夜が名前を呼ぶまで

さめたん

第1話 名前を呼ばれた夜明け前

夜が、音を立ててほどけた。


午前四時十三分。

駅前の古い時計は、相変わらず一秒だけ遅れて時を刻んでいる。何年も前からそうだった。直されることもなく、誰に文句を言われることもなく、ただ間違った時間を示し続けている。その不正確さが、この街にはよく似合っていた。


私はその時計の真下に立っていた。

コートのポケットの中で、携帯電話が震える。


こんな時間に鳴るはずがない。

仕事の連絡も、友人からの呼び出しも、もう何年も前に途絶えている。


嫌な予感が、背骨を伝って上ってきた。


画面を見た瞬間、呼吸が止まる。


――凪


表示されていたのは、三年前に死んだはずの妹の名前だった。


通知は一件だけ。

短いメッセージが、白い画面の中央に浮かんでいる。


迎えに来て。


それだけだった。

理由も、場所も、説明もない。

けれど私は、その文面を見ただけで理解してしまった。


凪は、そういう人間だった。


助けを求めるときほど、余計なことを言わない。

自分がどんな状況にいるのかを説明するより、相手が来るかどうかだけを試すような、残酷な優しさを持っていた。


「……馬鹿だろ」


誰に向けた言葉かもわからないまま、私は呟いた。


当然、返信はできない。

死んだ人間からのメッセージに、どう返せばいいのか、そもそも返していいのかもわからない。


周囲を見回す。

駅前は静まり返っている。コンビニの明かりだけが、夜と朝の境界を曖昧に照らしていた。通り過ぎる車もない。世界に取り残されたような感覚。


それでも私は、歩き出していた。


理由は単純だ。

もしこれが悪質な冗談だったとしても、もし頭がおかしくなっているだけだったとしても――行かずに後悔するより、行って後悔するほうがまだましだった。


改札を抜ける。

切符は持っていない。ICカードも、改札に触れていない。


それなのに、警告音は鳴らなかった。


まるで駅そのものが、私を通すことを決めていたかのように。


ホームに降りると、一本の電車が停まっていた。

古い車両だ。色あせた銀色のボディ。窓ガラスには、細かな傷が無数についている。


行き先表示は点いていない。


私は一瞬だけ躊躇い、それから乗り込んだ。


車内には誰もいなかった。

座席に座ると、布地がひどく冷たい。まるで長い間、誰にも使われていなかったようだ。


ドアが閉まり、発車ベルが鳴る。

電車は、音もなく動き出した。


窓の外を流れていくのは、見慣れたはずの街並み――のはずだった。


次第に、違和感が募る。


ビルの配置がおかしい。

交差点が、記憶より一つ多い。

あるはずの看板がなく、ないはずの道が伸びている。


そして、車内の電光掲示板が光った。


次は――帰途。


「……帰途?」


聞いたことのない駅名だった。


その瞬間、胸の奥がざわつく。

嫌な予感ではない。懐かしさに似た、もっと厄介な感覚。


電車が減速し、やがて止まる。

ドアが開いた。


ホームに立っていたのは、一人の少女だった。


凪だった。


濡れたように見える黒髪。

少しだけ癖のある前髪。

困ったときに浮かべる、あの微妙な笑い方。


間違えようがない。

三年前、私の前から消えた妹そのものだった。


「お兄ちゃん」


声を聞いた瞬間、世界が遠のく。


「遅かったね」


凪は、そう言って微笑んだ。


私は、言葉を失ったままホームに降りた。

足元を見ると、影がない。

私にも、凪にも。


「……迎えに来てって、どういう意味だ」


ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。


凪は少しだけ視線を伏せ、それから顔を上げる。


「私はね、まだ帰れてないの」


「帰れて……ない?」


「うん。死んだはずなのに、終わってない」


凪は淡々と語った。

あの夜、橋から落ちたのは事故ではなかったこと。

誰かから、確かに逃げていたこと。

そして――助けを呼ぶ相手を、間違えたこと。


「お兄ちゃんは、知ってたでしょ」


胸を、何かで殴られたような感覚。


「私が追い詰められてたこと。なのに、見ないふりした」


それは否定できなかった。


忙しさを理由に、面倒を避けた。

大丈夫だろうと、勝手に決めつけた。


「だからね」


凪は一歩、こちらに近づいた。


「迎えに来てほしかったの。今度こそ」


遠くで、始発電車の音が聞こえる。

空が、わずかに白み始めていた。


凪の輪郭が、少しずつ薄れていく。


「次は――ちゃんと話そう」


そう言い残して、凪の姿は朝靄に溶けた。


次の瞬間、私は駅前の時計の下に立っていた。


午前四時十四分。


携帯電話には、何の履歴も残っていない。


それでも私は確信していた。


――あの夜は、終わっていない。

そして、私はもう、戻れない場所に足を踏み入れてしまったのだと。


夜明けの空は、まだ冷たく、どこまでも静かだった。

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