偽りの聖域で君は堕ちる 〜冤罪で恋人に裏切られた俺が、真実の弾丸で全てを撃ち抜くまで〜
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第一話 黄昏のシャッター、偽りの始まり
乾いたシャッター音が、夕暮れのグラウンドに小さく響く。
俺、天羽奏太(あもう そうた)は、愛用のデジタル一眼レフを構え、ファインダー越しに世界を切り取っていた。被写体はただ一人。風を切ってトラックを駆ける、俺の恋人。
砂塵を巻き上げ、しなやかなフォームでゴールラインを駆け抜ける栗色のポニーテール。その動きに合わせて、俺は夢中でシャッターを切り続ける。息を切らしながらも満足げな笑みを浮かべる彼女、星詠瑠奈(ほしよみ るな)の姿は、どんなモデルよりも輝いて見えた。
「奏太ー! お待たせ!」
練習を終えた瑠奈が、タオルで汗を拭いながらこちらへ駆け寄ってくる。夕日に照らされた彼女の頬は、練習の熱か、それとも夕焼けの色か、ほんのりと上気していた。
「お疲れ、瑠奈。今日もすごかったな。自己ベスト、また更新したんじゃないか?」
「えへへ、分かっちゃう? ちょっとだけね。奏太が撮ってくれてると、いつもより頑張れる気がするんだ」
そう言ってはにかむ瑠奈は、校内のアイドル的存在だ。陸上部のエースとして常に注目を集め、その明るく屈託のない性格は誰からも好かれている。そんな彼女が俺の恋人だなんて、いまだに時々、夢なんじゃないかと思うことがある。
「ほら、今日のベストショット」
カメラの液晶画面を見せると、瑠奈は「わあ、すごい!」と目を輝かせた。そこに写っているのは、ゴール直前、勝利を確信した一瞬の、真剣で、そして美しい横顔だった。
「この写真、もらってもいい? 今度の大会のお守りにしたいな」
「もちろんだよ。いくらでもやる。俺の写真は、全部瑠奈のためにあるんだから」
中学三年で付き合い始めて、もう二年半。俺の世界は、いつも瑠unaを中心に回っていた。彼女の笑顔を撮るためなら、どんなことでもできる。本気でそう思っていた。この幸せな日常が、永遠に続くものだと、疑いもしなかった。
帰り道、二人で並んで歩く。他愛もない話をしながら、時折触れ合う手が心地いい。いつも通りの、穏やかな時間。そのはずだった。
「そういえばね、奏太。今日、神凪先生に新しい練習メニュー組んでもらったんだ! これがすっごく合理的で、私にぴったりで……」
瑠奈がうっとりとした表情で語り始めたのは、陸上部顧問である神凪雅臣(かんなぎ まさおみ)のことだった。最近の瑠奈の口からは、やたらと彼の名前が出てくる。
「先生って本当にすごいの。私の走りの癖とか、ちょっとした体調の変化とか、全部お見通しなんだよ。まるで神様みたい」
神様、か。
俺は瑠奈の横顔を見ながら、内心で苦いものを感じていた。神凪雅臣。爽やかなルックスと熱心な指導で、生徒だけでなく保護者からの信頼も厚い、絵に描いたような熱血教師。だが、俺にはどうしても、あの男の完璧すぎる笑顔の裏に、何か得体の知れない冷たさを感じてしまうのだ。
「……そんなにすごいのか、その先生は」
「うん! 私が全国に行けるって、本気で信じてくれてるの。先生のためにも、絶対結果出さなきゃって思う」
瑠奈の目は、夢見るように輝いていた。その純粋な瞳を見ていると、俺の抱く黒い感情が、ただの嫉妬心からくる醜いもののように思えてきて、何も言えなくなってしまう。瑠奈が心から尊敬する相手を、俺が疑う権利なんてない。そう自分に言い聞かせた。
その時だった。
前方から、目的の人物が歩いてくるのが見えた。ジャージ姿の神凪だ。彼は数人の生徒に囲まれ、にこやかに何かを話している。そして、俺たちに気づくと、完璧な笑顔をこちらに向けた。
「お、星詠じゃないか。と、天羽くんも。今日も練習の撮影か。熱心だな」
瑠奈はぱあっと顔を輝かせる。
「先生、お疲れ様です! 今日のメニュー、最高でした!」
「ああ、君ならこなせると思ったよ。次の大会が楽しみだ。期待しているよ、私のエース」
神凪はそう言って瑠奈の頭を優しく撫でた。瑠奈は子犬のように嬉しそうに目を細める。その光景に、俺の胸がチリッと痛んだ。そして、神凪が俺とすれ違う瞬間、彼は瑠奈には聞こえない、俺にだけ聞こえる声で囁いた。
「……部外者は、あまり彼女の集中を乱さないでくれたまえ。君の自己満足のために、彼女の未来を潰されては困る」
ぞくり、と背筋に冷たいものが走る。声は穏やかだったが、その目に宿る色は、紛れもない敵意と軽蔑だった。俺が何か言い返す前に、神凪はもう生徒たちとの談笑に戻っていた。
「どうしたの、奏太? ぼーっとして」
「……いや、なんでもない」
瑠奈は何も気づいていない。彼女にとって、神凪は絶対的な善であり、指導者だ。俺が感じたあの男の闇を話したところで、信じてもらえるはずがない。それどころか、俺が彼に嫉妬しているだけだと思われるのがオチだろう。
胸の中に生まれた小さな亀裂に気づかないふりをして、俺は瑠奈の隣を歩き続けた。
その数日後、俺たちの日常は、唐突に、そして暴力的に破壊された。
朝のホームルーム。担任が神妙な顔で教壇に立ち、重々しく口を開いた。
「皆に残念なお知らせと、注意喚起がある。昨日、体育教官室から陸上部が使用する高価なスポーツ機材が盗まれた。金額にして、三十万円相当だ」
教室が、一瞬にして騒然となる。三十万。ただの悪戯で済まされる額ではない。
「警察にも連絡済みだが、まずは内部での調査を行う。もし、何か心当たりがある者は、正直に申し出てほしい」
生徒たちは顔を見合わせ、ひそひそと囁き合っている。犯人は誰だ、外部の犯行じゃないのか。そんな声が飛び交う中、教室の後ろのドアが静かに開いた。入ってきたのは、陸上部のジャージを着た神凪だった。その顔には、深い悲しみと疲労の色が浮かんでいる。
「神凪先生……」
クラスにいる陸上部員が、心配そうな声を上げた。
神凪はゆっくりと教室を見渡し、担任に小さく頷くと、まっすぐにこちらへ向かって歩いてきた。一歩、また一歩と近づいてくる彼の足音だけが、やけに大きく響く。どうして、俺の方へ?
クラス全員の視線が、神凪の動きに合わせて俺に突き刺さる。居心地の悪さに身じろぎした、その時。神凪は俺の机の横でぴたりと足を止め、痛ましげな表情で俺を見下ろした。
「天羽くん。……少し、君のロッカーの中を見させてもらってもいいだろうか」
頭が真っ白になった。何を言われているのか、理解が追いつかない。
「え……? なんで、俺のロッカーを……」
「いいから。少し、協力してくれ」
有無を言わさぬ口調。抵抗する間もなく、俺は神凪に腕を引かれ、教室後方のロッカーの前まで連れて行かれた。クラスメイトたちの好奇と侮蔑が入り混じった視線が、背中に突き刺さって痛い。
「開けてくれ」
言われるがままに、自分のロッカーの扉を開ける。中には教科書と、放課後に現像しようと思っていた写真のデータが入ったハードディスク。いつもと変わらない、俺のロッカーだ。
しかし、神凪はためらうことなくロッカーの奥に手を伸ばし、教科書の山の中から何かを取り出した。
それは、黒い布に包まれた、ずしりと重い金属の塊。神凪がその布を剥がすと、現れたのは精密なレンズが取り付けられた、見慣れない機材だった。
「……これだ。盗まれた高速度カメラだ」
神凪の静かな声が、シンと静まり返った教室に響き渡る。
クラスメイトたちの間から、「え、うそ」「まじかよ……」という囁きが聞こえてくる。それはやがて、明確な非難のどよめきへと変わっていった。
「違う! 俺じゃない! なんでこんなものが俺のロッカーに……俺は何も知らない!」
必死に叫ぶが、誰も聞いていない。担任は呆れたように溜息をつき、神凪はまるで裏切られた悲劇の主人公のような顔で、俺の肩に手を置いた。
「天羽くん……どうして、こんなことをしたんだ。君が写真に熱心なのは知っていた。だからといって、こんな……。正直に話してくれれば、先生も君のために一緒に頭を下げてやったのに」
違う。違う。これは罠だ。こいつが仕組んだんだ。
そう叫びたかったのに、喉が張り付いて声が出ない。クラスメイトたちの視線が、ナイフのように俺を切り刻む。昨日まで笑い合っていたはずの友人たちが、「最低だな」「サイテー」「瑠奈ちゃんが可哀想」と口々に俺を罵っている。
世界が歪んでいく。音が遠くなる。そんな中、俺は最後の希望を託して、彼女に視線を向けた。
瑠奈。お前だけは、信じてくれるよな。俺がそんなことをするはずないって、お前が一番よく分かってるはずだ。
瑠奈は、わなわなと唇を震わせ、大きな瞳に涙を溜めていた。その瞳が映しているのは、俺への信頼ではなかった。失望と、軽蔑と、そして裏切られたという怒りの色だった。
やがて、彼女の唇から、俺の世界を完全に終わらせる言葉が紡がれる。
「どうして……? 神凪先生は、私たちのために、あんなに頑張ってくれてるのに……! 奏多くんのせいで、大会前の大事な時期に、全部めちゃくちゃだよ!」
違うんだ、瑠奈。聞いてくれ。
「最低……。あなたのこと、信じてたのに……。もう顔も見たくない!」
その言葉は、鋭利なガラスの破片となって、俺の心臓に突き刺さった。ぐしゃり、と音を立てて何かが壊れる。ああ、そうか。俺が信じていた世界は、初めからこんなにも脆い砂上の楼閣だったのか。
結局、俺の弁明は誰の耳にも届かず、その日のうちに停学処分が言い渡された。職員室でも、神凪を盲信する教師たちによって、俺は一方的に犯罪者として扱われた。誰も、真実を見ようとはしなかった。
ふらふらと家に帰り着き、自分の部屋に閉じこもる。スマホには、クラスのグループチャットから絶え間なく通知が届いていた。俺を罵る言葉の弾幕。ブロックしても、すぐに別の場所から悪意が飛んでくる。世界中が、俺の敵になったかのようだった。
震える手で、SNSを開いてしまう。一番見たくない、けれど確認せずにはいられない、彼女のアカウントを。
そこには、数時間前に投稿されたばかりの写真があった。
泣き腫らした顔の瑠奈が、神凪に肩を抱かれて寄り添っている。そして、添えられた言葉。
『色々あって落ち込んでたけど、先生が話を聞いてくれました。私が間違ってなかったって言ってくれて、本当に救われた。やっぱり先生がいてくれてよかった。明日からまた、頑張ります』
写真の中で、瑠奈は神凪に全幅の信頼を寄せた、どこか陶酔したような表情を浮かべていた。俺がファインダー越しに追い求めていた、あの太陽のような笑顔はどこにもない。
怒りか、悲しみか、それとも絶望か。分からない感情の奔流が、俺の全身を駆け巡る。握りしめたスマホが、ミシリと嫌な音を立てた。こいつらを、許さない。俺から全てを奪ったあの男と、いとも簡単に俺を裏切ったこの女を。絶対に。
スマホを壁に叩きつけようと腕を振り上げた、その瞬間。
画面に、一件の通知がポップアップした。それは、どのグループにも属さない、個人からのダイレクトメッセージだった。
差出人の名前には、見覚えがあった。クラスの隅でいつも静かに本を読んでいた、ほとんど話したこともない女子生徒。
『月読 栞(つくよみ しおり)』
そして、そこに表示された短い文章に、俺は動きを止めた。
『天羽奏太くんへ。もしあなたが本当に無実で、神凪雅臣に復讐したいなら、力を貸します』
絶望という名の闇に閉ざされた俺の世界に、そのメッセージは、細く、鋭く、一条の光のように差し込んできた。俺は、その画面をただ呆然と見つめていた。
次の更新予定
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