SF短編 『深淵調査』

夢夢夢

深海

水深七千二百メートル。

ハダル深海探査ステーションの観測窓は、まさにこの星の底、全ての光と熱が忘れ去られた場所への唯一の窓だった。

外に広がるのは、漆黒という言葉すら陳腐に感じる、純粋な、底なしの闇。そこで働く我々にとって、この闇こそが日常であり、孤独だった。


「アリア、熱水噴出孔の温度はどうだ」


カイは強化外骨格スーツの中で、自分の荒い呼吸音を聞きながら問いかけた。汗が額を伝い、冷えた内壁に張り付く感覚があった。


『摂氏三百八十度。安定しています。ですが……』


AIアリアの合成音声は常に冷静だったが、その中に僅かな「詰まり」を感じたのは、気のせいだろうか。


『先ほどから、地震波とは異なる超低周波の振動を検知しています。これまで記録されたデータには存在しません。可聴域に変換しますか?』


「頼む」

カイは深く息を吐き、準備をした。深海では、どんな些細な異音も、時には命取りになる。

スピーカーから流れてきたのは、ノイズではなかった。

それは、幾重にも重なり合う、震えるような**「歌」**だった。


初めて聞くそれは、ソプラノ歌手が奈落の底で慟哭しているかのようであり、同時に、途方もなく巨大なクジラが星の巡りを祝っているかのような、神聖な響きを帯びていた。おぞましく、しかし抗いがたいほどに美しい旋律。

それは音であると同時に、魂の奥底に直接語りかけてくるような、不思議な振動だった。


隣でモニターを見つめていた海洋生物学者のエレーナが、無意識に息を詰めた。


「……綺麗ね」

彼女の瞳は、観測用ライトに照らされた熱水噴出孔から噴き出す、微細な銀色の粒子に釘付けになっていた。それはまるで、深海の底から立ち昇る、星屑のようだった。


「こんなの、見たことないわ。この粒子、まるで生きているみたいに漂っている……」


その夜、カイは奇妙な夢を見た。

夢の中で、彼はスーツを脱ぎ捨て、あの銀色の粒子が舞う熱水噴出孔の中へと誘われる。

粒子は彼を優しく包み込み、肌に触れると、じんわりと温かい。

そして、全身を浸すその感覚は、まるで母親の胎内に回帰したかのような安らぎを与えた。

深い、深い安らぎと、抗いがたい幸福感。夢の中で、彼は初めて、心の底から満たされる感覚を味わった。

しかし、目覚めた時、現実は彼の五感を苛んだ。

喉が渇ききり、肌はまるで鱗のようにザラついていた。

そして、何よりも奇妙なことに、あの「歌」が、まだ彼の耳の奥で、微かに響いているのだ。


『……あの美しい場所へ、帰りなさい……』


囁きは、彼の意識の隙間に、柔らかく、しかし執拗に侵食してきた。

異変は、彼らの肉体と精神を蝕んでいった。

最初に変化に気づいたのは、エレーナだった。彼女は狂ったように熱水噴出孔のサンプルを分析し続け、やがて興奮気味にカイに言った。


「カイ、見て! この粒子……ただの鉱物じゃないわ。有機体、いいえ、まるで意識の断片よ! 私の肌に……見て!」

エレーナが差し出した腕は、もはや人間のそれではなかった。


白い肌の下で、青白い血管がまるで発光サンゴの脈動のように輝いている。指の先端は僅かに膨らみ、爪は真珠のような光沢を帯びていた。皮膚はまるで深海魚のように半透明になり、その下を流れる体液が、わずかに発光しているように見えた。

「痛くないの。それどころか……あの歌が、体の中から聞こえるのよ。私を呼んでいるわ。あの中へ来なさいって。ここではない、もっと自由な場所へ……」

その言葉と同時に、ステーション全体が大きく揺れた。アラートが鳴り響き、赤色の警告灯が点滅する。船長が、手動操作でエアロックのバイパスを解除しようとしていたのだ。


「船長! 何をやってるんですか、外は七百気圧だぞ! 正気か!」

カイが叫んだ。彼の声は、もはや自分のものとは思えないほど掠れて響いた。肺が、まるで水に満たされたかのように重く、呼吸が困難になっていた。

「外じゃない、故郷だ!」

船長の声は、すでに人間のそれではなく、幾つもの周波数が同時に鳴っているような、不気味な和音(コード)と化していた。

彼の背中からは、薄肉のヒレのような組織が突き出し、制服を切り裂いている。

その目は、狂気と恍惚が入り混じり、まるで深海の生物のように闇の中で光っていた。


「聞け、カイ。我々は陸に上がった魚だったんだ。あの歌こそが、我らの真実。今こそ、あるべき姿に戻る時なんだ!」

船長の震える指が、最終排気レバーに掛かる。それはステーションの致命的な破壊を意味していた。

熱水噴出孔から噴き出す銀色の粒子は、換気ダクトを通じて、今やステーションの隅々まで満ちていた。カイの視界の中で、鋼鉄の壁が揺らぎ、古代の海底神殿の円柱のように見え始める。幻覚だ、と理性は叫ぶが、心は歌声の圧倒的な美しさに膝をつきそうになっていた。

(このままじゃ、全員あの歌に喰われる)

カイは朦朧とする意識を振り絞り、変質しつつある重い腕を動かした。指先が痺れ、まともにキーボードを叩けない。彼は通信用端末をAIメインフレームに叩きつけ、無理矢理ハッキングを試みた。

「アリア! 全スピーカー最大出力! 逆位相のホワイトノイズを……あの歌を殺す音を流せ!」


『了解。聴覚保護を推奨します』


次の瞬間、ステーションを破壊せんばかりの「叫び」が轟いた。

それは音ではなかった。物理的な暴力だった。美しかった旋律が、ガラスを爪で立てるような不快な電子音の暴力によって、力技で圧殺されていく。脳がひび割れ、内臓が震え上がるような、想像を絶する不協和音。


「あああああ!」


船長とエレーナが、頭を抱えてのたうち回った。歌声という「設計図」を失った彼らの肉体は、変異の途中で凍りついたように醜く歪み、痙攣した。彼らの瞳から、まるで深海生物の涙のように、発光する粘液が流れ落ちた。


一時間後。


静寂が戻ったステーション内で、カイは自分の手を見つめた。

指の間には、すでに鋭い水かきが形成され、爪は黒く硬質化している。皮膚は以前にも増して透明度を増し、その下を流れる血液が、青く、鈍く光っていた。鏡に映る自分の顔――そこには、耳の下に赤く裂けた「鰓(えら)」が、酸素を求めるかのようにひくついているのが見えた。



数日後。

音信不通となったハダル深海探査ステーションに、本社からの救助艇が到着した。

ハッチを開けた救助隊員が見たのは、血の気のない、しかし深海生物のように美しく発光する皮膚を持った「生存者」たちだった。彼らは無言で、しかし明らかに人間ではない別の存在として、救助隊を見上げていた。


カイたちは地上へ連れ戻されたが、もはや大気中では呼吸ができず、特殊な高圧水槽の中で一生を過ごすことになる。

強化ガラス越しに、面会に来た家族が泣きながら何かを叫んでいるのが見えた。家族の言葉は聞こえない。

代わりに、静まり返った水槽の奥底から、あの「歌」の残響が、自分自身の骨を震わせて響き始める。それは、あの深淵に魅入られた者だけが聞ける、甘美な子守唄だった。


(俺たちは助かったのか? いや……俺たちは、あの深淵に選ばれたんだ)

カイの青く光る瞳が、深海の暗闇を懐かしむように細められた。

その姿は、科学が勝利し、人類が生き残ったという物語の、偽りの結末を象徴していた。深海の歌は、その魂を永遠に捉え、彼らを新たな存在へと昇華させていたのだった。

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