あれは血で描かれた正義
冬のひなぎく
第1話 不格好な拳
高校に入学して間もない頃、俺は純粋な正義感を振りかざした。
廊下の端、人の少ない階段の踊り場は、昼休みのざわめきが遠く、そこだけ世界から忘れ去られているようだった。
壁に押しつけられている同じ1年の男子生徒がいた。鞄を抱えたまま、肩が小刻みに震えている。周囲に立つ同級生が、笑いながら言葉で殴っていた。
「おいお前の汚ぇ手で俺のカバンが汚れちまったじゃねぇかぁ?ほら土下座しろよ!」
「ええ〜泣いてんのぉ?そういう顔マジでオモロすぎなんだけど!」
誰かがスマホのカメラを向けたが、拡大された画面の中の彼は、現実よりもさらに小さく見えた。
俺は足が勝手に動いたが、かろうじて言葉が先に出た。
「やめろよ」
笑いが止まった次の瞬間、その嘲笑は俺に向いた。
「なに? 正義マン?」
「お前が代わりにやる? 土下座」
「ほら、こいつみたいによぉっ!」
ドスッと鈍い音がなり、震える少年の頭を黒ずんだ上履きが踏みならした。
背中の奥が熱くなり何かがプツンと切れた。
頬骨に当たった拳が乾いた音を立てる。相手はよろめいて壁にぶつかり、苦しそうな声を上げた。
俺は痺れた拳の中にある満足感と、気持ち悪さを一層強く握りしめた。
先生に呼び出されたのは、その日の放課後だった。俺は一から事情を説明した。
いじめがあったこと、動画まで撮られていたこと、被害者の子が震えていたこと。全部言った。
でも担任は、ため息をついてこう言った。
「いい歳なんだから、口で解決できるでしょ」
俺は言葉の意味が分からなかった。いい歳ってなんだ? 俺たちはまだ十五だ。口で解決? 噛み付けばよかったのか?あそこで口を開いていたのは、殴るための言葉ばかりだっただろうに。
後から合流した教頭はもっと端的だった。
「両者とも暴力を振るった事実がある。学校としては看過できない。」
俺は「いじめ」って言葉をもう一度口にしたが、教頭は俺ではなく、湯呑みの内側を見ていた。乾いた茶渋が、輪になってこびり付く。
「いじめと決めつけるのは良くない。トラブルだ」
その瞬間、世界の形が少し歪んだ気がした。
俺が見ているものと、大人が見ているものは同じようで全く異なるものだった。
俺の振りかざした「正義」は、どこか知らない場所で、いつの間にか「悪」になっていたのだ。
謹慎に反省文、保護者呼び出し。
クラスの空気は冷え、俺に近づく生徒は格段に減った。殴られた側の親が「大事にする」と言ったらしく、先生たちは俺を「問題児」として扱いやすい場所に置いた。
翌日、被害者の彼は謝ってきた。
「ごめん。僕のせいで……」
俺は「違う」と言いたかったのに、うまく言えなかった。違わないのかもしれないという可能性が後ろ髪を引く。
俺が殴ったことで、彼の明日が楽になるわけじゃない。俺は何をして、 誰を救った?
一週間後、彼は死んだ。
朝のホームルーム、担任が黒板の前で、台本みたいな声を出した。
「残念なお知らせがあります」
教室の空気が一瞬で固まったが、言葉は続く。
ご遺族の意向、詮索しない、落ち着いて、心のケアなど、誰の心にも留まらない言葉が教室の隅へ追いやられていった。
俺は机の下で膝を握りしめていた。
指先が痛いほど力が入ったが、俺はこの時の自分の気持ちを理解していなかった。
その日から、俺は「正義」という言葉を何度も頭の中で呟くようになった。呟けば呟くほど、丸くて淡い輪郭がさらにぼやけていった。
正しいことをしたはずなのに、誰も救えない。むしろ、状況を悪化させてしまった。
幾何学模様の正しさは、その日、形を保てなくなった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます