錯綜意欲

小狸

掌編

 何か小説を書きたい、と思うのだが、何を書けば良いのか分からない。


 そういう、意欲だけが先行して内容が伴わない時、というのはないだろうか。


 私はある、しかも結構な頻度で。


 書こう書こうと思ってはいるのだが、しかしあん(私独自の小説用語で、プロットより一つ前段階の簡素な状態を示す。書きたいものを箇条書きにしたメモに近い。造語症なのである)を出したり、プロットを練ったりするよりも、「書きたい」という欲望が先行し、結果的にしょうへん小説に逃げてしまう、ということが、ここ最近多くある。


 いや、逃げる、という言い方は、掌編小説に失礼か。

 

 れい7年8月に起こったさる私周りの「事件」も含めて、私はしばらく小説から離れていたということもあり、今は、長編は小休止している。未だ精神状態は完全な回復には至っていない。


 だからこそ、今年後半の公募はほぼ諦め、取り敢えず書きたいという欲望の赴くままに、書いてみた――そんな状態なのである。


 ここ数日の小説の投稿具合を見れば、それは明瞭あきらかだろう。ほぼ毎日のように、掌編小説――らしき文章群を投稿している。


 小説を書きたい。


 いや、自分でも驚いている。いつか枯れるだろう、それはいつなのだろう、その時の私は私のままでいられるだろうか――などと将来を憂いていた時期が懐かしい。新人賞の選考には落ち続け、未だ結果こそ出ていないものの、その「小説を書きたい」という気持ちだけは、まだ一度として、枯渇したことがないのである。


 少なくとも小説においては、向いているか向いていないかはさておいて――私は、前を向いているつもりだ。


 担当の看護師の方には、こう言われたことがある。


「本当、小説に関してだけは、向き合い方が上手ですよね」


 上手なのだろうか、存外自分のことは、自分では分からないものである。まあ、かれこれ小説を書くこととは、小学5年生の頃からの付き合いである。その頃から書いていてまだ結実していないのかよと思うかもしれないが、現実はドラマや漫画のようにはいかない。私が小説に関する才能を秘めていて、それが若くして開花し、○○歳の鬼才、などと帯に表記されることは、まずなかったのだから。私に才能は無かった。それでいいのだ。


 というか、生半可な予備知識や語彙力のままに小説家にならなくて良かった、とすら思っている。小中学生当時の自分――というか、そういう時期の人間というのは、良い意味では夢と希望に満ちあふれていて、悪い意味で何にでもなれると思い込みがちである。そんな時期に、既に人生が軌道に乗っていたら、私は確実に、調子に乗って何か取り返しのつかない大失敗をやらかしていただろう。私はそういう子どもだったし、大人を、何人も知っている。


 一応年齢的には大人になった今では、人並みの節度と、人並みの冷静さを持つことができたと自負している。まあ、そんな私を大いに掻き乱してくれたのが、8月のさる「事件」だったのだが、そこについて触れるのは止めておこう。


 とは言いつつ、ちゃっかりと、ここ数年の公募新人賞の結果が芳しくないことに傷ついていた私がいるのもまた、事実である。面倒臭い奴なのだ、私は。まあ、こればっかりは仕方がない。私が、面白い、その賞の審査委員の先生方や編集部を唸らせるような小説を書くことができなかった、それだけの話なのだ。だから、いちいちセンチメンタルな気持ちになる時期は、とっくの昔に終わっている。


 とかく、小説を書いていたいのである。


 小説を書いている時だけは、私は私を、嫌わずにいられる。


 私の内面については、もう語り尽くすほどに語ったけれど、複雑怪奇に絡み合い、魑魅ちみもうりょうの様相を呈している。そんなんだから、無限のように意欲だけが湧いてくるのである。


 私は私が嫌いだが、小説を書いている時は、そんなこと構っていられない。たとえ自分が嫌いでも、そこから出力された文章がどれだけ気持ち悪くとも、それを世に出し、自分の作品として発表する責任が伴うわけである。そのままでは、自己嫌悪、自己不全を延々と垂れ流すことになってしまう。


 それでは、駄目だと思う。


 だからこそ、小説という、物語という形式で、必ず私は発表するようにしている。生涯エッセイやノンフィクションの類は書かないと思う。私は、私の小説を知ってほしいのであって、私自身を知ってほしいわけではないのである。自己顕示欲や承認欲求との向き合い方については、思春期に延々色々とやってみて、ある程度弁えているつもりだ。


 まあ勿論もちろん、だからと言って、「ほらこの小説を読め!」と、押し付けになってはいけない。小説はある程度自由であった方が良いのではないか、と、私は思っている。誰かに強制されて読む読書のつまらなさを、私たちは小学校時代経験しているはずじゃないか。感想も何もかもが教師のてのひらの上の出来事として扱われ、異端は排除される。実際、私も、小学生の頃に図書室に引きこもって、ざいおさむあくたがわりゅうすけがわらんたんできしていた頃は、相当な異端扱いを受けたものだ。「小学生のくせにそんな本を読むのはおかしい」とまで言われた。「くせに」って何だよ、「おかしい」って何だよ、という話である。


 まあ今考えれば、その先生が言った言葉にも一理あるのだろう。


 こうしてずっと小説を書き続けることは、「おかしい」とは言わずとも、普通のことではない。


 それでも私が書き続ける理由は――。


 いや、これは語らずにおこう。


 取り敢えず喫緊の課題としてある、意欲のみの先行と内容の不明確さについては、是正する必要がある。


 でも、私はきっと。


 それも小説にしてしまうのだろうな、と。


 何となく思った。




(「錯綜さくそう意欲」――了)

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