衣擦れの音と、家族という呪い

 月曜日。俺はホームルーム前の時間、学校の机に突っ伏し、溜息を吐き散らかしていた。

 後から登校してきた友人の翼が、俺の背中を小突いてくる。


「うぃ〜す! おさむ、また親父と喧嘩でもしたん?」


 俺は伏せた頭を横に傾け、「違う」とだけ反応した。

 茶化してくるが、なんだかんだ愚痴に付き合ってくれる優しいやつだ。


「んじゃ今度はなんだよ?」


「親父が再婚した」


「いいじゃん。母親は美人? 仲良くやってんの?」


「……多分、美人。仲良くしようとは向こうもしてるみたいだけど、親父といちゃついててめんどくさい」


「あー、そりゃきついな。まあ、ゆっくりやってけよ」


 翼のトーンが少し同情的に変わる。


「……姉さんができた」


「え? なにそれエロい」


 即座に、いつもの茶化しモードに戻る。深刻になりすぎないのが、翼のいいところだった。


「エロいってなんだよ。まあ、確かに……いや、そうじゃなくてさ! 同じ部屋で暮らすことになって、俺、どうすりゃいいんだよ!」


 翼は一瞬、神妙な顔つきになり――次の瞬間、真顔で断言した。


「いや、めちゃくちゃエロいじゃん!」


 結局、放課後の教室で「姉と同居する際の対策会議」が始まった。

 中心は、姉持ちのベテラン・山岸の教えを聴く会だ。


「大事なことは三つ。近寄らない、避けない、反抗しない。これだ!」


「最初の二つ、矛盾してねーか?」


 俺のツッコミに、山岸は重々しく首を振った。


「基本はこちらから干渉しない。だが、挨拶を無視するような極端な回避は逆鱗に触れる。三つ目は、理不尽な目にあっても耐えること。これさえ守れば、家の中で『空気』扱いはされない……はずだ」


 山岸の実感のこもった言葉に、その場にいた全員がドン引きした。

 一体、家で何をされているんだ、山岸。


 その日、俺は「姉」について最低限の知識を得て帰宅した。

 玄関を開けると、カレーの匂いが漂ってくる。

 リビングのドアを開けた瞬間、「きゃっ!」とかわいい悲鳴が上がった。


「うお! びっくりした……何?」


「はぁ……びっくりしたのはこっちだよ。なんで『ただいま』も言わずに入ってくるのよ」


 今までこの時間に誰かがいたことがなくて、習慣になかったのだ。


「ごめん、気をつける」


「うん。よろしい!」


 雪音さんはすぐに機嫌を直した。

 その後、俺はトイレ掃除と風呂掃除を片付け、宿題に取り掛かる。雪音さんも料理を終えると、部屋に戻り机に向かった。

 

 親父たちが帰宅し、四人で食事を囲む。

 会話の中心は親たちで、俺たちへの問いかけは「学校はどうだ?」程度の形式的なもの。

 雪音さんは早々に「勉強するから」と部屋に戻り、俺も後に続いてゲームを始めた。


 風呂、歯磨き、就寝。

 近寄らず、避けず、反抗せず。

 完璧な立ち回りだ。なのに、胸のどこかに「姉なんてこんなものか」という妙な落胆があった。


 翌朝。早くに目が覚めたのは、カーテン越しの「音」のせいだ。


 ブラウスに袖を通す衣擦(きぬず)れの音。

 スカートのジッパーを閉める硬い金属音。

 ふぅ、と吐き出される、微かな息遣い。

 リップを塗り、唇を鳴らして馴染ませる音。

 最後に、キュポンと何かを開ける音――。


(なんの音だ? 化粧水? それとも……?)


 その音の一つひとつに、心臓が跳ねる。

 気づけば下半身に、じっとりとした熱を感じていた。

 彼女は俺の悶絶に気づく様子もなく部屋を出て、朝食の準備を始める。

 俺はその足で、風呂場へと直行した。



 その日は、授業の内容が一切頭に入らなかった。

 帰り際、心配した友人たちがゲーセンに誘ってくれた。

 寂れた商店街の、古い格闘ゲームが並ぶ小さな店だ。一時間ほど遊んだ後、俺は今日が料理当番であることを思い出し、皆と一緒に駅へ向かった。


 そこで、女子高生の集団の中に雪音さんを見つける。

 気づかないふりをして通り過ぎようとしたが、雪音さんが俺を見つけた。


「修くーん! やっほー!」


 駆け寄ってくる雪音さんは、妙にテンションが高い。


「なになに、帰り? 私、カラオケ行くから夕飯待ってなくていいからね!」


 勢いに押され、俺が黙りこくっていると、後ろの女子高生たちが囃し立てる。

「ユッキーのカレシ?」「うっわ、中学生? やるじゃん!」


「違う違う! 弟だって。母さんの再婚相手の連れ子」


 皆一様に「あー」と納得した顔をする。

 雪音さんは転校してきたばかりだが、すでに新しい友人と馴染んでいるようだった。


「というわけで、修くんのお友達も、修くんをよろしくねー!」


 嵐のように去っていく雪音さんたちの後ろ姿を見て、俺は内心で「……今の、誰だ?」と毒づいた。



 門限ギリギリの二十一時に、雪音さんは帰宅した。

 恵さんに軽く注意され、少し荒くドアを閉めて部屋に入ってくる。


「修くん、お風呂入った?」


「いや、まだ」


「疲れちゃったから、先に入っていい?」


「親父たちが良ければいいんじゃない」


 俺はゲームの画面を見つめたまま、素っ気なく答えた。

 結局、親父たちが先に入ることになり、雪音さんは部屋に戻ってきた。


「私、もう寝るね。こっちの電気、消していい?」


「え、ああ……うん。こっちも消そうか?」


「大丈夫、アイマスクするから。じゃ、おやすみ」


 それだけ言って、彼女は制服を脱ぎ始めた。パジャマに着替える衣擦れの音が響く。

 これで一日が終わるはずだった。だが、俺は違和感を抑えられなかった。


「……ねえ、雪音さん」


「んー? なぁに?」


 眠そうな、とろんとした声。


「さっき駅で会ったとき、なんであんなにテンション高かったの?」


「え? そりゃあ、友達の前だし」


 眠気が一瞬で引き、はっきりした声音に変わる。


「俺といるときは、つまんないってこと?」


「あはは! 何、修くん。まさか嫉妬?」


「そんなんじゃない……」


「拗ねないでよ。外面なんて誰でもあるでしょ? 君はさ、家族なんだよ。取り繕うなんて疲れちゃうじゃん」


「家族……?」


「そう。他人でも家族になるしかないんだから。自然体でいるのが一番でしょ」


 共感と反発が同時に湧き上がった。

 俺だけが一人でやきもきして、子供っぽく足掻いているのが耐えられない。

 これは、恋なのか。多分、違う。


 FPSの画面は真っ赤に染まり、敵プレイヤーが屈伸して俺を煽っていた。

 ゲームを閉じ、ベッドに潜り込む。しばらくすると、カーテンの向こうから「すー、すー」と深い寝息が聞こえてきた。


 ――家族、という言葉が棘のように刺さる。

 気づけば俺は、カーテンという境界線を踏み越えていた。


 月明かりが差し込む部屋。

 風呂に入っていないはずなのに、彼女の体からは甘い香りが漂っている。

 残暑の夜の熱気が、彼女の布団をはだけさせていた。

 ゆったりしたパジャマの布地から溢れる、確かな膨らみ。


 ドクドクと心臓が早鐘を打つ。視界には、彼女しか映らない。

 ほしい。その熱に触れたい。

 俺が震える手を伸ばしかけた、その時だった。


「風呂空いたぞ、修!」


 廊下から響いた親父の声に、俺は我に返った。

 俺はまたしても風呂場へ直行し、冷たいシャワーを頭から浴びた。

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