星の一族

源一刀斎

序章

第1話

 序章


 西暦六九九年五月初旬。藤原宮、大極殿。

「――それにしてもその名前、まるで蝦夷言葉のような響きだ。我が国の者では巧く聞き分けられまい」

 緑翠の葉を透かす暖色の陽が、朱柱の間を流れる漆塗りの回廊に注がれている。

 本来、使節や臣下が天皇に目通りする広間に、珂瑠(文武天皇)の姿は無い。その代わりに高御座の倚子に鎮座するのは、鸕野讚良(持統上皇)だった。

 高御座の脇には十数人の官人が侍っていた。彼らが如何にも無聊な態度で突っ立っている事に目を瞑れば、静謐な荘厳さに満ちた浄土変相図の光景だ。

 鸕野讚良は、目の前で跪く二人の人物の内、手前の一人に告げた。

「そうだな、うむ……今後は我が国の言葉に倣い、天国あまくにと名乗るがいい」

 天国と呼ばれた人物は、頭を垂れたまま小さく頷いた。黒い長髪をゆったりと三つ編みにして後ろで束ねている。その細く柔らかい髪は、光を浴びて仄かに赤味掛かっていた。長髪から覗く耳は白蝋と見紛う透明さだ。

 右手には、腕の長さほどの細長い革袋が握られていた。

「我ながら『天つ国』とは甚だ佳名を思い付いた。やはり朕には名付けの才があるな」

 壮年期を迎えて久しい女帝は、少女のようにころころと笑った。

「さあ堅苦しいのは終いだ。天国、表を上げよ。お前の顔が見たい。それと叡草えそうよ、お前も礼法を忘れたか。唐に倣い、立ったままで良いと伝えてあるだろう」

 天国とその背後の偉丈夫が立ち上がる。

 天国の垂れた頭がゆっくりと前を向いた。

「ほう、美しい」

 天国は白皙の異人だった。絵具を落としたような紅い唇、髪と同じ黒橡色の涼やかな瞳。纏う衣服は赤紫に冴える平絹の袍。衣服こそこの国の礼装然としていたが、鼻筋の通った白き美貌は、遠い西域や北方の民を彷彿とさせる相だ。

 大極殿を抜ける柔らかい春風が、天国の髪を揺らした。潤みを湛えた漆塗りの板間に佇む様は、泉に化生した精の如くだった。

「叡草よ、遠方からご苦労だった。飽田(秋田の古称、日本書紀にて顎田表記の翌年の条に表れる)の同胞は息災か」

 叡草と呼ばれた偉丈夫もまた、この国では見ない、胡人然とした風貌をしていた。半白の髪は明るい赤茶色をしていて、それを後頭と左右で編み込み束ねている。顔は波斯国の彫刻の如く眉と鼻梁が張り出し、幾つもの皺と古い傷跡が刻まれ、男の壮絶な人生を容易に暗示させた。淡く火山のように燻った灰色の瞳は鋭い光を放ち、誰をも怯ませる類の凄みを有していた。見事な錦の着物を纏っていなければ、到底近寄りがたい異境の蕃人としか印象に残るまい。

「はい、皆国司様が運んで下さる米と酒に喜び、次はいつ来て下さるかと待ち侘びております。おかげで我が集落も豊かになりました」

 腹の底に響く低い声音だった。

「一度お前の集落に行ってみたいものだ。お前の手腕は官人の間でも評判だ。国でも作る勢いだとな。都でもその腕を発揮してもらえれば助かるのだが」

「ご冗談を。私ごときは蛮習しか知らぬ凡愚の徒。そちらに並び立つ君子の皆様の足元にも及ばぬ小人でございます」

 叡草は朗笑して官人達を阿諛した。官人達は仏頂面を貼り付けて微動だにしない。蛮夷の客如きを迎えるのに何故自分達が駆り出されるのだと、不服の態度を隠しもしないようだった。

「ところで叡草。この天国を我が国の鍛冶に推挙するという事だったな。聞けば、鍛え鋳する器物は神器の如く、さらには、武具を振るえば鬼をも恐れるほどの技の持ち主だとか」

「仰る通りでございます」

「朕はあいにく刀も武もさして明るくないが、諸作を検めた鍛冶司かぬちのつかさかみによれば、唐の一級品にも勝ると褒めていた。腕前は確かのようだな」

 天国は鸕野讚良をじっと見つめていた。怖じる訳でも虚勢を張る訳でも無く、何の色も持たぬ眼差し。ただ人の肉の奥の精髄を見透かそうとするかのような澄んだ眼差しだった。

 鸕野讚良は笑みを浮かべた。

「お前には匠としての腕を求めているが、戯れに武の腕前についても試しても良いか?」

 天国が暫しの間を置いて首肯し、手にしていた革袋を足元にそっと置いた。

「よし……駿河、ここへ」

「はい」

 取り分け精悍な、若い官人が天国の前に進み出た。ゆったりとした闕腋の上からは体格を量りかねるが、襟元から生えた首の逞しさが只者ではない事を示していた。両手に二本の竹棒が握られている。官人は片方の竹棒を放り投げ、天国はそれを手に取った。二尺五寸(約七五センチ)ほど、握りやすい太さのそれは、模擬刀と思われた。

「朕に遠慮はいらない。駿河は宮中で最も強い。打ち込んでみよ。戦のつもりでな」

 天国と駿河は竹棒を構えた。どちらも右手で棒を握り、半身になる。

「では」

 一言発し、天国は間合いを詰めた。肩から崩れ落ちるような極端に緩慢な動き。そして、緩急をつけず速度を徐々に上げる独特な所作。

 人間を含めあらゆる動物は、動き出しの際、大なり小なり力を込め瞬発的に加速する。だから人間は無意識にも意識的にも、その加速の起点を察知して反応する。一定速度で加速されるとその起点が分からぬ為、相手の距離や動作を見誤り、反応が一瞬遅れる。

「!?」

 駿河は天国の妙な動きに対し、天国の右手側に回った。

 確かに駿河は素人ではなかった。予期せぬ攻めを受けると凡庸な者は無策に背後に下がるものだが、駿河は天国の死角に回った。間合いを詰めて攻めに転じるか、あるいは間合いに入ってきた腕を突くなり打つなりするのに塩梅が良い。

 だがそれでも、天国の起点の無い踏み込みに、駿河の反応は僅かに遅延した。

 天国は速度を上げながら軸足を瞬時に返して駿河の更に死角側を取って向き直り、懐へ付け入るようにしてみせた。

 動揺した駿河が、竹棒を天国へと振るう。天国の武器を巻き込んで動きを抑えつつ、手首に打ち込むつもりの攻撃。

 然し、いち早く到達したのは、その駿河の手首への天国の一撃だった。

 竹の洞から発する低音の唸り声が一瞬広間に鳴り渡り、駿河の手首の上で静止した。

「まいった」

 駿河は目を丸くして告げた。

 あたかも駿河の動きを全て読んだが如き天国の攻め。厳密には、天国は駿河の動きを読んだ訳ではなく、前もって組み立てた動きを行ったに過ぎない。甘い打ち込みを誘い、後の先を取る。単発の動きではなく、組み合わせた武技を一挙動で行う事でそれを成す。

 官人達は思わず「おお」と声を上げた。

「見事。駿河よ落ち込むな。この天国は大陸では幾つもの戦に従軍し、時に将として兵を率いた稀代の武人だという。戦を知らないお前が勝てないのも道理だ。今後は天国に教えを乞うといい」

 駿河は小さく、はい、と答え、俯きながら官人達の侍る後方に下がっていった。

「鍛冶も武もその腕前に偽り無しか。我が国でも将として使いたいものだ。叡草よ、お前の郷は名馬だけでなく名士まで産するようだな」

 鸕野讚良が称賛する。

「我が国には優れた技術者が足りない。優れた武人もな。何もかも我が国には足りない。お前の力が必要だ。相応の報酬と立場を用意しよう。朕と共にこの国を支えてくれ」

 天国は黙ったまま、先程置いた革袋を拾い上げた。

「……私がこの地で鍛冶を担うにあたり一つだけ願いがある」

 まるで知己にでも話しかけるような言葉遣いの荒さに、鸕野讚良の周囲に侍っていた官人達が、声を発さぬままにざわめいた。この女帝の機嫌を損ねたら最後、どんな恐ろしい災厄が降り掛かるか。

「貴国には草薙剣なる、神代より伝わる剣があると聞いた。それを是非拝見したい。その為に私は海を渡ってここまで来た」

 天国が一言一句を重ねる度、努めて無表情を決めていた官人達の顔色は青ざめ、中には額に汗を滲ませる者もあった。鸕野讚良が一声上げれば、すぐにもこの礼儀を知らぬ蛮夷の武人に飛び掛からねばならない。官人達がこの異貌の二人の前に駆り出されたのは鸕野讚良の護衛の為だったが、自らの五体は惜しかった。

 鸕野讚良は笑みを作ったままだ。

「天叢雲剣か。知っているだろうが、あれは我国の神宝でな。霊気に障って病を得る故、然るべき場所にお祀りしている。この宮にある形代なら幾らでも見せてやるが、それでは不服か?」

「形代とはどのようなものだろうか?」

「本物には及ばないが形代もかなり古いぞ。朕から三一代も遡る御間城尊みまきのみこと(崇神天皇)の頃に造られたものだ。国振立命くにふるたちのみことなる鍛冶に打たせたという」

「……時代が違うのであれば、やはり本物が良い」

「何故、そうまでして草薙を見たいのだ? 海を渡るのは命懸けだ。余程の理由があるのだろう?」

 鸕野讚良が問う。

「……」

 天国は黙したまま官人達を一瞥し、右手に握る長い皮袋を差し出した。

 官人の一人が歩み寄り、その袋を受け取った。高御座の倚子に座る鸕野讚良の元へと早足に向かっていく。

「まず、この剣を見てもらいたい。我が一族に伝わる神剣だ」

「何を持っているかと思ったら、その袋には剣が入っていたか」

 鸕野讚良は革袋から出された剣を手に、言った。刀は天国らが宮中に入る折、事前に許可を得て持参したものだった。本来宮中では限られた官吏以外、武器を持ち込んではならない。

「……随分古い剣に見えるが……漢代のものか?」

 鸕野讚良は剣を両手で支えながら、興味深げに眺め回した。

 袋から取り出された刀剣は二尺(約六〇センチ)に満たない小振りな両刃の剣だった。全体が黒光りする銀色の金属で出来ている。刀身の付け根には魚の背骨のような突起があり、鈎の如くせり出している。柄には竹のような節が刻まれていた。

「この剣は鉄で造られた。だから漢代という見立ては最もだ。だが、この剣は更に太古に遡る。今より三千年ほど前に我が祖先が鍛えたものだという」

「三千年だと! 秦代や商代に遡る武具は皆、銅や石で作られていると聞いた事があるが……」

「我が一族の神話に拠れば、この神剣にはもう一振り対の剣があるという。その対が貴国の草薙剣かもしれないんだ」

 それまで閑寂の態度を保っていた天国だったが、剣の説明には些かに熱がこもっていた。

「どうだろうか。この剣は、貴国の神剣に似ていないか?」

「……さて、な」

 鸕野讚良は天国の質問に応えなかった。

「――もし我国の草薙剣が、お前の予想通りに対の剣だと分かったらどうするつもりだ。奪って逃げるつもりか?」

 天国は目を伏せた。艷やかな深い茶色の床面にぼんやりと姿が溶けていた。

「……どうもしない。貴国の神剣はあくまでも貴国のものだ。叶うなら、ただそれの間近に近づき、そうだな……傍らにこの剣を並べるなりして、暫く眺める。そうしたら終わりだ」

「得心が行かないな。それだけの為にはるばるこの地に来たのか」

 眉を寄せる鸕野讚良に、天国は訥々と言った。

「それが……私の夢だった。そして我が一族の悠い翹望でもある……恐らくな。本当にそれだけなんだ」

「そうか。さぞ一言では語れぬ歴史をお前の一族は宿しているのだろう。お前の人生もな。才人であれば尚更だ」

 天国の言葉に鸕野讚良は頷くと、倚子の背もたれに肘を掛けしなだれた。

「よし……ではその一族の事や神話とやらの事、朕に聞かせてみろ。お前の事がもっと知りたい。お前の人生が面白ければ本物の草薙剣を見せてやる」

 鸕野讚良は鷹揚な仕草で、背もたれに預けた腕で頬杖をついた。

 天国は暫く考え込み「わかった」と小さく答えた。

「だがどこから話したものか。短く話す自信がないし、私はまだこの国の言葉が達者ではない。無礼な口を利いては申し訳ない」

 官人達の数人は思わず互いの顔を見合わせた。鸕野讚良は吹き出した。

「良い。朕は暇だ。もう言葉も選ばずに良いぞ。忌憚なく話せ」

「そうか、ならば安心だ。こんな場で緊張しているが、本当は、私は結構よく喋るんだ」

 ほんの僅かに天国の表情が崩れた。

 天国は思い出すように天を仰いだ。天井の朱色の梁の間には、見事な絵画が所狭しと描かれていた。仏画ではない。この国に伝わる神話の絵図か何かだろうが、天国には見当が付かなかった。

「……一族の神話に拠れば、人の内で最初に鋼鉄の秘密を手に入れたのが私の一族だと伝わっている。以来、我らは大陸中の人々に鉄の秘技を分かち授けながら生きてきたという」

「何と興味深い。『鉄の一族』というわけか。神話や伝説の類は、遥か西域から辺境の蛮族のものまで集めさせたが、これは聞いた事がない」

 鸕野讚良は好奇心の虜となって、身を乗り出した。

 天国は目を細めた。

 一族の神話を思い出す時は、母の声が聞こえるような気がした。母が、父が、あらゆる人々が、様々な表情で、様々な場所で、天国に伝説や物語を話して聞かせてくれた事を思い出す。

 遥か草原の薫風の追憶。

 思えばあの時から、醒めやらぬ夢寐の彷徨は続いているのだ。

 天国と名付けられた異邦人――アムグンはゆっくりと言葉を紡いだ。母や一族の姿を一つ一つ思い起こしながら。

「――私の一族の祖神は星辰の神だという」

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