回想4 DJ・神谷

 放送局のロビーは、昼間でも薄暗かった。

 高い天井から吊るされた照明は意図的に光量を落とされ、ガラス越しの陽光すら、ここではどこか現実味を欠いて見える。

​ 相馬は受付で名刺を差し出し、「警視庁の相馬です。神谷さんにお約束があります」と告げた。

 数分後、エレベーターの扉が開くと同時に、一人の男が現れた。

​ 神谷恒一。

 写真で見た通りの、清潔感のある会社員風の男だ。しかし、その歩き方には一切の迷いがない。まるで、あらかじめ引かれた目に見えない線の上を正確に辿っているかのようだった。


​「お待たせしました」


​ その第一声を聞いた瞬間、相馬の背筋に冷たい震えが走った。

 アーカイブで聴いたあの声だ。だが、生で聴くそれは、鼓膜を震わせる以上に、脳の奥底に直接置かれるような、奇妙な重量感があった。

​ 案内された応接室の壁には、額装されたリスナーからの手紙が並んでいる。

 『死にたい夜を越えられました』『あなたの声が、私の唯一の居場所です』。

 切実な感謝の言葉たちが、神谷の「実績」として静かに相馬を威圧した。


​「警察の方が来るのは、初めてじゃありません。落とし物の確認や、ストーカー被害の相談などで、よく協力させていただいています」


​ 神谷はそう言って、柔和に苦笑した。


​「今回も何か、お手伝いできることが?」

​「いくつか事件がありまして」


​ 相馬は、相手の反応を逃さないよう目を凝らしながら続けた。


​「犯行直前、被疑者があなたの番組を聴いていた可能性がある。それも、一件や二件じゃない」


​ 神谷は、眉ひとつ動かさなかった。

 驚きも、困惑も、もちろん怯えもない。ただ、深く納得したようにゆっくりと首を振った。


​「……そうですか。それは、心苦しいことです」


​ 相馬は、そのあまりに凪いだ反応に苛立ちを覚えた。


​「否定はしないのか?」

​「否定できることではありませんから」


​ 神谷は、慈しむような眼差しで言った。


​「深夜二時。世界から取り残されたような孤独の中にいる人々が、私の声を求めてくださる。その中には、崖っぷちに立っている人もいるでしょう。私の番組が彼らに寄り添う最後の糸だったのだとしたら……その糸が切れたとき、何かが起きてしまう可能性は、否定できません」


​ 理にかなっている。自らの影響力を認めつつも、その責任の所在を「深夜という時間」や「リスナーの精神状態」へと巧みに分散させている。


​「もしあなたの放送を聴いて犯罪が誘発されているとしたら?」


​ 神谷は、少しだけ視線を天井へ向け、言葉を吟味してから答えた。


​「人は、言葉で救われるものです。もしかしたら私が発した言葉が誰かに影響を与えているかもしれません。ですが、救われるということと、理性を手放すということは、紙一重なのかもしれません」


​ 滑らかすぎる。まるで、何千回も繰り返されてきた聖句のように。


​「番組で、特定の行動を促すような言い回しをしたことは?」


​「……可能な限り、避けています」


​ その一言に、わずかな**「溜め」**があった。

 

 プロの話し手として、沈黙の長さをミリ秒単位でコントロールしている男が、ここで間を置いた。相馬は見逃さなかった。


​「避けている、とは。……やろうと思えば、できるという意味か?」


​「言葉の専門家ですから」


​ 神谷は、まっすぐ相馬の瞳を見据えた。


​「深夜、意識が混濁したリスナーの耳元で何を言い、何を言わないか。その選択がどれほど重いか、私は誰よりも自覚しています。だから私は、彼らの『心の雑音』を取り除いてあげたいだけなんです。彼らが、彼ら自身の本当の望みに気づけるように」


​ 相馬の中で、警鐘が鳴り響いた。

 彼自身の本当の望み? 殺人を犯した被疑者たちが、それが「自分の望みだった」とでも言うのか。

​ 神谷に促され、録音スタジオを見学した。

 防音材に囲まれた、完全な無音の空間。高性能のマイクと、整然としたミキサー。

 

「生放送ですよね。記録は?」


​「ええ。言葉は、その場で消えていくからこそ意味がある。私は、そう信じています」


​ 神谷はマイクを愛おしそうに眺めた。

​「録音された言葉は死体です。生放送で、たった今、空気の振動として伝わる言葉だけが、人の魂に触れることができる」


​ 消えていく。残らない。

 だからこそ、被疑者たちの記憶からも消え、証拠としても残らない。

​ 別れ際、相馬は神谷の背中に投げかけた。


​「あなたの声が、誰かの殺意を解き放っているとしたら。それでもあなたは、善意のつもりで続けるのか」


​ 神谷は立ち止まり、振り返った。その表情は、どこまでも澄んでいた。


​「もし私の番組で誰かが傷ついたというのなら、それは悲しいことです。……ですが刑事さん、私はこれからも、夜に怯える人たちのために喋り続けますよ。それが私の、この声を与えられた者の使命ですから」


​ 嘘ではない。彼は本気で、自分を聖職者のように思っている。

 それが一番の絶望だった。

​ 放送局を出た相馬は、反射的に耳を塞ぎたくなった。

 証拠はない。違法性もない。

 ただ、あの穏やかな声が、何万人もの無防備な脳内に「毒」を滴らせ続けている。

​ 善人という名の怪物が、今夜もマイクの前に座る。

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