第22話 額田王
額田王
「……風が、強うございますね」
そう言うと、初夏の野の匂いが、衣の袖に絡みついた。
若草の湿り気。
遠くで鳴く鳥の声。
「風など、歌にすればよい」
天智さま――いや、この頃は、まだ中大兄皇子。
そう言って、楽しげに笑う。
「……歌は、逃げ場ではありません」
私は、少しだけ声を落とした。
「……心が、追いつかぬ時に詠むものです」
「追いつかぬ?」
皇子は、首を傾げる。
「……では、今は追いついていないのか」
「……ええ」
私は、正直に答えた。
「……追いついていないから、詠めます」
夜。
「額田」
灯りの下で、皇子が言う。
「……お前の歌は、刃のようだ」
「……斬っておりますか」
「……人の心を」
私は、指先を見つめた。
墨の匂いが、まだ残っている。
「……斬らねば、言葉は届きません」
皇子は、黙った。
その沈黙が、
何よりも雄弁だった。
やがて、時が流れる。
「……額田王」
今度は、天武さま――大海人皇子。
「……お呼びでしょうか」
声を整える。
胸の奥が、少しだけざわつく。
「……歌を」
短い言葉。
「……歌、ですか」
「……お前の歌が、必要だ」
その言い方が、胸に刺さった。
必要。
それは、重い言葉。
「……お二人とも」
ある日、私は言った。
「……歌は、私のものです」
沈黙。
「……誰かのためだけに、詠むものではありません」
天智さまは、目を細めた。
「……それでも、お前の歌は、我らの間を行き来する」
「……行き来するのは」
私は、静かに答えた。
「……私の心です」
あの有名な夜。
「……詠め」
そう言われた。
「……今、この場で」
篝火の匂い。
夜露の冷たさ。
人々の気配。
私は、目を閉じた。
「……ああ」
息を吸う。
「……詠みましょう」
声に出す。
「
あかねさす
紫野行き
標野行き
野守は見ずや
君が袖振る
」
声が、夜に溶ける。
ざわめき。
「……大胆だ」
誰かが囁く。
「……女が、ここまで……」
私は、構わず続けた。
「……見せたかったのではありません」
天智さまを見る。
「……隠す気も、ありませんでした」
天武さまが、低く言う。
「……それは、誰の歌だ」
私は、答えた。
「……私の歌です」
「……誰を、詠んだ」
「……私が、見たものを」
その一言で、場が静まった。
後で、天武さまが言った。
「……お前は、残酷だな」
「……そうでしょうか」
私は、微笑む。
「……言葉を、濁さないだけです」
「……歌で、人を傷つける」
「……歌でなければ、
人は、自分が傷ついたことにさえ、気づきません」
ひとりの夜。
「……私は」
筆を置く。
「……誰の女でもない」
胸に、静かな確信。
「……ただ、歌う者です」
紙の擦れる音。
夜風の冷たさ。
「……それで、よい」
晩年。
「……額田王とは」
誰かが、尋ねる。
「……どんな方だったのですか」
私は、少し考えてから言った。
「……歌を、選んだ人です」
「……愛ではなく?」
「……愛も、ありました」
微笑む。
「……けれど」
指先で、紙をなぞる。
「……愛より先に、
言葉がありました」
後に、人は言う。
――二人の天皇に愛された女。
――万葉随一の歌人。
けれど、その時、
額田王は、誰の影にも立っていなかった。
言葉を選び、
沈黙を恐れず、
それでも――
歌でしか言えない真実を、
歌として差し出した人。
額田王。
それが、
声を奪われなかった女の名。
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