第3話

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 西暦六九六年、十一月初旬。

 寒雪の丘を往く商隊の姿があった。

 馬達の木澀もくじゅう(当時用いられた木製の蹄鉄)が雪を抉り、腐った枯れ草や泥が捲れ上がる。

 湿った冷気にカビっぽい土の匂いが混ざって鼻腔にこびりつく。溶ける気配の無い雪は水分を含まず、疲労に倦む商隊の足に粘着した。

 この地域は内陸性の乾燥地帯であり、十一月から十二月までの早冬で踝から膝下の高さまで降雪すると、その後は殆ど降らない。早冬に降った雪は、零下の気温によって春まで保存され、それまで索漠とした極寒の晴天が続く。

 商隊は騎乗しなかった。少しでも多くの荷を載せ、疲れた馬を宥めながらの徒歩の旅だった。

 一五名の商隊は、駄馬を引く五名を先頭に、荷馬車を引く十名が後方に列を為していた。馬が疲れるほどに手綱は重くなり、冷えて血が通わぬ指に食い込んだ。

「――営州で始まったとかいう戦は長引くだろうか」

 先頭を歩くアムグンが呟いた。隊員の殆どが羆や狼の毛皮で仕立てた外套を纏い、アムグンは真っ白な白狐の外套を纏っている。白い毛皮は里の王族のみが纏う装束とされていた。

 皆、麻と羊毛を織った方領の胡服の上に、鞣した革の胴着や小手を身に付け、厚手の毛皮の革履を履いてはいた。

「見当も付きませんな……次の行商までに終わると良いのですが」

 虎のような髭を生やした精悍な老人が答える。

 ――五月の晩春の頃、契丹キタイの首領が唐に不満を抱いて蜂起し、賊を率いて営州を陥落させた――

 この不穏な噂は瞬く間に極東の地に響き渡っていた。

 契丹とは、営州一帯に暮らし東夷と呼ばれた遊牧民の一つだ。唐の北東端に位置する営州には、この契丹をはじめ奚、靺鞨等といった蛮夷とされた人々が暮らしている。

 これらの人々は唐の『羈縻きび政策』と呼ばれる統御政策下に置かれ、営州に強制移住させられていた。領民と見做されぬ為に納税の義務こそ無かったが、軍馬や食料などの輜重を『貢納』する義務を負い、それは領民に課せられた租庸調の義務より遥かに過酷だった。農耕の知識を持たぬ上、農業生産性の低い寒冷地での居住を強いられ、彼らの生活は常に困窮した。

 契丹の反乱はそうした中で起こった。

 半年ほど前。孫万栄と李尽忠なる契丹の首領達が、自らの部族が飢餓に苦しみ、窮状と救済を営州都督に訴えた。然し都督はその一切に応じなかった。首領達は憤激のままに営州都督を殺害、眷属を糾合して軍を組織し、営州を瞬く間に陥落させたのだった。

 契丹軍は今も、唐東辺の地を荒らし回っているという。

 行商の旅の途上で聞いた噂によって、アムグン達は当初目的地としていた営州行きを諦めた。営州はアムグン達にとって高額な取引が期待できる要所だったが、戦続きの乱世においては、時勢に応じてしばしば目的地を変えなくてはならない。

「それはそうと若様、今回の行商の守備はどうでしたかな? 龍神の剣の手掛かりはございましたか?」

 老人がアムグンに尋ねた。

「いいや、何も。もしかしたらタブガチ(唐、中国の他称)の土地には無いのかもしれないな。高句麗の故地にも新羅にも見つけられそうにない」

 アムグンは口の端を上げて言った。言葉の色に気落ちした様子は無かった。

「……龍神が逃げ落ちた地には幾つか私が見立てた候補がある。可能性が高いと思うものの一つが、だ」

「ワですか。確か、東の海にある島国とか言っておりましたか」

「そうだ。文献や聞いた話に拠れば、倭国とは海を隔てた大国で、行っては二度と帰れぬ蛮国とも、仙樹が生い茂る長寿の楽園ともある。女が多く、女帝が統べるともな。だが唐とも長く交流が無く、今は新羅が僅かに国交を通じているのみだという」

 アムグンの覚えにあった倭の女帝の記述とは、遥か数百年前の卑弥呼についてだったが、偶然にも、この時の日本は鸕野讚良という女帝が君臨している。

「女帝……今の唐の帝も女帝でしたな。確か国号を周と変えたとか変えないとか」

 唐皇帝の高宗が死ぬと、暫くしてその皇后の武照が帝位に就き、国号を周とした。周号を名乗った他王朝と区別する為に『武周』と後世の人々は呼んだ。

 ただ、アムグン達をはじめとする領外の人々は勿論、当の唐国民達の認識にとってさえ、周という国号は唐の異称でしかなく、依然として中国の統一王朝の正称は人々の中で唐であり続けた。

「女が多いってのはいいねぇ! 次はそこまで商売に行きましょうや、なあお前ら」

 脇で聞いていた痩せぎすの男が喉仏を弾ませた。後方の商隊の面々が小さく沸いた。

「それはかなり難しいだろうな。新羅にせよ唐にせよ、倭との交流は公の使節に限られている。我々のような者が受け入れられる地では無いかもしれないし、そもそも海を渡る手段も無い。道が通じていると分かっているだけ、安南(現在のベトナム)や西域のほうがまだ行きようがあるよ」

 当時唐は世界中の国々と通交し、西は大秦ローマ、南は安南までの行路が存在する。たとえその道程がどれだけ困難だったとしても、遥か大海を超えた謎の国へ行くよりは、まだ容易い道のように思えた。

「いつか西域に行ってみたい。我々の神話を読み解くに、私達の起源は玉門関の遥か西方、黄河の源流にあると見ている。そこに今も暮らす人々がいるなら、民話でも収集したいものだ」

 アムグンは西の空を見上げた。まだ見ぬ異境の空の果てに一族の秘密が隠されているかもしれない。

「別に若がどんな趣味を持っていようが俺ぁ構いやしませんが、神話を追ってどうするってんですか?」

 痩せぎすの男が片方の手で鼻を掻いた。

「私は単に、自分達の歴史が知りたいんだ」

「ふーん……一族の史書でも残すおつもりで?」

「それは良いですな、皆の事も伝説に残されなさいませ。爺の事はそうですな。『女泣かせの剣豪アトゥコス』と書いて頂きたい」

「けっ、『やもめのアトゥコス』だろうが」

 アムグンは笑った。老人と痩せぎすの男は隊の盛り上げ役だった。

「今回も私の収穫といえば書ばかりだ」

「書の何がそんなに面白いのか、俺にはさっぱりわからないですね。そんなに買っちまって。一財産あるぜ」

 アムグンが引く馬の荷には、袋いっぱいの書が積まれていた。

「だがこうして若様が良い品をお作りなさるのも、その熱意あればこそ。爺は歓迎ですぞ」

 旅の最中、アムグンは意中の書をとある市で見つけ、その持ち合わせの足りない時があった。そこでアムグンは邸店(倉庫を備えた宿泊施設)の部屋の中、一晩の内に金細工を拵えて、暁天を見るや瞬く間にそれを売捌いた。そして日が南中に達するまでにはもう、その書を懐中へと収めていた。商隊の仲間達は、アムグンの金工の離れ業と書への執念にただ感心し呆れるばかりだった。

「冗談を言っている間にもうそろそろ里が見える頃だ。ヒュエン、お前の息子は三歳だったな。どれほど大きくなっているだろうか」

 アムグンが痩せぎすの男――ヒュエンに声を掛ける。

「はは! 四ヶ月そこら空けたくらいで、大きくなってるも何もないっすよ」

 ヒュエンは肩を竦めた。

「何を言っとる。子供というのは小さい時ほど僅かな時間で成長してしまうものだ。ひと月もすれば見ない顔などすっかり忘れている」

 アトゥコスの言葉に、ヒュエンは下唇をめくりあげて首を振る。

「そんなの俺、耐えられない」

「漸く結婚して出来た子だからな。無理もない」

 アムグンが笑った。

「あー早くチビの顔が見たい! 抱っこして頬ずりしたい!」

 一同が笑った。

 ヒュエンは腹いせか意地の悪い顔を浮かべ、傍らの金髪の青年に声を掛けた。

「ヒグニスよぉ、おまえのカミさんは随分と男にモテてたよなぁ。今頃、おまえのいない間に他の男からちょっかいかけられてたりしてなぁ?」

 青年の白い顔は分かりやすく赤くなった。

「スニグは尻軽な女ではない!」

「ああ、あたしの旦那なんて絶対また他に女を作ってるわ、一週間も待たずにね。ま、良い男だから仕方ないけどね」

 中年のそばかす面の女は、幸せそうに頬を緩ませる。

「へえ、へえ」

 ヒュエンは口を窄め、面白くなさそうに首を振った。

 商隊の先頭で談笑するこの五名は、商隊の陣頭指揮を執る一族選りすぐりの精鋭達だ。

 今回の行商の旅では営州に行けなかったものの、例年通り成果は上々だった。疲れ切った彼らの顔はどれも安堵と達成感に満たされ、口数は自然と多くなった。

 故郷では家族が首を長くして商隊の帰りを待っていて、その日の夕餉は年に数度あるかないかのご馳走が並ぶはずだった。

 

 最初、里の異変に気付いたのはアムグンだった。

 山間に覗く丘陵、その彼方に望む一族の集落が雪に埋もれ、廃墟のように閑散としている。

「どういう事だ」

 竪穴住居が幾つも崩されている。通常、竪穴住居は数年おきに取り壊され、また新たな場所に作り直されるが、それは夏場の事だ。弔事や病人が出た時もそうするが、それにしても冬場に複数基を取り壊し、その上ずっと放置しておく事態など考えられない。

 あるはずのユルトも幾つか消失しているようだった。家畜の肥育の為に冬と春に営地を変えるが、冬季はこの山間の地で越冬をするはずだ。

「――戦に巻き込まれたか!?」

 商隊の面々は慄然とした。

「いや、それにしては変だ。急ぐぞ。確かめなければ」

 隊員達は疲れた身体に鞭を打ち、進む速度を上げた。

 不吉な予感がした。

 商隊が集落の端まで一里(約五百メートル)ほどに差し掛かった時だった。

「ひっ!」

 そばかす女が何事か息を呑み、彼方を指差した。

「あ……あれ……! あれって……」

 指の先、商隊が進む道から外れた丘の裾に、一基の竪穴住居が建っていた。

 その住居の足元に、数体の死体が転がっていた。

「ありゃあ……里外れのホイノスの家だよな。まさか一家ごと……」

「なんであんな所に……!」

 死体は無造作に打ち捨てられている。争った形跡は無い。まるで皆、家から出たばかりで突然倒れたような、異様な状況だった。

「死体の上に随分雪が積もっている……十日間以上は放置されているんじゃないか……こりゃあ一体……」

 ヒュエンが憮して言った。

「近付いてはいかんぞ! 様子がおかしい!」

 思わず死体に走り寄ろうとする数名の隊員達を、アトゥコスが鋭く静止した。

「――……これは、まさか……」

 アトゥコスが呻いた。

「とにかく急ごう! 里はもうすぐだ」

 隊員達は皆蒼白になって先を急いだ。

「止まれ! モーリがいる!」

 アムグンが鋭い声で隊を静止させた。

 集落の手前、一人の青年が立っていた。青年はアムグンの弟だった。商隊の姿を見つけたか物音に気付いたか、住居から表に出てきたのだろう。手に剣が握られている。

 一族の宝剣、星神の剣だ。

「アムグン! これ以上近付くんじゃない!」

 青年が大声で叫んだ。今までアムグンが見た事のないような鬼気迫る様子だった。

「モーリ! 何があった!」

「……邪だ! 猛毒の病が里中に流行ってしまった。恐らくもう、俺も罹っている」

 商隊の面々は呆然と立ち尽くした。

「なんだと……」

「ひどい熱と、脇や腿が腫れ上がる奇病だ。最後には血が喉を塞ぎ死ぬ。長老達によれば、昔、近場の集落が病で滅びた事があったらしいが、それと全く同じだそうだ……この病を得て助かる者はいないらしい」

 モーリは時折、酷く咳き込んだ。

 ユーラシア北部に広く生息するげっ歯類には、ある極めて毒性の強い菌を保菌する個体がある。里人の誰かが山鼠マーモットを狩り、感染したのだろう。

 その菌は後世、『ペスト』と呼ばれる事になる。

 モンゴル帝国がかつてない人流をユーラシア大陸にもたらし、この死神を世界に解き放ってしまう以前、死神は古代からずっと草原地帯の森の暗がりに潜んでいた。余りに凄まじい毒性の病は普通、感染者を即殺してしまう為に蔓延までに至らない。死神は森に潜み続け、時折気まぐれにその地に暮らす人々を食らい尽くし、また森に還っていく。それを繰り返していた。

「……父王は死んだ。既に里人の過半数の者が死んだ。俺達は死んだ仲間達を弔い、運命を共にする。父が死んだからには、お前が王だ。お前には生き残り、一族の血と技を世に残す義務がある」

 モーリは淡々と告げた。乾いた枯れ木の静けさだった。

 余りに突然の出来事だった。

 アムグンの思考は止まった。事態の状況を理解するのを拒んだ。

「そんな……」

「王が……」

 アトゥコスを始めとする精鋭達や隊員も、衝撃に言葉も無かった。

「……一年は死骸から病毒が放たれるそうだ。ここにはもう、戻ってくるな」

 モーリが手に持っていた剣をアムグンに向かって放り投げた。

「受け取れ! 神剣はお前が護り継いでいってくれ」

 シャリンと音を立て、星神の剣が大地に刺さった。

 外の様子に気付いたのか、生き残った人々が家々から出てきた。小さな子供や赤ん坊の姿、商隊達の家族もあった。

 集落に暮らす人々は皆、友人であり家族だった。アムグンは彼らの名前の由来も好物も我が事の如く知っている。

「ああ……嘘だ……」

 表に出た人々は一言もなく、ただ黙ってアムグン達を見据えていた。

 自らの終わりを知る者達の顔は、何処か勇敢にさえ見える。人生に訪れた冬、その今際を見送る花弁のひとひらの表情だった。

「なんでよぉ……なんでぇ……」

 アムグンの後ろで、そばかすの女が顔を覆って泣いた。

「おとうさん!」

 現れた人々の中から、幼い男の子が飛び出した。

 ヒュエンの子供だった。久しぶりに会えた父の姿を見て、興奮して飛び跳ねている。

 男の子は父に向かって駆け寄ろうとした。

「だめ! 行けないのよ……」

 母親が必死の形相で子供を抱え込んで制止する。

 目に見えぬ生と死の境界が、商隊と集落の人々の間に存在していた。それを越えれば、二度と戻る事は出来ない。

 母親の腕の中で男の子が暴れる。母親は固く抱き、静かに涙を流していた。

「――おうおう元気に喚いてやがらあ……あーあ、本当だ! ちょっと見ない間にチビが大きくなっちまった!」

 商隊の後ろにいたヒュエンが、いつの間にかアムグンのすぐ横まで歩み出ていた。幼子の父は、妻の腕の中で暴れる我が子の様子を眺め、目尻を垂らして破顔した。

「ただいまあ! レッグよお! 土産がたくさんあるぞお!」

 ヒュエンは叫ぶや、人々の方へ駆け出した。

「――!」

 アムグンは真っ青な顔で、遠ざかるヒュエンの背中を呆然と見送った。まるで何事も無いような明るい表情。然しアムグンは確かに、彼の眦が小刻みに震え、瞬きの度にその湿りが睫毛へと移るのを見たのだった。

「ヒュエン、来ちゃだめ!」

 母親が喉から声を絞り出す。ヒュエンはその声が聞こえないかのように、大きく手を振りながら、平然と人々の方へと駆け寄っていく。

 母親はやがて、諦めたように子を抑えていた腕の力を弱めた。

「おとうさん!」

 解き放たれた男の子がヒュエンに走り寄っていく。

 ヒュエンは朗らかに笑いながら、飛びついてきた息子を抱き上げ、愛おしそうに頬ずりをした。

「元気だったかあレッグぅ! おほぉ、相変わらずほっぺがプニプニだぁ!」

 その光景を呆然と見つめていたそばかすの女と金髪の青年が、ふいに声を上げた。

「――スニグ、俺のいない間に浮気はしてないだろうな!」

「――……今日は久しぶりに、あんたに料理を作ってやるからね! 残したら、許さないから!」

 二人もまた、アムグンの背中を通り過ぎて、自らの家族の元へと向かっていく。

 その時、そばかすの女は、死者の声の儚さでアムグンに告げた。

「……若様。どうか許して下さい。あたしの命は……家族と共に生きる時間の為にありたいのです」

 三人の背を見て、他の商隊の面々も家族を求めて里へと走っていく。

 生と死の境界を超えて。

 どうして、愛する者から取り残され、一人生きる事に喜びを見出だせようか。愛と悼みを知る人という種が、獣の如く放埒に生のみに執着出来ようか。

 永い時の中で、この里人がどういった歴史の変遷を経て、どういった気質をその血に宿すに至ったか、彼ら自身も分かってはいない。

 彼らは冷酷さや逞しさによってではなく、狂おしいほどの仁慈と情愛を生存戦略として、今日まで生き永らえる事が出来た人々だったのかもしれない。

 悲しみに耐えられぬが故に滅びた人類がいたとすれば、それがきっと彼らだった。

 ヒュエンが子供を肩に乗せながら言った。

「若ぁ! もし龍神の剣を見つけられたら、そん時ゃあ、剣の霊験で俺達を生き返らせてください!」

 ヒュエンは戯けて叫び、やがてアムグンをじっと見つめた。幸せそうには到底思えぬ、幸せそうな笑みを浮かべた。

「……生きて下さい、若。我らがここにいた事を。我らがここで笑い暮らした事を。若の子供達の記憶と血に遺して欲しい。どうか」

「行ってくれ。俺達の為に」

 モーリが短く告げた。

 アムグンは膝から崩れ落ちた。

「全く、無責任な連中め。爺一人に若様の世話を押し付けるとは。王臣の気概はないのか」

 アトゥコスが歯の奥を震わせる。両目は赤く充血していた。

「若様! アトゥコス様! どうか達者で!」

「あんたらに並ぶ戦士はいないんだ。どこでもやっていけますって!」

 仲間達は呑気な見送りの声を上げた。一週間もせず死ぬかもしれない者達の見せる笑顔は、底抜けに明るかった。これではどちらが不幸なのか分からないほどだった。

「要らない荷はここに置いておく! 我らが去ったら取りに来い! 今夜は旨い酒と飯をたらふく楽しめ!」

 アトゥコスは血走った目のまま、筋肉を強張らせて無理やり笑みを作った。

「さらばだ皆! 俺もすぐ帰る! 戻ったら、共に語り合おう!」

 アトゥコスが手を振って叫んだ。

 アムグンは焦点の定まらぬ視線のまま座り込み、項垂れた。喉に砂鉄がこびりついたように口の中が乾いて痛み、足には力が入らない。いつのまにか握っていた拳の感覚はなくなっていた。

「うそだ……うそだ……一体、なんで……こんな……」

 譫言を呟き続けるアムグンに、アトゥコスが静かに告げた。

「もう行きましょう、若様……。風向きが変わりそうです。邪が我々の匂いに気付き、こちらまでやって来るかもしれません」

 項垂れたままアムグンが言った。

「……どこに? 家はここだ」

「……貴方はまだ生きねばなりません」

「嫌だ。私もあっちに行く」

「なあに、どうせほんの僅かな時だけの事です。やがて若様が成すべき事を成し遂げたら、その時はまた、皆で楽しく暮らしましょう」

 アトゥコスは口の端を上げてみせた。

 アムグンとアトゥコスのやりとりに、里人は一様に微笑んだ。

「何だか小さい頃の若とアトゥコスを思い出すなあ」

「若は泣き虫だからなあ」

「この先が思いやられるねえ」

 皆、若き王への心配を口にした。

 促されるまま、アムグンはふらつきながら身を起こした。馬に向かうアトゥコスの背を、亡霊の如く悄然と付いていく。

 アムグンは見送る人々を前に、いつまでも無言だった。喉が灼け付くようになって、声が出ない。

 人々から背を向け、馬を牽いて数歩して、漸くアムグンの目から涙が流れ始めた。

 アムグンは勢いよく振り返った。

「――ずっと……! 大好きだから! ずっと! 一緒だから!」

 アムグンは里の人々に向かって、乾いた喉が裂けるほどに声を振り絞った。どうしても、この言葉だけは言わなければいけなかった。

 努めて負を見せぬ里人の健気と優愛に応えねば。この先、どうして彼らを思い起こす資格があるというのか。

 見送る人々を目に焼付けようとした。像が歪んで良く見えない。

「うわあああ! うわああああああ!」

 アムグンは泣き叫んだ。稚児が、家の温もりを求めて彷徨い泣く姿に似ていた。

 時に死は、どんな大人すら耐えられぬ狂気の苦痛を、拷問の如く丹念に味あわせた上で、嗤いながら命を奪っていく。

 生きる意味も幸せも、罪も悪も知らぬ、親の愛のみを唯一の糧として笑う無垢な子供だとしても、そのような死が容赦なく訪れる。

 もしこの余りにも傲慢で不遜な死という存在が、かつて星神と龍神が悪神との戦いに敗れ、逃げ去った故の災禍というなら、その行為の無責任をどれほど呪っても足りなかった。


 白の地平線、二つの影が点描を描く。

 二頭の馬がアムグンとアトゥコスを乗せ、元来た道を戻っていた。

 二人は馬の背で無言だった。馬の足音と、鼻から漏れる荒い息だけが、雪の底に沈んでいく。

「……もしこれが現世の理に過ぎないと言うなら、この虚無の世を生きる意味なぞない、あるものか」

 アムグンは真っ青に窶れ、肉体よりも精神が今にも消え入りそうに衰弱していた。

 天には薄紫の叢雲が流れている。その輪郭は西日を受け、金色に輝いていた。

「帰れると思ったんだ……」

 風に揺れる穂の細茎の如く、天国は天を力なく仰いだまま呟いた。

「ちくしょう……」

 アムグンは壊れるほどに顔を歪めた。

「――爺……本当に……対の剣が交われば、この世の病や死が無かった事になるのだろうか……」

 神話にはそうあった。

「――それとも、人が苦しむ事のない世など、天上や地の底にしかあり得ないのだろうか」

 答えは無かった。


 ――こうして、数千年以上続くと自恃する神代の一族は、呆気なく草原を覆う氷風に消えた。

 この時以来、アムグンが幼年から抱いてきた呑気な夢想は、粘性の赤黒い燐光を放ち始め、アムグンの精神を炙り焦がすようになっていった。

 もう一振りの神剣を見つけ、一対の剣の神通力によって全ての不幸を無かった事にする。

 馬鹿げた絵空事と自笑した、奇跡へのあえかな期待は、自らも気づかぬ内に盲信に変わりつつあった。

 失った物に足るだけの報いが無いなら、どうして人生に意味を見出す事が出来るだろう。失った物への贖罪の始末をどうやってつけられるだろう。

 だから信じなければいけなかった。

 さもなければ、今すぐにでも遠い家族達の元へと走って行きたかった。

 夢は、生きる理由から死なない理由へと変貌していた。

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