を伝った。

 最後には、彼女は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。


「……いいわ。今日はその『情けない姿』に免じてあげる。でも、忘れないでね。偽物が本物よりも完璧に振る舞う時、それはもう『偽物』ですらない。ただの、中身のない空虚な器よ。……いつまで、その空っぽの器の中に『彼』を閉じ込めておけるかしら?  ――ねえ、狗飼くん」


 心臓が止まるかと思った。だが、彼女はすぐに「なんてね、冗談よ。帝斗様」と、鈴を転がすような声で笑った。その響きには、甘さなど微塵もなかった。ただ、弱った獲物を追い詰める捕食者の愉悦だけが、冷たく澄んで響いていた。


 彼女を乗せた黒塗りの車が、アスファルトを滑るように去っていく。テールの赤色が夜の闇に吸い込まれ、完全に見えなくなるまで、私はその場に立ち尽くした。

 エンジン音が遠ざかり、再び静寂が戻る。私は、張り付けた笑顔を剥がれ落ちるままにした。表情筋が強張り、顔が泥のように重い。

 ようやく、まともな呼吸ができる。私は肺に溜まった濁った空気を吐き出し、代わりに夜の澄んだ冷気を深く吸い込んだ。




 私は逃げるように屋敷の重厚な門をくぐり、砂利道を急いだ。月明かりに照らされた庭園では、手入れの行き届いた植物たちが、意思を持たぬ守護者のように幽霊めいて佇んでいる。

 玄関ホールに入り、指紋認証を解除する。電子音が静かな空間に響き、厳重なロックが解かれた。扉を閉じると、私の臓腑をかき混ぜる光と騒音の記憶は全て遮断された。


 廊下を進み、リビングの端にある重厚な本棚の前で立ち止まる。本棚の隙間に隠されたセンサーが私の網膜と指紋をスキャンし、壁の一部が滑らかに沈み込んだ。

 一段、また一段と階段を降りるたび、私はネクタイを緩めて、『帝斗』のボタンを外していく。重い革靴を脱ぎ捨て、冷たい床の感触をダイレクトに拾い上げる。ゆっくりと歩みを進めれば、自然と顔が綻んでいく。


 最下層に辿り着き、分厚い防音扉を押し開ける。そこには、無機質な医療機器の電子音だけが規則正しく鳴り響いていた。空気は一定の温度と湿度に保たれ、微かに漂うのはオゾンと、そして死を先送りにするための薬品の匂いだ。


 中央に設置されたベッドの上には、薄いシーツに包まれた男が横たわっている。

 彼こそが真の御子柴帝斗、その人だ。


「ただいま戻りました、帝斗様」


 私はベッドの傍らに跪いた。彼の冷たく細い手を握り、凍えた指を温めるように、祈りの仕草で自らの口元へと運ぶ。


「今日はひどく冷えましたね。すぐに温めて差し上げます。……ええ、貴方が望まなくても、私はそうするのです」


 かつての彼の傲慢なまでの物言いが、沈黙の中から聞こえてくる気がした。


『気持ちの悪いことをするな、汚らわしい』


 脳裏で再生されるその声に、背徳的な愉悦を覚えた。私はかつて、その声によって魂を削られ、同時にその声によってのみ己の存在を定義されていたのだ。


 かつて全てを奪われようとした私が、逆に彼の全てを奪い、彼に成り代わって人生を浪費している。この反転した支配構造こそが、私の生きる唯一の糧であった。


「今日もマダムは相変わらずでしたよ。あの壊れたカセットテープのような無意味な賛辞。……ふふ、貴方であれば、きっとあの方の喉を掴んで黙らせていたことでしょう。ですが、今の私は『完璧な貴方』を演じなければならない。あんな老婆にさえ、最高の微笑みを振りまいてきたのですよ。褒めてはくださらないのですか?」


 返答はない。ただ、人工呼吸器がシュウ、シュウと、虚しいリズムで空気を送り込んでいる。

 私は棚に大切に保管している宝箱を開けて、古い銀の冠を取り出した。それは、幼い帝斗が学園の演劇祭で、たった一度だけ被った安っぽい玩具だ。


「……そういえば。鈴愛が、貴方の名を呼びましたよ」


 冠を撫でる指が、微かに震える。


「彼女は賢い。あるいは、毒蛇のような嗅覚を持っている。私のことを『狗飼くん』と呼びました。……ええ、もちろん冗談のつもりでしょう。ですが、あの女は気づいているのではないか。鏡の中にいるのが、本物の『王』ではないということに。……でも、安心してください。彼女がどれほど足掻こうとも、貴方をこの暗闇から連れ出すことなどさせない。貴方を、誰の目にも触れさせはしない」


 私は震える手で帝斗の前髪を整えた。この震えは、正体が見破られる恐怖によるものか、それとも、世界で自分だけが彼を所有しているという独占欲からくるものなのか。

 私は目を閉じ、十年前の、あの泥濘のような日々を思い出す。


――始まりは、御子柴ホールディングスの最上階。

 当時、二十代半ばだった私は、社内で「精密機械」と呼ばれる秘書だった。

 だが、その機械の中身は、借金に狂った両親という名の錆に食い荒らされていた。給料日は、親という寄生虫に血を分け与える日だった。どれほど有能であっても、私の人生は底の抜けた桶と同じ。満たされることのない絶望だけが、私の正体だった。


 そんな私の「無機質な完璧さ」を最も憎んだのが、帝斗だった。


「お前には、血が通っていない。ただの便利な道具だ。道具の分際で、父上の信頼を勝ち取ったつもりか?」


 彼は私を呼び出しては、灰皿を投げつけ、徹夜で仕上げた資料をシュレッダーにかけた。公衆の面前で、私の家柄や親の不始末を揶揄し、私の尊厳を、磨き上げられた革靴の先で踏みにじった。

 私は、そのたびに無表情で頭を下げるだけだった。だが、その記憶は、一滴一滴、毒のように私の心臓の奥に溜まっていったのだ。


 そして、あの運命の非常階段。

 突き落とされそうになった瞬間、彼を襲った『呪い』。

 崩れ落ちた彼の身体を抱き起した時、私は初めて、彼が自分と同じ「憐れな存在」であることを知った。御子柴の血という名の、不治の病。彼は、父の期待と、避けられぬ発症の恐怖に怯える、ただの臆病な子供に過ぎなかったのだ。


『昂己、帝斗に成り代わってくれ』


 先代社長の懇願は、私にとって救済だった。  私は自らの顔を捨て、声を捨て、過去を捨てた。

 何度も整形手術を繰り返し、術後の腫れ上がった顔を鏡で見るたび、私は歓喜した。「狗飼昂己」という忌まわしい男が、少しずつ死んでいく。代わりに、自分を虐げた男の姿が、自らの肉体に宿っていく。


 帝斗の声を再現するために、彼の過去の演説や暴言を数千回、数万回と聴き込んだ。彼の筆跡を真似るために、右手の感覚がなくなるまでペンを握り続けた。

 それは、愛などという生温いものではない。

 執拗なまでの侵食だった。


「……ああ、帝斗様。貴方は今、幸せですか?」


 私は再び現在の地下室に戻り、彼の青白い額に銀の冠を乗せた。

 安っぽい玩具の重さだけが、彼の存在を現実に繋ぎ止めている唯一の錨のように感じられる。

 私は彼の指先を取り、それを自分の首に回させた。自らの手で彼の腕を動かし、自分の喉を絞めさせるように、ゆっくりと力を込める。


「……もっと。もっと強く、私を否定してください。昔のように、その冷たい言葉で私を罵って……。今の私は、貴方よりも貴方らしく、この世界を支配していますよ」


 苦し紛れの呼吸が、部屋の静寂を乱す。視界が赤く染まり、意識が遠のく中、私はかつての帝斗が持っていた熱を、確かに感じた。

 私を殺そうとしたあの夜の、激しい殺意。私を見下していた、あの傲慢な瞳。それらは今、全て私の内側にある。

 外側には御子柴帝斗という偶像を置き、内側には帝斗への呪いと執着を抱いた狗飼昂己を隠す。この歪な生活こそが、私の全てだ。


 私は、彼の指先を離し、床に倒れ込んだ。激しく咳き込みながら、私は笑う。鈴愛が気づこうが、マダムが疑おうが、関係ない。

 本物の彼は、この地下深く、私の元でしか生きられないのだから。


「おやすみなさい、私の王。明日もまた、貴方のために、私は『貴方』を殺して参りましょう」


 私は、彼の手の甲に最後の一口づけを落とした。

 その冷たさは、どんな愛の言葉よりも深く、私の魂を呪縛し、そして満たしてくれた。この静寂こそが私の永遠であり、誰にも侵されない証のはずだった。


――だが、その微かな安寧を、不協和音が切り裂いた。


 いつも部屋を満たしている、規則正しい人工呼吸器の駆動音。それが、ふいに喘ぐような異音を立て、不規則なリズムを刻み始めている。  私は慌ててモニターを仰ぎ見た。血圧、心拍、酸素飽和度。全ての数値が、緩やかに下がっていくのだ。


「帝斗様……? 嘘だ、冗談はやめてください」


 私は彼の細い肩を掴み、激しく揺さぶった。彼の身体は、驚くほど軽くなっていた。十年という歳月、私が彼の人生を謳歌している間に、彼は静かに、着実に、死へと向かっていたのだ。


「目を開けてください! まだ、私は貴方に何も返していない! 貴方が私を罵り、私を壊してくれなければ、私は……私は誰でもなくなってしまう!」


 アラームが鳴り響く。無機質で残酷なその音は、私の正体を告発する断罪の鐘のようだった。

 私は狂ったように蘇生措置を試みた。かつて彼が私を殴りつけたその胸を、今度は私が、彼の命を繋ぎ止めるために叩きつける。その衝撃が伝わるたび、彼の肋骨が脆く軋む音がした。


 そして、唐突にその時は訪れた。


――ピー、という長い電子音。


 それは、世界で唯一、私を「狗飼昂己」として憎んでくれた男が、この世から完全に消滅した合図だった。


「……帝斗様?」


 私は、彼の青白い顔にそっと手を触れた。温もりなどない。ただ、氷のように不自然に冷たいだけの、塊。

 私は、床に落ちた銀の冠を手に取り、彼の額に乗せた。冠は傾き、無造作に床へと転がり落ちた。金属の乾いた音が、静寂を嘲笑う。彼を繋ぎ止めておくものも、私を繋ぎ止めておくものも。

 一気に、崩壊した。


「ああ……ああああああ!」


 私は喉が裂けるほどの悲鳴を上げた。

 彼が死んだことが悲しいのではない。彼という真実を失ったことで、私の存在意義がなくなったことが悔しいのだ。帰る場所を失ったことが悲しいのだ。鏡を見て御子柴帝斗の顔を確認しても、その中身がこの私一人では意味が無い。私は、世界に取り残された、名もなき亡霊へと成り果てた。


「帝斗様……私は……私、は……」


 返るはずのない声を求め、私は彼の亡骸に縋りついた。鈴愛が囁いた「狗飼くん」という名が、呪いのように脳内で反響し、剥がれ落ちた帝斗の仮面を粉々に砕いていく。捨てた名前を取り戻すには、その姿をもう一度装うには。

 あまりに私は変わりすぎてしまった。


 それからの時間の感覚を、私は失った。

 気がつくと、私は帝斗の亡骸の隣に横たわっていた。腐敗が始まっているはずのその身体を、私は狂おしいほどに抱きしめる。死臭さえも、彼が遺したものだと思えば、愛おしささえ感じられた。


 私は、ふと医療用のメスを手に取って、刃を指で撫でてみた。

 痛みはない。あるのは、血を流した先にあるものへの狂気じみた陶酔だけだった。


「ふふ……あはははは! 見て、見てよ、帝斗様! もうすぐ、きっともうすぐ!」


 私は途端に幸福に満たされたようで、あるいは不幸のどん底に叩きつけられたようで。

 具体的な答えなど出せぬままに、己の体を傷付けた。



──数日後、あるいは数週間後。重厚な防音扉が、外側から強引に破壊された。光の中に立っていたのは、九条鈴愛だった。彼女は、異臭と血の海に沈む地下室を一瞥し、扇子で鼻を覆った。


「あら。案外、早かったのね、狗飼くん」


 嘲笑してみせる彼女の目には、腐臭を放つ二つの死体が、否、一つの死体と一人の男が映っていた。


「憐れな人。罪に溺れるから、幸福が逃げていくのよ」


 まるで関心をなくしたように、彼女はそんな言葉を残して、去っていった。

 元より彼女に、帝斗への愛など、ましてや昂己への愛などが、存在したことなどなかったのかもしれない。

 毒の花はただ凛と咲き、地を這う虫けらなどには目もくれないものだから。


――御子柴帝斗は、死んだ。

 そして狗飼昂己もまた、その死体と共に、緩く朽ちゆくことを決めた。

 子供のようにあどけなく繰り返された二人だけの戴冠式は、もう終わってしまった。

 残されたのは、空の玉座と、地下室で腐りゆく、二つの哀れな影だけだった。

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