回想3 声だけが残っている

 相馬は、三人の被疑者の生活記録を横一列に並べた。

​ 家族構成、勤務先、通院歴、資産状況、ネット上の検索履歴。

 どこを切り取っても、彼らは「真っ白」だった。

 過激な思想も、特定の宗教への傾倒も、ギャンブルの借金もない。SNSでの発言さえ、天気や食事の話題に終始するごく平均的な市民だ。

​「……まともすぎる」

​ 相馬は、指先で資料を叩きながら呟いた。

 共通点があるとすれば、それは「疲労」だった。

 終わらない残業、埋まらない孤独、出口のない将来への不安。だが、そんなものは現代を生きる日本人の大半が抱えている「慢性疾患」のようなものだ。それだけで、ある日突然、見ず知らずの人間にナイフを突き立てる理由にはならない。

​ 相馬は、被疑者の自宅写真に視線を落とした。

 狭いワンルーム。整理整頓はされているが、どこかモデルルームのような空虚さが漂っている。

 その枕元に、スマートフォンとイヤホンが、祈りの儀式の道具のように置かれていた。

​ 画面には、ラジオアプリのロゴ。

 『ナイト・ライン』。

​ 相馬は、供述調書の記述をなぞる。

​ ――番組の内容は、覚えていない。

 ――ただ、あの声だけは離れない。

​ 取り調べの際、相馬が「何がそんなに良かったのか」と問い詰めると、彼らは一様に困ったような、それでいて恍惚としたような表情を見せた。

​「……うるさかったものが、消えたんです」

​「考えなくてよくなった、というか……」

​「もう、何も決めなくていいんだって。そう思えたんです」

​ どれも抽象的で、掴みどころがない。

 だが、相馬は戦慄した。これは、癒やしなどではない。**「思考の放棄」**だ。

​ 相馬は裏付け捜査のため、被疑者の一人の同僚を訪ねた。

「事件前、彼に変わった様子はなかったか」

 同僚は、少し言い淀んだ後にこう答えた。

​「……むしろ、憑きものが落ちたみたいに元気そうでした。最近、夜が『楽』になったんだって、笑ってましたよ」

​ また、別の被疑者の妻も同じ証言をした。

「あんなに酷かった不眠症が、急に治ったんです。ラジオを聴き始めてから、『もう迷わなくて済むから、ぐっすり眠れる』って……」

​ 睡眠導入剤も、カウンセリングも必要ない。

 ただ、深夜二時に流れる「あの声」に耳を預けるだけで、彼らの苦悩は消えた。

​ 相馬は、彼らの再生履歴を徹底的に洗った。

 ほぼ毎晩。決まった時間。

 だが、番組にメールを送った形跡も、SNSでハッシュタグをつけて呟いた形跡もない。

 彼らはただ、静かに「受け取って」いただけだった。

​ 相馬はメモに、殴り書きの言葉を連ねる。

​ ――声による、感覚の麻痺。

 ――「意味」の剥奪。

 ――倫理的判断の「中空化」。

​ そして、一つの恐ろしい仮説に突き当たる。

​ 人が人を殺すとき、そこには通常「葛藤」がある。

 憎しみ、恐怖、あるいは防衛本能。脳内の雑音が、引き金を引く指をわずかに躊躇させる。

 だが、もしその「雑音」そのものを消し去る技術があるとしたら?

​ 善悪を判断するための「迷い」すらも、苦痛な雑音として取り除かれてしまったとしたら。

 彼らは「操られた」のではない。

 ただ、「殺してはいけない」と踏みとどまるための心の摩擦係数が、あの声によってゼロにされたのだ。

​ 相馬は、ペンを置いた。

 

 被疑者たちが口にした「静かになった」という言葉。

 それは、嵐が去った後の静寂ではない。

 ブレーキを失った機械が、無音で滑走を始める瞬間の――死のような静寂だ。

​ 説明はできない。証拠もない。

 だが、相馬の耳の奥には、アーカイブで聴いたあの声が、低温の耳鳴りのように居座り続けていた。

​ 意味は残らない。

 ただ、声だけが、血の跡のように残っている。

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