短編小説 『輪廻』
夢夢夢
輪廻
放課後の教室は、沈みゆく太陽が放つ最後の残光によって、毒々しいまでのオレンジ色に染め上げられていた。窓際で舞う埃は、まるで金粉のように美しく、これから起きる凄惨な出来事を祝福しているかのようだった。
美月は、その光の中で、自身の指先を見つめていた。
右手の筆箱の中には、銀色に光るカッターナイフがある。それを引き抜く時のカチカチという無機質な音が、彼女の鼓動を軽やかに昂ぶらせた。
視界の先には、愛しい瀬戸くん。そしてその隣で、彼の袖を引いて笑う陽葵の姿。
陽葵が瀬戸くんの耳元で何かを囁き、彼が楽しげに声を上げて笑う。そのたびに、美月の胸の奥で、どろりとした黒い衝動が鎌首をもたげた。
(……ああ、やっぱり。あの女、いらないなあ)
美月は、まるで消しゴムでも借りにいくような無造作な足取りで、二人の背後へと歩み寄った。
彼女にとって、人を殺すことは罪でも何でもなかった。それは、書き損じたノートを破り捨てるのと同じ、日常的な「調整」に過ぎない。
どうせ後で、時間を戻して「なかったこと」にするのだ。今の自分の行動がどれほど残虐であろうとも、数分後にはこの世からその痕跡は消え去る。自分だけが知っている秘密の快楽。彼女にとって、この世界は自分だけが全権を握る、責任の伴わない箱庭だった。
「ねえ、陽葵さん」
美月の呼びかけに、陽葵が不思議そうに振り返る。その白く細い首筋が、夕陽を浴びて透き通るように輝いた。
美月は、躊躇なく刃を突き立て、真横に引き抜いた。
「……え?」
陽葵の声は、喉から溢れ出した熱い鮮血に飲み込まれた。
噴き出した赤が、瀬戸くんの頬に、シャツに、そして美月の頬に、温かい飛沫となって飛び散る。
「う、うわああああああ!!」
静寂は一瞬にして崩壊した。瀬戸くんが悲鳴を上げ、膝から崩れ落ちる陽葵を必死に抱きしめる。床には瞬く間に巨大な血溜まりが広がり、甘ったるい鉄の臭いが教室を満たしていく。逃げ惑う生徒たちの悲鳴が廊下に響き渡った。
(うん、いい顔。陽葵のそんな絶望した顔、見たかったんだ)
美月は満足げに目を細めた。返り血を拭うことさえせず、恍惚とした表情で、これまで何百回と繰り返してきた「神の呪文」を口にする。
「『輪廻(リセット)』」
唱えれば、世界は反転し、自分は今朝のベッドの上で清々しい目覚めを迎えるはずだった。
……けれど、何も起きない。
「……え? ……『輪廻』!」
美月は眉をひそめ、もう一度唱えた。しかし、網膜に焼き付いた鮮血の赤は消えず、目の前の瀬戸くんの泣き叫ぶ声は止まらない。一秒、また一秒。残酷に「未来」だけが刻まれていく。
「戻れ! 戻りなさいよ! なんで、いつもは戻れるのに!!」
美月の焦燥は、瞬く間に狂気へと変わった。血まみれのナイフを握りしめたまま、地団駄を踏んで叫ぶ。
その時、廊下から複数の足音が近づき、ドアが乱暴に蹴開けられた。駆けつけた教師たちが、凄惨な光景を目にして絶句する。
「……美月、お前、何を……」
「違うの、これ、戻るから! すぐ消えるから見てて! ほら、『輪廻』!!」
美月は自分を包囲する生徒たちのスマホのカメラに向かって、狂ったように自白を始めた。
「何よその目! 陽葵さんだって、今さっき死んだのが初めてだと思ってんの? もう何十回も殺してるわよ! 階段から突き落としたり、給食に毒を入れたり、細かく切り刻んだり! そのたびに私はやり直して、あの子が何も知らずに笑ってる顔を見て楽しんでたのよ! それが私の特権なのよ!」
廊下を取り囲む野次馬から悲鳴が上がる。彼女が口にしているのは、この世のものとは思えない精神異常者の戯言だった。
警察官たちに組み伏せられ、床に顔を押し付けられても、美月は喚き続けた。
「戻してよ! お願い、やり直させて! 私はただ、最高のシチュエーションで瀬戸くんに告白したかっただけなの! こんな、人殺しとして終わるはずじゃなかったのよ!!」
パトカーに乗せられ、閉ざされた車内で、彼女は全存在を懸けて祈った。
これまでの人生で一度も経験したことのない、本当の「終わり」への恐怖。
そして、パトカーが走り出そうとしたその瞬間――。
「『輪廻(リセット)』ぉぉぉぉぉぉぉッ!!!」
その刹那、視界が強烈な白い閃光に包まれた。
脳を掻き回されるような浮遊感と、耳を裂くようなノイズ。
(――あ! 戻った!)
美月は歓喜した。やっぱり私は選ばれた存在なんだ。神様が、最後にもう一度だけチャンスをくれたんだ。
今度こそ戻ったら、カッターナイフなんて捨てよう。陽葵に優しくして、瀬戸くんの隣で微笑む完璧な少女になろう。
光が収まり、ゆっくりと視界が開けていく。
最初に感じたのは、心地よいベッドの感触……ではなかった。
「……ひ、陽葵……? 美月、お前、何を……」
震える瀬戸くんの声。
鼻を突く、吐き気のするような鉄の臭い。
美月が目を見開くと、そこには首を押さえて血溜まりに沈む陽葵がいた。
自分の右手には、真っ赤に染まったカッターナイフ。
そして、教室のドアを開け、今まさに絶句して立ち尽くす教師たちの姿。
「……え?」
戻った。確かに、時間を遡った。
けれど、戻った先は「今朝」ではない。
**「陽葵を殺害した、わずか一分前」**の地点だった。
「違う……。違うの、もっと前! もっと前に戻してよ!!」
美月は血まみれの手で自分の髪をかきむしり、狂ったように叫んだ。
「『輪廻』! 『輪廻』!! 『輪廻』!!!」
しかし、世界は微動だにしない。
能力の残光は完全に消え失せ、時間は再び冷酷に進み始めた。
彼女がどれだけ願っても、もう「殺す前」には戻れない。
何度叫んでも、この血の臭いも、瀬戸くんの軽蔑に満ちた瞳、悪魔を見る様な瞳も、これから一生続く地獄の刑罰も、すべてが「確定した現実」として彼女を逃がさない。
美月の能力が最後に提示した終着駅は、彼女の人生が最も無残に、そして取り返しがつかないほどに破滅した、その瞬間の永遠のループだった。
「あ、あ、ああああああ……っ!!」
夕暮れの教室に、少女の枯れた悲鳴が響き渡る。
それは、二度と書き換えられることのない、彼女の終わりを告げる合図だった。
短編小説 『輪廻』 夢夢夢 @yumeyumeyume12
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