日本のヒロインたち
@mai5000jp
第1話 卑弥呼
卑弥呼
「……静まれ」
私がそう言った瞬間、焚きしめた香の匂いが、殿内にゆっくりと満ちていった。
甘く、苦く、喉の奥に残る匂い。巫女たちが一斉に膝をつく。
「女王よ……」
誰かが小さく息を呑む音がした。
私は目を閉じる。耳鳴りのような鼓動が、胸の奥で強く打つ。
――また、来る。
見えないものが、確かに近づいてくる気配。
冷たい風が、素足の甲を撫でた気がした。
「恐れるな。わたしが、聞く」
声に出した途端、喉がひりつく。
言葉を発するたび、命を削っているのだと、私は知っていた。
「女王様……今日は、おやめください」
弟の声だ。現実の匂いが、香の中に混じる。
鉄のような、人の匂い。
「……弟よ。これは、私の役目だ」
「役目、役目と……! 姉上は、いつ休まれるのですか」
私は、うっすらと笑った。
「休む? それは、わたしが“卑弥呼”でなくなった時だ」
弟は唇を噛む。
怒りと心配が混じった顔。それを見ると、胸が少しだけ痛んだ。
「姉上は……ただの人だ。神ではない」
「そうだ。だからこそ、神の声を聞く」
私は立ち上がる。
床板の冷たさが、足裏に刺さる。
「神は、人の弱さを通してしか、語らぬ」
巫女の一人が、震える声で言った。
「女王様……何が、見えるのですか」
「――争いだ」
言葉にした瞬間、頭の奥が割れるように痛んだ。
「血の匂い。焼けた土。泣き声……」
「やめろ!」
弟が叫ぶ。
私は構わず続けた。
「だが、その先に……海が見える」
「海……?」
「大きな国。文字を持ち、使者を送る国」
塩の匂い、潮の湿り気が、確かに鼻をかすめた。
「そこへ、我らは頭を下げる」
殿内が、ざわめく。
「女王様! それは、服従では……」
「違う」
私は強く言った。
「生き延びるための、選択だ」
胸が苦しい。
孤独が、背中に重くのしかかる。
「誰かが憎まれねば、この国は割れる。
ならば――」
私は、息を吸い込んだ。
「わたしが、すべてを引き受ける」
弟が、低く呟く。
「……姉上は、いつもそうだ」
「そう教えたのは、あなたでしょう」
「違う!」
弟は私の前に立ち、肩を掴んだ。
人の体温が、久しぶりに伝わる。
「姉上は……一人で泣いている」
その言葉に、胸が詰まった。
「泣かぬ」
「泣いている!」
殿内が、凍りつく。
私は、弟の手をそっと外した。
「……泣けば、国が泣く」
声が、わずかに震える。
「わたしが女であることを忘れねば、この国は保たぬ」
沈黙。
香の煙が、ゆらりと揺れた。
巫女の一人が、ぽつりと言う。
「女王様……それでも、私たちは、あなたを信じます」
別の声が続く。
「あなたの声で、戦が止まった」
「あなたの祈りで、雨が降った」
私は、目を閉じた。
――信じられることほど、重いものはない。
「……ありがとう」
小さな声だった。
「だが、覚えておけ」
私はゆっくりと告げる。
「卑弥呼は、人だ」
「恐れ、迷い、夜に震える」
「それでも――」
目を開ける。
「明日も、神の前に立つ」
弟が、深く頭を下げた。
「……姉上。いや、女王よ」
「国を、頼みます」
外で、風が木々を鳴らす音がした。
夜が深い。
私は一人、殿に残る。
香の残り香の中で、そっと呟いた。
「神よ……」
声は、誰にも届かないほど小さく。
「どうか、わたしが壊れる前に……」
答えはない。
ただ、闇の中で、心臓の音だけが生きていた。
卑弥呼は、今日も眠らない。
国の夢を見るために。
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