第2話 最初のお客様は血まみれ
「おい! 生きてるならこっちだ!」
俺は店の戸を開け放ち、熱風の中に怒鳴った。
返事はない。
風の音と、地鳴りのような重低音だけが響いている。
視界の端で、倒れている人影が見えた。
店からほんの数メートル。
岩陰に半身を預けるようにして、ぐったりとしている。
動かない。
死んでいるのか。
「クソッ……」
見なかったことにするか。
扉を閉めて、鍵をかけて、布団を被って震えていれば安全だ。
ここは99階層。
死体が一つや二つ転がっていても不思議じゃない。
俺は扉のノブを握りしめた。
手汗で滑る。
心臓がうるさい。
でも、さっき悲鳴が聞こえた。
直前まで生きていた。
なら、まだ間に合うかもしれない。
「……ええい、ままよ!」
俺はバットを腰に差すと、サンダル履きの足で岩盤を踏みしめた。
店から出る。
一歩。二歩。
肌がチリチリとする。
だが、熱くない。
俺の動きに合わせて、金色の薄い膜――『絶対安全圏』も移動してくるからだ。
俺が歩けば、安全地帯も歩く。
俺の半径5メートル以内なら、たとえマグマの中でも涼しい顔で歩けるはずだ。
倒れている人影に近づく。
「うわ……」
酷い有様だった。
全身を覆う銀色の鎧は、何かの爪で引き裂かれたように捲れ上がっている。
隙間から見える布地は、赤黒く染まっていた。
血の匂いが鼻をつく。
硫黄の臭いと混じって、強烈な吐き気を催させる。
「おい、聞こえるか」
俺は膝をつき、肩らしき部分を揺すった。
反応なし。
重い。
全身金属の塊みたいだ。
上空で「ギャオッ」という鳴き声がした。
風切り音。
戻ってきやがった。
さっきのドラゴンか、別の個体か。
悠長に脈を測っている時間はない。
俺は相手の脇の下に腕を差し込んだ。
「せえ、のっ!」
持ち上がらない。
嘘だろ。
見た目は華奢なのに、装備の重さが尋常じゃない。
鉛でも着込んでいるのか。
俺は抱え上げるのを諦めた。
両手で相手の襟首を掴み、地面を引きずることにする。
岩盤の上を、金属が擦れる音がした。
ガガガ、と不快な音が響く。
ごめんよ。
背中が痛いだろうが、焼け死ぬよりはマシだろ。
「ふんっ、ぬっ……!」
一歩ずつ後ずさる。
店までの距離、わずか3メートルが遠い。
空から巨大な影が落ちてくる。
熱波が結界の膜を揺らす。
俺は死にものぐるいで足を動かした。
店の入り口が見える。
敷居を跨ぐ。
そのまま勢いよく、店内へ引きずり込んだ。
ズザザザッ!
勢い余って、俺は尻餅をついた。
助けた相手も、床の上をごろりと転がる。
すぐに起き上がり、引き戸を蹴り閉めた。
バタンッ。
直後、ドォンという衝撃音が外でした。
何かが店の前に着地した音だ。
だが、中までは入ってこられない。
この店自体が、俺の『城』であり『結界』の一部として機能している。
「はぁ……はぁ……」
肩で息をする。
助かった。
とりあえず、俺は助かった。
床を見る。
銀色の塊が転がっている。
綺麗な木の床に、どす黒い血溜まりが広がっていくのが見えた。
「……掃除、大変そうだな」
現実逃避気味な感想が口をつく。
いや、そんなことを気にしている場合じゃない。
生きてるのか、これ。
俺は恐る恐る近づいた。
相手は仰向けになっている。
顔を覆っていた兜のバイザーが、半分ほど砕けていた。
隙間から、顔が見える。
白い肌。
血の気の失せた唇。
そして、銀糸のような長い髪が、血と泥で固まって張り付いている。
女だ。
しかも、若い。
こんな深層に、若い女が一人?
「おい、大丈夫か」
俺はタオルを取りに行こうと立ち上がった。
まずは止血だ。
ポーションなんて高級品は持っていないが、清潔な布と水はある。
あと、食料庫に『薬草(低品質)』があったはずだ。
すり潰せば多少の効果はあるかもしれない。
背を向けて、厨房へ歩き出そうとした瞬間だった。
ジャリッ。
床板を踏みしめる音がした。
背筋が凍る。
今の音は、俺の足音じゃない。
「――動くな」
低い声。
鈴を転がすような美声だが、そこには明確な殺意が込められていた。
背中に、冷たくて尖ったものが触れる。
布一枚隔てた皮膚が、粟立つのを感じた。
「……えっと」
俺は両手を上げた。
ゆっくりと振り返る。
さっきまで死体のように転がっていた女が、膝立ちになっていた。
右手には、折れた剣。
その切っ先が、俺の喉元に突きつけられている。
バイザーの奥。
青い瞳が、俺を射抜いていた。
焦点が合っていない。
虚ろで、混濁している。
けれど、その瞳の奥にある『光』だけは消えていない。
獲物を狩る獣の目だ。
「貴様……何者だ」
女が掠れた声で問う。
剣先が震えている。
力の入らない腕を、気力だけで支えているのが分かった。
俺は唾を飲み込む。
否定しなきゃいけない。
俺は敵じゃない。
ただの通りすがりの定食屋の店主だ。
でも、この状況で信じてもらえるか?
ダンジョンの99階層。
目の前には、エプロン姿の男。
不自然すぎる。
俺が逆の立場なら、迷わず「新手のヒューマノイド型モンスター」だと判断して突き刺すだろう。
「あの、俺は……」
言いかけた時、女の体がグラリと揺れた。
限界が近い。
そのまま倒れ込むかと思った。
違った。
女は倒れる勢いを利用して、さらに剣を押し込んできたのだ。
切っ先が、俺の喉の皮膚を薄く切り裂く。
チクリとした痛みが走る。
こいつ、正気か。
意識が飛びそうなのに、攻撃を選択しやがった。
「答えろ。ここは……貴様の巣か?」
女の瞳孔が開いている。
会話が成立しているようで、していない。
俺の返答次第では、このまま首を貫かれる。
俺のスキル『絶対安全圏』は、俺に対する害意ある攻撃を防ぐ。
だが、今は距離が近すぎる。
「結界の膜」は俺の皮膚の表面にあるわけじゃない。
半径5メートルの空間を遮断するものだ。
すでに懐に入り込まれた相手、それもゼロ距離からの物理攻撃に対しては、自動防御が働かない場合がある。
つまり。
俺の命は今、この血まみれの指先一つにかかっている。
俺は震える声で、できるだけ優しく言った。
「……巣じゃない。店だ」
「店……?」
女の動きが止まる。
理解できない単語を聞いた、という顔だ。
「そう、店だ。飯を食わせる場所だ」
俺はゆっくりと、腰のエプロンを指差した。
「腹、減ってないか?」
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