にちにち是好日

和樂備

クッキーと先輩

 高校三年間の青春とは、人生の体感時間の六分の一を占める非常に重要な期間である。では、そんな時期を何にも打ち込まず、ただ日々が過ぎていくのを傍観することは無意味なのだろうか。僕は、そうは思わないのだ。毎日面倒事も無く、平和に過ごせればそれでいいではないか。むしろそれが無意味であっても構わないほど、僕はこの変わり映えのな日々を愛している。

 今日も部室は静かだ。外からは運動部の掛け声のようなものが聞こえてくる。下を覗けば、その主が野球部員だということが分かった。その声に耳を澄ませながら、今日の疲れを溜息として吐き出す――――突然扉が開いた。

「あれ、私が一番だと思ったのに」

 彼女は早坂モナミ。三年生の先輩である。彼女の赤縁メガネは今日も綺麗に澄んでいる。

「今日は最後のコマが早く終わったんですよ。遅くに来ると早坂先輩に定位置をとられちゃうでしょ」

 定位置とは、文芸部、部室の窓際にある一組の机と椅子である。僕は毎日ここに座って適当な本を読む。その内容が面白くなかろうと関係ない。ただ毎日、この席に座り、本を読むことが僕の生活の一部となっているのだ。

「そこ陽当たりが良くて寝るとすごーく気持ちいんだよ。私は今日どこで寝ればいいのよ」

「床があるでしょ」

「つれないなあー」

 言うと同時に、彼女は僕の目の前の机に腰かけた。

「行儀悪いですよ」

「床で寝るよかマシでしょうが」

「……」

 そのまま十数分が過ぎた。僕は本を読み、先輩は爪をいじったり、足をぶらぶらさせたり落ち着かない。すると突然こちらを向いて来た。不敵な笑みだった。嫌な予感がする――

「ところでさあ、君は我が文芸部に何をしに入ったのかなあ?入学してから二か月間、ずーっと部室に入り浸って本読んでるだけでしょ。部としては、活動しない生徒を部員としてここに置いておくことはできないんだよね。もちろんこの部室にも……」

「……何が言いたいんですか」

「もちろん私だって君とは親しい間柄を保っていたいのだよ。だからここは、WIN-WINで行こうじゃないか。君が私のお願いを聞いてくれれば、私も君のことを見逃してあげるのはどうかな」

 なるほど。僕はこの放課後の読書時間を守るためには、彼女の「お願い」とやらを聞き入れなければならないらしい。

「内容によります。言ってみてください」

 彼女は満面の笑みを浮かべて言った。

「一緒にクッキー焼こうよ」


 早坂モナミは学校の近所のマンションの一室に住んでいる。家族は母親しかいないらしく、平日は夜まで仕事に出ているらしい。

 父親は四年前に事故で亡くなったという。あの明るい先輩にこれ以上詮索するのは気が引けた。僕には、いつも笑顔を絶やさぬ彼女の暗い部分を見る勇気がなかったのだろう。

 彼女の父親は、お菓子作りが趣味だったらしい。特に紅茶のクッキーをよく焼いていたのだとか。

「私ね、お父さんの焼く紅茶のクッキーが大好きだったの」

 調理に取り掛かるために長い黒髪を後ろで結わえながら言った。

「それを今から作るんですか」

「そうなんだけど……なかなか上手くいかなくてね。材料の種類と量はお父さんの遺したレシピがあるから間違いないんだけど、なんか違う味になっちゃって……」

 お父さんはいつも、クッキーの生地を三人分作ってから、それを半分に分け、プレーン味と紅茶味でそれぞれ練り直していたという。それに習って彼女も作ったことがあったらしいのだが――

「紅茶味の方が、なーんか違う味になっちゃうんだよ。だから、君の知恵を借りながら作ってみようかなと思って」

「まあ、とりあえず手順を確認しながら作ってみましょうか」


「まず、室温でやわらかくしたバターを練っていきます」

「じゃあ、冷蔵庫から出してしばらく待たないとじゃないですか」

 すると彼女は得意げな顔でバターを取り出す。

「あらかじめ放置していたものがこちらになります」

 ……さすがだ。

「そして砂糖、小麦粉を少しずつ、混ぜながら加えます」

「えっ、砂糖70グラム?!こんなに使うんですか……」

「それは言わない約束でしょ……最後に手を使ってまとめたら、生地の完成です!」

 これで完成か。でも、恐らくここまではお父さんと同じものが作れているはずだ。問題は、この後茶葉を混ぜて作る紅茶味の生地の方だ。しかし、今のところ何も思いつかない。一体この先の工程でどのようなエラーが起こるのか。どのように防げばいいのか。「WIN-WIN」の関係を結んだ手前、失敗するのは目覚めが悪いだろう。

「思ってたより簡単ですね」

「まあね。お父さんもお菓子作り好きだったけど得意ってわけじゃなかったし、簡単なものしか作れなかったんだよね。でも、私は喜んで食べてたし、お父さんは何回も焼いてくれた。特に紅茶味の方は大好物でね、プレーンの方には全然手を付けないで、こっちばっかり食べてたの」

 彼女が時折見せる子供っぽさは昔からのものなのか……折角二種類あるなら両方食べてやればいいのに――あ、これが上手くいかない理由だったんだ。

「確証はありませんが、一つ思いつきました」


「本当にこれで大丈夫かな……」

 早坂モナミは、不安がっていた。あいにく僕の両親は健在だから、親を失った悲しみはわからない。彼女にとっては、紅茶のクッキーは父親の忘れ形見のようなものだったのかもしれない。それが再現しようにもできないとなると……なんとも居た堪れない。

「だめだったら、もう一回作りましょう」

 彼女が僕の方を見る。

「それって、一緒にってこと?」

「えっああ、まあ……」

 微妙な空気になってしまってしまった。沈黙を破ったのは、オーブンの音だった。

「あ、焼けたみたいだね……あっちい!」

「あー、慌てないでくださいよ。ちゃんとミトンを使って……」

 オーブンから出してしばらく置いておくと、まだ柔らかかった生地が固まって、クッキーになるのだ。二人で一枚ずつ持って、試食だ。

「では、乾杯」

 一口、食べてみる。とはいえ、本物の味を知らないので、成功かどうかはわからないが――

「……おいしい」

 早坂モナミは泣いていた。どうやら成功したらしい。


 材料の種類も量も、レシピがあるので間違っているはずがない。そして味が違うのは紅茶味のクッキーだけ。つまり、生地を半分に分けた後の工程が間違っている。そう思っていた。しかし実際は違った。間違っていたのは、そのものなのだ。

 早坂先輩は、紅茶味が好きで、プレーン味には手を付けなかったという。きっとお父さんは、最初に作ったときの彼女のがっつき様を見ていたのだ。そして、紅茶味ばかりを食べていることに気づいた。そして次からは、三人家族全員に半分ずつ行き渡るように作っていたクッキーを、彼女だけ全て紅茶味になるようにしたのだ。つまり、プレーン味と紅茶味が1対1になる分け方を、1対2にしたのだ。それに伴い、練りこむ茶葉の量も増やした。父親のレシピに書かれていた分量も、二回目以降の分量だったのだろう。しかし、そのレシピを再現しようとした彼女は、生地をしてしまい、生地に対する茶葉の量が多い状態でクッキーを作ってしまっていたのだ。これが、彼女が味に対して抱いていた違和感の正体である。

 そして今回は、生地を1対2に分け、茶葉の量もレシピの4/3倍にした。これでお父さんの紅茶クッキーが完璧に再現できたのである。


 家を出た後、早坂モナミは僕を駅まで送ってくれた。

「今日はありがと。無茶言ってごめんね」

「いえ、WIN-WINですから。約束を守ってくれればいいですよ」

 彼女は微笑んだ。目の周りはまだほんのりと赤かった。

「あの……お父さんは優しい人だったんですね」

 きっと先輩を、家族のことをよく見ていたから、わざわざクッキーの配分を変えることができたのだろうし、そんな気づくことのない気配りをすることができていた。

「私の自慢のお父さんだよ」


 電車に揺られながら、暮れなずむ春の夕空を見ていた。明日も部室に居よう。早坂モナミも来るだろうか。

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