第2話 ステアホールに留まる
俺の家は、客観的に見ても裕福だった。
玄関は広いし、廊下は長い。来客用の部屋はあるが、使われないまま埃をかぶる椅子もある。
父は上場企業の社長で、気に入らない政治家の名前を平気で口にする。
まるでニュースの裏側を知っているような言い方をし、俺はそれを「すごい」と思ったこともあるし、「なんか嫌だな」と思ったこともある。
その日は公民の授業で、経済格差を習ったばかりだった。
「同じ国に住んでいても、人によっては見えている世界がまるで違う。だから、持続的に寄り添いあっていく必要があるんだ。」
先生はそう言って、統計のグラフを見せた。
貧困率に、相対的貧困、教育格差など、凍りついた数字は、窓から入ってくる夏風にも全く靡かなかった。
俺は帰宅してからも、そのグラフが頭から離れなかった。あの被害者の子は、どっち側だったんだろう。俺はどっち側なんだろう。
その夜は、眠れなかった。
レトロな物でもないのに、時計の針が進む音が俺の眠気を押し出した。
こういう時は実際に父に聞いてみれば良いのではないだろうか。
家の中は暗いが、この時間は確実に階段の下にかすかな明かりが漏れ出ているのだ。
父の声が聞こえた。
誰かと電話中らしい。その低く、落ち着いた声は商談のときの声に似ている。
「……搾取、って言い方はやめよう。言葉が悪い。どこで誰が聞いているか分からないからな。」
背中に冷たい空気が流れるが、少し間を置いて、父は続けた。
「犠牲は必要だ。全員が救われるなんて、救ってもらえる側の傲慢でしかない。」
俺は階段の途中で止まっていた。床に縫い付けられたように足が動かない。視界に映る、家の中の暗さが急に濃くなった気がした。
搾取。犠牲。
公民の授業で見た文字が台本となり、父の声に当てられた。
俺はその後も、息を殺して耳を澄ませた。父の声は冷たいわけじゃない。むしろ、理性的で、誰かを説得する声だ。
「……分かってる。⋯⋯あぁ、知らなくていい。知らないほうが幸せだろう。」
手すりを握る掌が湿っている。
知らなくていい? 誰が? 何を?
階段を降りれば、父がいる。父に聞けば、答えが出るかもしれない。 でも、答えを聞いたら戻れなくなるような、そんな気がしていた。
俺は結局、後退りをするように部屋へ戻った。布団に潜り込みながら、父の声の一部だけが何度も繰り返された。
犠牲は必要だ。
翌日、父はいつも通りだった。朝食の席で新聞を読み、俺に「学校はどうだ」と聞き、笑う。俺は平然を装ったが、父の平然の方がずっと上手かった。
次の夜、俺は確かめたくて深夜まで起きていた。
けれど、今宵の帳はいささか静かすぎた。
いつもなら、自室の扉越しに父の書斎からキーボードを叩く音や、電話の気配があるのに、今日は何もない。
この家が眠っているというより、家が息を止めているみたいだ。
俺は部屋のドアを開けた。廊下の暗さが前夜より深い気がする。つま先から階段を降りるが、足音がやけに響く。
どの部屋を見ても明かりは無かった。
そのとき、かすかな音が聞こえた。
スっ、スっ。
布を擦るような、筆を走らせるような音。
それが、庭先から聞こえてくる。
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