ダンジョン深層の『安全地帯』で、S級冒険者に定食を振る舞うだけの簡単なお仕事

九葉(くずは)

第1話 地獄の底のマイホーム

「……あちぃ」


目が覚めて最初に出た言葉は、それだった。


まぶたを開ける。

視界が赤い。

夕焼けの赤じゃない。もっとドロドロとした、暴力的な赤だ。


俺は半身を起こし、周囲を見渡した。


地面は黒く焦げた岩盤。

あちこちの亀裂から、オレンジ色のマグマが噴き出している。

空気は硫黄の臭いで満ちていて、息を吸うだけで喉が焼けるようだ。


「……ここ、どこだ?」


俺は記憶を手繰る。

確か、ギルドの呼び出しに応じたはずだ。

支部長の部屋に通されて、床の魔法陣が光って、それから。


『君には期待しているよ、トオル君』


あいつ、笑ってやがったな。

俺の脳内で、支部長のニヤけた面が再生される。


俺は慌てて腰のベルトポーチを確認した。

ギルドカードが入っている。

現在地を表示させる。


【現在地:奈落のダンジョン・地下99階層】


「ふざけんな!」


俺はカードを地面に叩きつけた。


99階層。

通称『神々のゴミ捨て場』。

人類未踏破。

S級冒険者ですら、70階層を越えれば「死んだほうがマシ」と言い残して帰還する場所だ。


そんなところに、戦闘力皆無の結界師を一人?

左遷じゃない。

これは明確な死刑宣告だ。


「ギャオオオオオッ!」


空気が震えた。

頭上を見上げる。


岩盤の天井付近を、巨大な影が旋回していた。

翼の差し渡しだけで20メートルはある。

全身が赤い鱗に覆われた、本物のレッドドラゴンだ。


目が合った気がした。

トカゲ特有の無機質な瞳孔が、俺という餌を捉える。


「ヒッ……」


喉が鳴る。

死ぬ。

食われる。

炭になる。


恐怖で腰が抜けそうになるのを、俺は奥歯を噛み締めて耐えた。

まだだ。

まだ手はある。

俺には、これしか能がないが、これだけは誰にも負けないスキルがある。


「──『絶対安全圏(サンクチュアリ)』!」


俺を中心に、半径5メートルの空間が淡い光に包まれた。

金色の薄い膜が、半球状に展開される。


ズドンッ!!


直後。

ドラゴンの吐いた火球が、俺の真上で炸裂した。

爆音。

視界が炎で埋め尽くされる。


だが。


「……熱く、ない」


俺は目を開けた。

鼻先数センチのところに、炎の壁がある。

けれど、結界の内側には熱波一つ入ってきていない。

冷房の効いた部屋のように快適なままだ。


炎が晴れる。

上空のドラゴンが、不思議そうに首を傾げているのが見えた。

もう一発、火球が飛んでくる。

弾く。

三発目。

弾く。


ドラゴンは興味を失ったのか、あるいは「硬すぎる石ころ」だと判断したのか、鼻を鳴らして飛び去っていった。


「はぁ……はぁ……」


その場にへたり込む。

助かった。

俺のスキルは、ダンジョン最深部でも通用する。


『絶対安全圏』。

俺がその場に留まっている限り、半径5メートル以内のあらゆる攻撃・干渉を無効化する。

物理、魔法、状態異常、温度変化。

すべてシャットアウトだ。


「とりあえず、死にはしない。……でも」


俺はアイテムボックス(黒い革袋)を開けた。

中には、支部長が「餞別」だと言って持たせた物資が入っている。


確認する。

大量の木材。

魔導コンロ。

調理器具一式。

米、肉、野菜、調味料の山。

そして、『簡易店舗設営キット(魔導式)』。


「……ここで店を開けってか?」


正気じゃない。

客なんて来るわけがない。

来るのはドラゴンかキマイラか、あるいは悪魔くらいだ。


だが、文句を言っても腹は減る。

それに、この殺風景な岩場で野宿は精神衛生上よろしくない。


俺は『簡易店舗設営キット』を取り出した。

小さな立方体の魔道具だ。

地面に置き、魔力を流す。


ボムッ。


白煙と共に、岩盤の上に「それ」が現れた。


木造平屋建て。

小奇麗な暖簾(のれん)がかかった引き戸。

赤提灯。

どう見ても、日本の昭和時代にあったような「定食屋」だ。

地獄の99階層に、あまりにも不釣り合いな異物。


「……シュールすぎるだろ」


俺は一人ごちる。

だが、壁があるというのは安心感がある。

俺は結界を維持したまま、引き戸を開けて中に入った。


店内は6畳ほどのスペースだ。

L字型のカウンター席が6つ。

奥に厨房。

壁には手書きのメニュー札をかけるスペースがある(今は空白だ)。


厨房に入る。

魔導コンロの火力を確認。

水道(魔石式)の水量確認。

冷蔵庫の稼働確認。


完璧だ。

ライフラインは、地上よりも充実しているかもしれない。


「よし」


俺はエプロンを取り出し、腰に巻いた。

別に誰に見せるわけでもない。

単なる気合入れだ。

料理人の制服を着ると、恐怖が少しだけ薄れる気がする。


まずは湯を沸かそう。

温かいお茶でも飲んで、落ち着くんだ。

ヤカンを火にかける。


シュー、という静かな音が店内に響く。

外では溶岩が煮えたぎっているはずだが、防音もしっかりしているらしい。

ここは別世界だ。


平和だ。

静かだ。

俺はこのまま、ここで寿命が来るまで引きこもってやろうか。

そう思い始めた、その時だった。


『ギャアアアアッ!』


外から、つんざくような悲鳴が聞こえた。

人間の声だ。

しかも、女の声だ。


「……え?」


俺は硬直した。

99階層に、人間?


俺以外に、こんな地獄に送り込まれた奴がいるのか?

それとも、自力でここまで降りてきた化け物みたいな冒険者か?


どちらにせよ、尋常な状況じゃない。

悲鳴は店のすぐ近くだった。


見捨てるか?

俺がここから出れば、結界は消えるわけじゃないが、移動にはリスクが伴う。

関われば巻き込まれるかもしれない。


だが。


『痛い、嫌だ、死にたくない……ッ!』


声が、切迫していた。

俺がさっき感じた恐怖と同じ色が乗っている。


「……クソッ!」


俺はカウンターの下に置いてあった『店主の護身用バット(ミスリル製)』を掴んだ。

武器なんて振るったことはない。

けれど、目の前で誰かが死ぬのを黙って見ているほど、俺はまだこの世界に染まりきっちゃいない。


俺は勢いよく店の引き戸を開けた。

熱風が吹き込んでくる。


「おい! 生きてるならこっちだ!」


俺は怒鳴った。

地獄の底で、最初の営業が始まろうとしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る