凍土の残照:五稜郭に散る夢
不思議乃九
凍土の残照:五稜郭に散る夢
凍土の残照:五稜郭に散る夢
北の大地、蝦夷――そこは季節を置き忘れたかのように、鋭い風が絶えず吹き抜ける場所だった。
明治二年の春。箱館の街を見下ろす五稜郭は、その名の通り巨大な星の形を大地に刻んでいた。しかし、その星はかつて徳川の威信をかけて築かれた堅牢な城塞ではなく、今や滅びゆく武士(もののふ)たちの最後の揺りかご、あるいは巨大な棺桶のようにも見えた。
土方歳三は、高く組まれた土塁の上に立ち、南の海を見つめていた。
かつて京の街を震撼させた「新選組副長」の面影は、そこにはない。漆黒の洋装に身を包み、腰には愛刀・和泉守兼定。そしてフランス製の革靴を履いたその姿は、時代の荒波を無理やりその身に引き受けた者の異形(いぎょう)な美しさを放っていた。
「……もうすぐ来るな」
土方は独りごちた。風が彼の長い髪を弄ぶ。
視線の先、箱館湾には新政府軍の艦隊が黒い煙を吐き、静かに、しかし確実に死の包囲網を狭めてきている。
第一章:滅びの美学
五稜郭の中では、兵士たちが慌ただしく動き回っていた。
かつて幕府に仕えた者、主君を失い居場所を求めて北へ流れてきた者。彼らに共通しているのは、もはや守るべき領地も、奉るべき将軍もいないということだ。
「土方先生、総裁がお呼びです」
若い伝令の声に、土方はゆっくりと振り向いた。その瞳は冷徹なまでの冷静さを湛えているが、奥底には消えることのない情熱の残り火が揺らめいている。
総裁局に向かう廊下で、土方はかつての仲間の顔を思い浮かべていた。
近藤勇――流山で散った、己の魂の片割れ。
沖田総司――病に倒れ、剣を置いた天才剣士。
彼らは皆、この新しい時代には連れてこられなかった。
土方は、自分が生き残っていることに、ある種の「罰」のようなものを感じていた。自分は、彼らが信じた「誠」という文字を、この北の果てまで運び続けなければならない。たとえそれが、どれほど重く、無意味なものだとしても。
榎本武揚との会談は短かった。榎本は理想に燃え、この地に武士の理想郷を作ろうとしていたが、土方の目はより現実的な、そしてより絶望的な未来を見据えていた。
「榎本さん。俺は、勝つためにここに来たわけじゃない」
「……では、何のために戦うのです。歳さん」
土方は薄く笑った。その笑みは、凍った湖面に走るひび割れのように冷たく、美しい。
「侍として死ぬためだ。 幕府という船が沈むなら、その一番底で最後まで足掻いてやるのが、旗本の端くれだった俺の役割だ」
第二章:一文字の「誠」
五月の声を聞くと同時に、箱館総攻撃が始まった。
降り注ぐ砲弾は、五稜郭の美しい星形を無慈悲に削り取っていく。大地が震え、火柱が上がり、かつての「武士の世」が文字通り灰燼に帰していく。
土方は自ら馬に跨り、一本木関門へと向かった。
彼に従うのは、新選組時代からの生き残りや、彼の心意気に惚れ込んだ精鋭たちだ。
「死にたい奴は、俺の後ろをついてくるな! 生きて新しい世を見たい奴も、道を開けろ!」
土方の咆哮が、戦火の音を切り裂いた。
彼は知っていた。自分がここで戦うことに、政治的な意味などない。ただ、武士という生き方が、どれほど誇り高く、どれほど愚直なものであるかを、この歴史に刻みつける必要があるのだ。
馬を走らせる土方の脳裏に、かつての多摩の風景がよぎる。
薬を売り歩いていた青い日々。バラガキと呼ばれ、何者かになりたいと願っていた自分。
新選組という居場所を見つけ、剣一本で天下を動かそうとした狂おしい季節。
それらすべてが、今、この一瞬の疾走に集約されていく。
第三章:星の墜つる時
一本木関門の激闘の中、土方は馬上で剣を振るった。
銃弾が空気を切り裂く音が止まない。
部下たちが一人、また一人と倒れていく。
「副長! ここは一度引きましょう!」
叫ぶ隊士を、土方は一喝した。
「引く場所など、もうどこにもない!」
その時だった。
一発の銃弾が、彼の腹部を貫いた。
衝撃は、驚くほど静かにやってきた。
土方は落馬し、泥濘(ぬかるみ)の中に膝をついた。赤い鮮血が、彼が愛した黒い洋服を濡らしていく。
視界が霞んでいく中で、彼は空を見た。
五稜郭の空は、どこまでも高く、どこまでも青かった。
あの大砲の煙の向こうに、かつての仲間たちが笑っているような気がした。
「……これで、いいんだな。近藤さん」
彼は和泉守兼定の柄を固く握りしめた。
徳川幕府のために、あるいは侍という矜持のために。
彼は、己の人生をすべて使い切った。一分一秒の無駄もなく、彼は「土方歳三」を演じきったのだ。
エピローグ:北の記憶
五稜郭の陥落とともに、戊辰戦争は幕を閉じた。
新しい時代が始まり、武士は刀を捨て、かつての戦場は公園へと姿を変えた。
しかし、今でも北の風が強く吹く夜、五稜郭の土塁に立つ男の影が見えるという。
それは、時代の終わりを見届け、侍として死ぬことを選んだ一人の男の執念か。あるいは、夢破れた者たちの魂が還る場所としての、最後の光跡か。
星の形をした城塞は、今も大地に刻まれている。
かつてそこに、命を燃やして「浪漫」を貫いた男がいたことを、沈黙のうちに語り続けている。
【了】
凍土の残照:五稜郭に散る夢 不思議乃九 @chill_mana
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