第3話 覚悟

 ……駄目だ。


 これは駄目だ。


 しりとりを幾度繰り返しただろう。


 時間の感覚はあいまいになり、辺りにはガラクタや動物が入り乱れている。


 猫だの犬だのが、出て来た食べ物を奪い合っている。


 鶏や牛の鳴き声がして、おかげで寂しくはないが頭はおかしくなりそうだ。


 これら全て、俺が見ている幻覚なんじゃないかという気すらする。


 戦場でもそうだったが、極限状態では、自分の中に軸が要る。


 それは神仏のお守りでもいいし、故郷の想い人でもいい。


 気の置けない戦友たちでもいい。


 それが何も無い人間はヤケを起こす。


 どうでもよくなる。


 そして死ぬ。


 俺には何がある?


 寒村の農家の8男、継ぐべき家も、舞い込む縁談もなく、ごく自然に軍に志願した。


 そして戦場で重傷を負い、傷痍軍人となったが、廃兵院に入るほどではない。


 俺はまだ働ける……自分でそう思っていたが、なかなか雇口はない。


 いまだに日露戦争の影響で男手は足りないはずだと思っていたが、そんな予想を吹き飛ばすほどの不況ということだ。


 恩給は実家にほとんど送っている。


 地元では結核が流行っていて、親族の多くがこれにやられてしまった。


 母も長く伏せっているが、俺の体では介護するのも現実的ではなく、金を送るのがせめてもの孝行……と言いたいが、罪悪感の穴埋めなのかもしれない。


 結局、何年もその場しのぎのような仕事で食いつなぎ、ようやく手にしたまともな職が、この雑誌記者だ。


 ……そうだ。


 俺は記者なのだ。


 それを、軸にする。


 いまだ出てもいない雑誌。その編集者。


 それでも、俺にはそれしかないのだ。


 それを失った瞬間、俺はこの暗黒に飲まれる気がする。


 いまやランプや街灯で明るくなった周囲だが、明るさという意味じゃなく、ここが、ぽっかり空いた暗闇に感じるのだ。


 地獄に落ちる寸前の穴の上にいるような、強い違和感。


 帰ることもどうでも良くなって来る、脳の麻痺。


 シベリアの睫毛も凍る極寒の中で、戦友が肩を揺らしてくれたあの時そっくりだ。


 あの時、絶対に帰ると思ったからまだ生きているのだ。


 俺は、帰るぞ。


 今度も帰る。


「かき」


 電話先から、マチコの声がする。


 なぜマチコと呼ぶのか。


 それは、「名札」で落ちてきた札に書かれていたのがマチコだったからだ。


 神仏の類ではなさそうだし、怨霊の類なのかもしれない。


 それで気が楽になったのはある。


 怨霊になど、付き合ってられない。


「記者!」


 相手が何を返すとか関係ない。


 俺は雑誌記者だ。


 それをぶつけてやる。


「やそう」


「裏取り!」


「りし」


「取材!」


「いか」


「書き物!」


「のうか」


「カメラ!」


 頭を回転させ、記者に関係あることだけを返す。


 そうすることで、正気を保つ。


 利子なんて気の利いた言葉を知っているのは意外だったが、案外子供は親の言葉を聞いているものだからな……。


 マチコの人物像に近づいている気がするが、それより、今は自分の事だ。


「ラジオ」


「押川春浪!」


「うじこ」


「校正!」


「いえ」


「江戸川乱歩!」


「ぽ……」


 ポから始まる日本語はほとんどない。


 ほとんどが外来語だが、マチコはどのくらい知っているのか。


「ポケット」


 そう来たか。


 ぼとりと床に現れたのは、雑誌『ポケット』だった。


 博文館が出している大衆向け雑誌だ。


 なかなかいい趣味じゃないか。


 博文館と言えば、『新青年』を出している、俺たちがもっとも意識をしている版元だ。


 『ポケット』を手に取り、表紙を眺める。


 ……俺も、生きて帰ったら、こんな雑誌を作ろう。


 腹の中でふつふつと沸き起こる熱。


 やる気、というと陳腐だが、もう一段、腹が決まったような感覚。


 全く根拠はないが、このしりとりの決着は近い気がした。


「徳富蘆花!」


「かい」


「泉鏡花!」


 相手がどう思うなんか知ったことか。


 同じ文字を平気で返す。


「……かき」


 少し気圧されたかのように、マチコが返した。


 俺は帰る。


 そして俺は書くのだ。


「記事!!」


「じしん……あっ」


 俺の勢いに圧されたのか、マチコはついに間違えた。


 「ん」がついたら終わり。


 しりとりの絶対の決まり事。


 ゆえに、世界は急速に白みを帯びていく。


 しりとりで出現した、雑多なものが白い光の中に消えていく。


 俺は勝ったのだ。


 俺は帰ってきた――


「え?」


 白い光の中から、視力が戻って来たとき、俺は信じられないものを見た。

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