わたしたち愚かな者
Wall Gatsby
わたしたち愚かな者
あなた、と呼ばれて数年、連れ添ってきた夫人に別れを告げた。
今日というこの日、私はついに一人になった。
もうだめかもしれない、と思っていたが、まだ間に合った。というのも、妻はヘルニアを患っていて、手術をしなければならなかったものの、その費用が莫大なのだ。私にはそんな大金を払う余裕も、妻に付き添って看病するつもりも、さらさら無かった。妻とそのことについて語るにつけて、思ったものだ。彼女はもうだめかもしれない、と。これは二つの意味にとれる。もう治療の見込みが無くてだめかもしれない、というのと、こんな心持ちの私と共に連れ添っていくのは、もうだめかもしれない。その二つ。
医者は、「安静にして、食生活に気を配り、早寝早起きをすること」と言い、妻に薬を処方した。
「くそったれが」―医者に対してそう思う私の心は、乱れていた。
一年後、私は特急列車の中にいた。そこには妻はいなかった。田園風景を窓から眺めながら私は一人、考え込んでいた。なぜあのとき、私は妻に対して、あんなやけくそな気持ちになっていたのだろう、と。車掌が切符を切りに来る。私はポケットの中をまさぐる。あった。少しくしゃくしゃになっていたが、私はそれをにこやかに差し出す。彼は、切符を受け取り、印を付けて、一礼し、次の車両に移っていく。けったいな職業だ、と私は思う。揺れる電車内を、全くどこにも捕まらず、支えなしで確固たる足取りで進むその車掌は、何かを思い出させようとしていた。黒い渦。銀河。そんな風景が私の心を占める。明るい昼間にはそぐわない光景だ。私の心は暗い混乱の中にあった。車掌をとっ捕まえて、なぶり殺してやろうかと思う。そして実際、私は立ち上がる。後を追い、ついに私は車掌の襟首をつかみ、振り向きざまに右手で顔面をぶん殴る。車掌は倒れる。「お客さん、やめなさい」―鼻血を流しながら、彼は私に訴える。ああ、なんていい気持ちなんだろう。私は悦楽に浸りながら、彼の首を右手で思い切り絞める。誰もわたしたちを制止しに来ない。なぜなら、この車両、この電車、田園風景は、私の作り出した幻影であり、夢なのだから。ただ、私はその世界からの出口を完全に見失っていた。そして、現実世界に戻れなくなり始めてから、3年の月日が経とうとしていた。
死んだ車掌を処理するのは、全く簡単なことではなかった。彼が死ぬと、電車の窓から見える風景が、急に暗くなってきた。しばらくすると、紫色の光が外の世界を覆い始めた。電車は宇宙に突入したのだ。時間の無い世界を、渦を巻くようにぐねぐねと、曲がりくねりながら漂っていく。車掌の魂のような、霊のような白い空白が彼の体から垂直に立ち上る。「こんにちは」その空白は、私にそう語りかけてくる。「なんなんだ、おまえは」私は毅然と立ち向かう。どこに行く当てもなく、その魂は漂い、そして空間の隙間に吸い込まれていった。どうすれば、この変なところから抜け出せるんだろう。私は考えた。私は普通の暮らしをしたかった。日々仕事をし、布団で眠り、朝食を食べ、共に暮らす者と挨拶を交わしたかった。何がいけなかったんだろう。妻を蔑ろにしたからか?それはそんなに許されない罪だったのか?こんなに曲がりくねった魂の持ち主が、この世界に存在しているだけで不自然なことなのじゃないか?
どうしよう。私は考える。というか、少なくとも考えることを意識する。いや、無駄なことだ。考えても考えられない世界では、何も起こっていないのと同じなのだから。
じゃあ、どうすればいいんだ?
何をしよう、どうすればいいんだろう。一体全体、どこにいればいいんだろう。この右手を、左手を、どうやって動かせばいいんだろう。過去に思った、考えた、そして今を生きる(生きているのだろう?)自分は、もう自分ではないかもしれない。今何をしたらいいの?お母さん?―今何をしていればいいの? つらい。この気持ちだけでも、動かしたい、呼吸したい。何もできない。―というか、なにもしていない。何が? 水を飲んでみよう。いや、水なんて俺に飲む権利はあるのか? だいたい、俺と話しているこいつは何者だ?
車掌の魂は空中をさまよい、そして消えていった。少なくとも見えなくはなった。でも確かに、そこに存在しているという空気感はあった。
私は連結部分を抜け、そして、ポケットからスパナを取り出し、連結部のネジに当てた。右にねじって、一つ目がカランと音とを立てて抜けたところで、「動くな!!」声が聞こえた。なまめかしい女の声で、裸の上半身からはピンク色の乳首が見えていた。唯一身につけているジーパンの股間の部分からは、美しく刈られたささやかな陰毛が除いていた。性器の襞が、びらびらと、めくれかけていて、割れ目には湿り気があり、うっすらと粘り気のある甘汁が垂れかけ、私の豊かな心を飲み込んだ。
その女は、私の脳天をピストルで撃ち抜き、おでこの真ん中から真っ赤な血を逆方向に吹き飛ばした私は、女の膣の中に右手を指からねじ込んでおり、次の瞬間には車掌の魂はわたしたちを暖かく見守っていた。女は滝のような噴水を下に向けて放水し、狂ったような声でうめくと、今度は私の脳天に空いた穴にまんこをこすりつけていた。何をしたらいいのだろう。私は能う限りの正常さを持ってしても、この美しき世界から出ていかない。
なぜ?
そう、それは私が殺人鬼だからだ。過去に20人は殺している。30人の仲間と、宇宙戦艦に乗り込み、この地までやってきた。そろそろ、やめたい。生きるのは限界だ。この女に犯されて、最後はなぶり殺して、車掌を殺したこの右手を女の性器から子宮まで貫通させて、私の性器からほとばしり出た精液を受けて育ちつつある女のミジンコみたいなわたしたちの子どもを、女の内臓の壁にこすりつけて、その小さな命を殺してこそ、私の目的は達成されるのだから。ああ、すっきりした。これで私の妄想は終わり。誰かが見ているぞ。許せない。誰? いや、誰もいない。私の気にしすぎかな。ああ、こんなことはやめたい。女を妊娠させるまでは。やめられない。「グレート・ギャッツビー」のような小説を書きたい。そして、女に溺れて(犯して・犯されて)、終っていきたい。死にたい、、死にたい。。ああ、死に、そして生きたい、私の命に何の意味があると云うんだ? いつまでも、あの女の股ぐらを血みどろにしていたい。気ちがい? なんてことはない。それが私なのだから。誰だ君は?―そう私がその女だ。魔王はそう言う。私は狂っているのか?―「もうとっくにな」
Wall Gatsbyは言う。私がその男だと。終らせたい。終わりのないこの世界でただ一人の君には、これをあげよう。それがそのプレゼントだった。気ちがい軍団の黄色いパンツからは、白い液(ネバネバ)がべっとりついて、いや、これは血だ。赤いじゃないか!「パンツがですか?」―違う! それじゃ赤鬼のパンツと一緒じゃないか!
駅には無人の空白の霧が漂い、いつの間にか私はそこに立っていた。疲れ果てていて、歩くのもやっとだった。秋になったとき、いつかその季節が巡ってきたときに、また会おう。
わたしたち愚かな者 Wall Gatsby @WallGatsby
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