第2話 推古天皇

推古天皇


「……まだ、夜が明けぬのか」


障子の向こうは、薄い藍色だった。

冷えた朝の空気が、畳を這って足元に忍び寄る。私は、膝にかけた薄衣を少し引き寄せた。


「明けます。まもなく」


蘇我馬子の声は、いつも落ち着いている。

その声を聞くたび、胸の奥にわずかな緊張が走った。


「馬子……」


名を呼ぶと、彼は一歩下がって頭を垂れる。


「は」


「昨夜も、眠れなかった」


正直に言った。

女帝であろうと、夜の不安までは消せない。


「夢を、見た」


「どのような」


私は、しばし言葉を探す。


「血の夢だ。

 争い、叫び、折れた矛……」


湿った土の匂いが、ふいに鼻に蘇る。

若い頃、戦の後で嗅いだ匂い。


「だが、その奥で……鐘の音がした」


「鐘、でございますか」


「澄んだ音だ。耳に残る」


馬子は少し考え、静かに言った。


「仏の声、かもしれませぬな」


私は、微かに笑った。


「そなたは、すぐに仏へ結びつける」


「陛下が、その道をお選びになった」


「……選んだ、か」


私は庭を見る。

霜に白く縁取られた草が、朝の光を待っている。


「わたしは、流されたのだ」


「それでも、舵を取っておられる」


「女が、国を治める舵を?」


声に、皮肉が滲む。


「皆、わたしを見ている。

 “女だから”失敗を待っている」


馬子は、即座に言った。


「見ているのは、失敗ではありませぬ。

 “覚悟”でございます」


私は振り返った。


「覚悟とは、何だ」


「捨てることを、先に決めること」


胸が、少しだけ熱くなる。


「……わたしは、多くを捨てた」


「はい」


「母としての生も、妻としての安らぎも」


声が、わずかに掠れる。


「それでも、足りぬと言うのか」


馬子は、低く答えた。


「足りぬのではない。

 陛下は、すでに多くを背負いすぎておられる」


沈黙。

遠くで鶏が鳴く声が、朝を告げる。


そこへ、足音。


「伯母上」


若い声。

厩戸皇子――聖徳太子。


「また、そんな顔をして」


「そなたも、眠っておらぬな」


「ええ。新しい法の文を考えていました」


彼は、笑う。

その笑顔を見ると、胸の奥が少し軽くなる。


「理想は、紙の上では美しい」


「ですが、書かねば始まりません」


「現実は、人の欲で濁る」


「だからこそ、道を示すのです」


私は、彼をじっと見た。


「……皇子よ」


「はい」


「そなたは、恐れぬのか」


「何を」


「国が、変わることを」


彼は一瞬、黙った。


「恐れます」


「ほう」


「ですが、恐れぬふりをして進むのが、役目です」


私は、思わず笑った。


「そなたは、正直だな」


「伯母上にだけは」


朝日が、庭を照らし始める。

冷たい空気が、少しずつ緩む。


「女帝であることは、孤独だ」


私は、ぽつりと言った。


「だが、独りではない」


馬子が頭を下げ、皇子が一歩前に出る。


「陛下」


「伯母上」


二つの声が重なる。


「この国は、血だけでは続かぬ」


私は、はっきり言った。


「学び、祈り、言葉で治めねばならぬ」


「仏法も、法も、そのために」


胸に、静かな決意が満ちる。


「笑われようともよい。

 女が夢を見ると言われようともよい」


私は、玉座へ向かう。


「この国を、“争わぬ国”にする」


衣擦れの音。

絹の重みが、肩にのしかかる。


それでも、歩く。


「推古は、ここに在る」


声は、思ったよりも強かった。


外で、朝の光が完全に満ちる。


私は、心の中で呟いた。


――女であることは、弱さではない。

――耐え、待ち、繋ぐ力だ。


推古天皇は、今日も政を執る。

静かな覚悟を、胸の奥に燃やしながら。


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