短編小説 『インフレーション』
夢夢夢
インフレーション
それは、実にもう、どうしようもなく些細な一言から始まった。
「ねえ、目玉焼きにはソースだよね?」
昼下がりの学食。佐藤が放ったこの一言が、人類の歴史を塗り替える**『第一次調味料大戦』**の宣戦布告になるとは、その場の誰も――当の佐藤でさえも――思っていなかった。
向かい合わせで座っていた鈴木が、箸を止めてゆっくりと顔を上げる。その瞳には、深淵のような暗い怒りが宿っていた。
「……佐藤、今なんて言った? ソース? 正気か? 卵の純潔を穢す泥水のことか?」
「泥水だと!? 醤油なんて、大豆の死骸を煮詰めただけの黒い液体じゃないか!」
椅子がガタリと鳴った。先に立ち上がったのは佐藤だった。彼は鈴木の胸ぐらを掴まんと詰め寄り、その肩を強く突き飛ばした。
「取り消せよ! ソースの芳醇な香りを侮辱したことを!」
「触るな、このスパイシー野郎!」
突き返された佐藤の背中が壁に当たり、食堂に鈍い音が響く。直後、理性のタガが外れた。佐藤の右拳が鈴木の頬を捉え、鈴木の裏拳が佐藤の鼻腔を直撃した。
二人の取っ組み合いは、周囲の野次馬を瞬く間に巻き込んでいった。「やめろ!」と止めに入ったはずのクラスメイトも、「そもそもお前はどっち派なんだ?」と問われ、答えを間違えた瞬間に乱闘の渦へ放り込まれた。
翌日、事態は学校の壁を越えた。佐藤は「ソース派自警団」を結成し、鈴木は「醤油十字軍」を組織した。彼らはSNSを駆使して志願兵を募り、争いは瞬く間に市役所、そして国会議事堂へとインフレしていった。
この狂熱を加速させたのは、マスコミとネット世間だった。
朝のワイドショーでは、御用学者が深刻な顔で「ソースを許容する社会は、もはや道徳的に破綻している。これは味覚の問題ではなく、国家のアイデンティティの問題だ」と断じ、反対側のチャンネルでは「醤油の塩分が国民の攻撃性を高めている」というデマが真実しやかに語られた。
ネット掲示板やSNSでは、醤油派とソース派の工作員による殺伐としたレスバが24時間休みなく繰り広げられた。
「ソース派の有名人の不倫発覚! やはりソースをかける奴は倫理観が欠如している!」
「醤油派の政治家、実は裏で隠れてケチャップを摂取していた! 二重基準も甚だしい!」
「【悲報】醤油派のインフルエンサー、過去に中濃ソースを絶賛していたツイートが発掘される。垢消し逃亡中」
こうした執拗な暴露合戦は民衆の憎悪を最大まで膨らませた。街の至る所には「味の純潔を守れ」「不浄な液体を排斥せよ」というプラカードが掲げられ、スーパーの調味料売り場は連日、小競り合いによる流血沙汰が絶えなかった。もはや誰も、本来の味の好みなど覚えていない。ただ「敵を根絶やしにする」という熱狂だけが、巨大な集団を突き動かしていた。
運命の日。空からは重苦しい小雨が降っていた。
都心の巨大な交差点。武装した数万の「醤油派」と「ソース派」が、目と鼻の先で対峙していた。一触即発の緊張状態。誰かが唾を飲み込む音さえ聞こえそうな静寂の中、一人の若き醤油派兵士が、緊張のあまり銃の安全装置を外すのを忘れたまま、震える指を滑らせた。
――乾いた銃声が響く。
弾丸は、争いとは無関係に、たまたま横のコンビニから出てきた市民を貫いた。その市民の手には、特売のマヨネーズが握られていた。
「……あいつら、やりやがった! 醤油派が先手を打ったぞ!」
「ソース派の陰謀だ! 応戦しろ!」
叫び声を合図に、世界は一気に戦場へと変貌した。拳銃がライフルになり、ライフルが対戦車ロケットになり、戦車が戦略爆撃機へと変わるのに時間はかからなかった。
軍事技術は、憎悪に比例して飛躍的な進化を遂げた。
海中では、レーダーを無効化する「ステルス・ソース潜水艦」が互いの領海を侵犯し、空からは「高濃度・超微粒子・減塩醤油ミサイル」が都市部を黒く染め上げた。さらに、敵地の主食を強制的にチャーハン化して結束を乱す非人道的な「パラパラ変換爆弾」までが実戦投入された。
そして、ついに人類の理性が限界を迎えた。
地下シェルターに逃げ込んだ各国指導者たちは、モニター越しに罵り合った末、デスクの上に並んだ「赤いボタン(チリソース用)」と「黒いボタン(バルサミコ用)」を交互に見た後、ヤケクソ気味に両方を力一杯叩き潰した。
世界中のサイロから、大陸間弾道ミサイルが一斉に発射された。
空に巨大なキノコ雲が、まるでおいしそうなポップコーンのように次々と咲き誇った。核の炎が地球全土を焼き尽くし、文明の香ばしい匂いは、一瞬にして虚無へと消え去った。
それから、どれほどの月日が流れただろうか。
空は永遠に晴れることのないどんよりとした灰色に包まれ、かつての栄華を誇った高層ビルも、最新鋭の調味料工場も、すべては等しく塵と化していた。
ガレキの山の中から、一人の男が這い出してきた。佐藤だ。
彼は空腹と疲労で朦朧としながら、目の前に落ちていた「何か」を手に取った。それは、核の熱で黒焦げになり、もはや味も素っ気も、栄養すらも失われた、ただの**「木の棒」**だった。
すると、反対側のガレキの隙間から、泥とボロ布を纏った鈴木が現れた。
二人は、かつて自分が何を愛し、何のために戦ったのか、その詳細をすでに忘れていた。しかし、魂の奥底に刻まれた本能が、目の前の男に対して激しい拒絶反応を示した。「こいつは、私とは違う何かを信じていた不浄な存在だ」と。
佐藤は、震える手で木の棒を構えた。
鈴木もまた、その辺に落ちていた折れた枝を拾い、正眼に構えた。
「……目玉焼きには……」
佐藤が、ひび割れた声で、呪文のように呟く。
「……ソース……だろ……」
鈴木は、血走った眼で睨み返し、地を這うような声で応えた。
「……死ね……醤油の……敵め……」
乾いた荒野に、カチッ、カチッ、と虚しい木の音が響き渡った。
短編小説 『インフレーション』 夢夢夢 @yumeyumeyume12
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